第4話 存在がうるさい
空きコマ。
学食での鮭攻防戦と三限の講義を終えた橘は、大学構内のベンチで時間を溶かしていた。
空を見上げれば、雲がやる気なく流れている。
あの雲くらい何も考えずに生きられたら、たぶん人生はもっと楽だ。少なくとも、黒瀬の言葉を反芻するよりはずっと健全である。
黒瀬は、会話を終わらせる気がない。こちらが句点を打つたび、その横に勝手に「継続」と書き足してくるような男だ。
ただ、本当に嫌いならとっくに視界から消している。
案外、話していて退屈ではない。そこが一番腹の立つところだった。
そんなふうに考えていると、ふいに足元に何かがすり寄ってくる。
見下ろすと、茶トラの野良猫がいた。雑な毛並みで、眠たげな目をしている。
この大学周辺にたまに出没する猫だ。下手な学生より出席率が高い。
「あ、またあんたか。かわいー!」
橘はしゃがみ込み、ほとんど無意識の動きで猫の頭を撫でる。猫は当然のように喉を鳴らし、橘の足元を自分の領地にした。
「餌がない日でも来んの律儀だね。あんた、将来有望だよ」
その声は、黒瀬に向ける時より明らかに柔らかかった。
──少し離れた物陰で、黒瀬はそれを見ていた。
彼は無言で、橘と猫の距離だけを観察していた。
猫はなんの遠慮もなく橘の足元にいる。橘も自然にその頭を撫でている。拒絶も警戒もない。
あの夜、確かに距離はゼロになった。
けれど今日の橘は、昨日と何ひとつ変わらない顔で鮭を食べ、黒瀬に「来んな」と言った。
触れたことがあるのに、日常には入れていない。
「……何も言わない方が、君には近づけるんだね」
黒瀬の視線が橘の手元に落ちた。指先が雑に、しかし柔らかく猫に触れている。
猫は何もしなくても、愛を語らなくとも、そこにいるだけで触れてもらえる。
欲しいのは接触そのものではない。いや、接触もかなり欲しい。
けれどそれ以上に欲しいのは、橘が何も考えずに受け入れる距離だ。
橘は猫の額を撫でながら、ふと視線を上げた。
すると、物陰からこちらを見る不審者と目が合った。
「……あんた、何してんの」
「その子がどうして許されてるのか、考えてる」
「何の話?」
「その子は名前もないのに、君の足元にいる。近づいても拒絶されない。触れても逃げられない。君の膝に前足を乗せても許されてる」
「猫に戸籍求めんな。理由は猫だから以外にないだろ。人間みたいに変なことも言わないしな」
「……そうか。猫だから」
すると黒瀬はメモ帳を取り出し、真剣な顔で何かを書き込んだ。
「発話量、存在感、接近速度……許可条件の抽出」
「猫から何を履修してんだよ」
「君が無意識に受け入れる距離の研究だよ。君が笑ったら承認とみなす」
「ワンクリック詐欺の続編やる前に研究倫理通してこい」
黒瀬はそこでメモ帳を閉じた。
もう必要な情報は揃った、という顔で静かに踵を返す。
橘は猫を撫でたまま、その背中を見送った。
「……今、猫から何を持ち帰った?」
──それから十分ほど経った頃。
橘の視界の端で、嫌な予感しかしないものが動いた。
橘は反射的に振り向いた。
黒瀬だった。
しかも、頭には百円ショップで買ったような、安っぽい猫耳カチューシャをつけていた。
「……は?」
「……」
「いや黙ればいいって話じゃないから」
真顔だ。表情筋が完全に死んでいる。
黒のパーカーに猫耳という、どう考えても噛み合っていない格好だった。
「検証だよ」
「来んな。ホラーだから」
「猫で反応が変わるなら、僕でも再現できるはずだ。君が拒絶しないように、発話量と存在感も調整した」
「できてねぇよ、見た目が一番うるせぇ。存在感の主張が駅前広告なんだよ」
