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黒瀬によれば、これは純愛らしい。  作者: 柊ナツキ
第1章『まだ隣にはいられない』

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第3話 解約窓口はない

 さっきまで練習していた日常会話の温度が、その声から消えていた。

 橘はコップを置き、首を傾げる。


「昨日のどれ?」


「どれ」


 黒瀬が小さく反復する。「どれ」と聞かれたこと自体が気に入らないらしい。


「全部だよ。君が笑ったことも、出ていったことも、戻らなかったことも」


「あー、あれか」


 橘は雑に頷いた。

 聖域こと黒瀬の自宅で起きた一悶着。覚えているが、特別な出来事として胸の中にしまっておくほどのものでもない。


「なんか重かったやつね。昨日は朝から湿度高すぎて逆にウケたわ。利用規約みたいな愛を読み上げてたね」


 黒瀬はすぐには返さなかった。


「君にとって、あれはその程度なんだね」


「1回寝ただけで契約だの一生だの言い出したら、そりゃ重いだろ。こっちは同意してないし」


「したよ。寝る前に『はいはい承認、知らんけど』って」


「最後の五文字で無効だろ」


「『知らんけど』は承認後の注釈であって、撤回ではない。君が軽く流した言葉ほど僕は忘れないよ。僕の中では、全部そのまま残ってる」


「ワンクリック詐欺じゃん」


「詐欺じゃない。解約窓口がないだけだよ」


 冗談のつもりはないらしい。黒瀬