黒瀬がスッと距離を詰める。無駄に速い。
目の前では本物の猫が「なんだこいつ」といった顔で毛繕いをしている。差は明白だった。
黒瀬は自分の猫耳を触り、真剣な面持ちで顎に手を当てた。
「……違うな。耳だけじゃ足りない」
「あー……まさか猫の真似しようとしてる? 無理だからやめとけ」
「今は、ね」
「未来も無理だよ。これ以上地獄を増やすな」
橘は呆れと拒絶半々に吐き捨て、しゃがんだまま猫の頭を撫でる。
黒瀬は一瞬だけ考え込み、視線を落とした。
橘に触れている猫に対し、自分は一歩近づいただけで拒絶される。その違いを、ほとんど執念に近い集中で見ていた。
「……そうか。形を真似ても意味がない。必要なのは自然にそこにいることか。接近の許可条件が僕にないんじゃなくて、猫に付与されてるんだ」
「いや猫だからだよ」
橘は咄嗟に立ち上がった。
この狂気に関わっていたら、人間としての正常な部分まで猫耳に食われそうだ。
「待って。なら次は、形じゃなく挙動を寄せる。君の横を猫のように音を消して歩くんだ」
「足音消せても存在がうるさいっつの」
橘はいつもよりわずかに早足で歩き出した。
が、背後に気配が着いてくる。足音はほとんどないのに、振り返らなくても誰かわかる気配の強さ。消せていないのは音ではなく存在そのものだ。
ふと視線だけ後ろに流すと、黒瀬が一定距離を保ちながら追尾していた。
しかも、
(まだ付けてんのかよ……)
頭には、安っぽい猫耳カチューシャが健在。
外すタイミングを完全に見失っているのか、そもそも外す発想がないのか。どっちにしろ最悪である。
「……あ、今の、君との同調率は悪くないかも。歩幅のズレは修正できる」
「考察きっしょ」
「猫はね、近づかない。追い越さない。急がない。ただ、隣に存在する。距離を詰めなくてもそこにいられるから」
「ストーキングしながら猫の哲学語ってて草」
通りすがりの学生たちが、明らかに距離を取る。
「なんで猫耳?」
「橘の新しいペットだろ」
「顔が強いペット、治安悪すぎる」
橘は「だる」と呟きながら歩き続けた。
だるい。かなりだるい。
それなのに、猫耳をつけたまま真剣に歩幅を合わせてくる黒瀬の顔が、あまりにも無駄に整っていた。しかも本人は一ミリもふざけていない。
そこまで来ると、もう怖いを通り越して、じわじわ面白くなってくる。
ふと、橘は思いついたように立ち止まる。
「あ、じゃあさ!」
「うん」
黒瀬の反応が異常に速いところだけは、少し猫っぽい。
「そんなに私に近づきたいなら、犬の真似くらいしてみなよ。今、周りに人いる前で」
ただの軽口だった。
さすがのこいつでも無理だろう、という雑な煽り。
──の、はずだった。
「わん」
即答だった。
しかもそのまま、黒瀬はその場にしゃがみ込んだ。綺麗に迷いなく、完璧な「お座り」の姿勢で。
「……は?」
周囲の視線が一斉に突き刺さる。何人かの学生が足を止めた。
「……え、なにあれ」
「犬?」
「猫耳なのに?」
「保健所に連絡かな」
「人間だよ、ギリ」
周囲の判断が、どんどん人間から離れていく。
しかし黒瀬は気にしていない。羞恥心が死んでいるのではなく、橘以外の視線が彼の中で背景として処理されているのだ。
「社会性どこに置いてきた? 猫耳買った店?」
「わんわん!」
しかも声がデカくなり、勢いを増してきた。黒瀬は一切躊躇わず、ただ橘だけを見ている。
橘は数秒、完全に黙り込んだ。
(……止まれよ、普通。恥ずかしくないの?)
止まらない。むしろじっと橘を見て、何かを待っている。
(……なんか、お座りの完成度高くね?)
目が合った瞬間、橘は急に笑いが込み上げて、たまらず口元を押さえた。
「……っ、やば」
「……似合ってる?」
「いや全然。客観的にはただの恐怖映像だけど、ネタとしては最高」
顔面だけなら上位の男が猫耳をつけ、犬の真似をするという属性の大渋滞。
猫なのに犬。意味がわからない。
橘はついに耐えられなくなった。
「っはは、あははは! やば……っ!」
「わん! わん!」
またしても即答。姿勢はそのまま。
黒瀬が迷いのない動きで手を差し出した。
「……え、これお手待ち?」
「この方が、接触の成功率が高い」
「なんでやると思った? 思考そこまで来てんの怖っ」
「わんわん!」
「やめろってマジで……っ! 犬としての圧だけ上げんな!」
橘はもう立っていられなくなり、その場にしゃがみ込んだ。しかし笑いすぎて震えながらも、その手には触れない。
黒瀬の手は、行き場を失ったまま宙に浮いている。
それでも黒瀬は姿勢を崩さない。背筋はまっすぐで、膝の位置も安定している。
周囲の学生も完全に巻き込まれていた。
「動画撮っていいやつ?」
「ダメ。本気だから余計ダメ」
誰も止めない。
黒瀬は真剣、橘は笑っている。
その足元では、本物の猫が何事もなかったかのように喉を鳴らした。
しかも猫は、差し出された黒瀬の手を一瞥すると、ふいっと顔を逸らし、橘の足元へ体をすり寄せた。
「猫にも負けてんじゃん」
「まだ比較対象として成立していない。種族差がある」
「種族差の前に尊厳差があるんだよ」
猫は返事の代わりに、黒瀬の靴紐を前足でぺしっと軽く踏んだ。
「……今のは拒絶?」
「自然界からの停止命令」
触れられているのは猫だけ。黒瀬の手は、空中に差し出されたままだ。
橘はひとしきり笑ったあと、涙目のまま手を振る。
「もーマジ無理、腹痛い……っ、じゃ、そろそろ行くから、ぷっ……くく」
そのまま橘は息が乱れた状態で背を向け、歩き出した。猫は当然のように後ろをついていく。
周囲の学生たちはまだヒソヒソと話しながら、遠巻きに好奇の視線を向けている。
「本物の猫はついてった」
「偽物は?」
「置いていかれた」
黒瀬は、まだ手を差し出した姿勢のまま、一秒だけ固まっていた。
◇◇
橘は笑いすぎて痛む腹を押さえながら、猫を引き連れて構内の外れへ向かった。
建物の裏手に回った途端、一気に人の気配が薄くなる。講義棟の喧騒は壁一枚向こうへ押しやられ、代わりに風の音だけが残った。
一台だけぽつんと置かれた自販機の横に、色褪せたベンチが二つ。
橘はベンチに腰を下ろし、ようやく一息ついた。
「……はー、マジ無理。えぐかったわ」
足元では、茶トラが何事もなかったように前足を揃えて座っている。
こっちは可愛い。さっきのは可愛くない。方向性の違いだ。
橘が屈んで頭を撫でると、猫は当然のように喉を鳴らした。
「あんただけだよ、この大学でまともなの」
そのときだった。
「……まだ笑ってる?」
「わっ!?」
背後から落ちてきた声に、橘の肩が跳ねる。
反射的に振り向くと、背後に黒瀬が立っていた。
猫耳はもう外していたが、外す判断に十分かけた時点で社会復帰は難しい。
「ちょ、ビビらせんなよ。何、第2ラウンド?」
「違う。確認したいことがある」
黒瀬はすぐには近づかなかった。
夕陽を背にしたまま一定の距離で止まっていた。
「君は、ああやって誰にでも笑うの?」
「面白ければ誰にでも笑うけど」
「……そう」
黒瀬はそれきり黙った。何かを計算するみたいに、じっと橘を見ている。
「条件が見えた」
「なんの?」
「君が逃げない形」
風が一瞬だけ止む。
橘はそこでようやく、黒瀬の方をちゃんと見た。彼の表情も立ち方も、先ほどとは打って変わって不気味なくらいに落ち着いている。
「絶対ろくでもないやつじゃん」
「そうでもないよ。今のところは、まだ」
黒瀬はわずかに口角を上げる。それは笑顔に見えなくもなかったが、目がまったく笑っていなかった。
「君の今日の反応は悪くなかった」
「そりゃ笑うだろ。猫耳でわんわん言うイケメンなんてあんたしかいねぇよ」
「でもお手による接触は、現時点では通らないんだね」
「募集してねぇんだよ、その枠」
黒瀬はそれ以上は何も言わず、ゆっくりと一歩だけ下がった。必要な話は終えたようだった。
「……じゃあ、また」
黒瀬はそのまま踵を返して去っていく。
残された橘は足元の猫を見下ろし、だるそうに息を吐いた。
「なにあれ。予告型の不審者とか新ジャンルすぎんだろ」
とはいえ、何が起こるかまでを考えるのはカロリーの無駄である。
ただ、笑ってしまったのは事実だ。事故物件みたいな男の奇行に腹を抱えて笑ってしまったのは少しだけ悔しい。あれで顔が悪かったら即通報なのに、顔が良いせいで一瞬だけ判断がバグる。
「顔面って、治安悪いな……」
橘は猫の頭を撫でた。
「唯一の癒し枠に感謝だわ。あんたは顔で治安壊さないもんね」
茶トラは喉を鳴らした。
だが、黒瀬が最後に言った「条件が見えた」という言葉が、わずかに耳に残っていた。
条件。
何の。
誰の。
考えたところで、どうせろくな答えにはならない。猫耳で犬になる男の思考回路なんて、まともに追うだけ損である。
だから橘は、考えるのをやめた。
◇◇
その日の夜。
黒瀬は『聖域』こと自室で、今日の検証結果を整理していた。
机の端には、役目を終えた猫耳カチューシャが転がっている。百円ショップの商品にしては、黒瀬の社会的尊厳をかなり広範囲に破壊した。
開かれたノートには、几帳面な文字が並んでいた。
──対象、猫への接触距離0
──対象、自分への接触距離+2歩
──猫、同行を許可される
──自分、同行を拒否される
──犬型模倣、笑いを誘発
──接触失敗
──猫による靴紐踏みつけ
──自然界からの停止命令
比べるまでもない。ただの敗北記録だった。
黒瀬はペン先を止める。
「……猫は、ずるい」
猫は何も言わない。
愛を語らない。契約を求めない。位置情報も聞かない。ただそこにいるだけで、橘の方から触れてもらえる。
一方、黒瀬は一歩近づいただけで「来んな」と言われる。
「こっちは猫耳までつけたのに」
そこで黒瀬の視線が、机の端に転がった猫耳カチューシャへ落ちる。
「猫には首輪をつける」
そこで、ペンが止まった。
本人が拒絶されるなら、本人ではないものを先に置けばいい。
黒瀬が触れなくても、黒瀬の代わりになるものが橘へ触れていればいい。
──首輪。
「……名前が露骨すぎる」
響きがよくない。橘が聞いた瞬間に「きっしょ」と言う未来がかなり高精度で見える。
だが問題は名称だけだった。
黒瀬は一度ペンを置き、自分の手首を見る。
そして静かに結論を出し、ノートに小さく書き足した。
──実質、首輪ではない。
黒瀬はその一文を二重線で囲んだ。強調するほど倫理的になるわけではないが、本人の中では承認されていた。
ノートを閉じると、乾いた紙の音が静かな部屋に響いた。
そして誰に聞かせるでもなく、静かに呟いた。
「君が自分でつけるものにする」
ほんの少しだけ、口元を緩める。
「次は、拒絶されない形で君のそばに置くよ」




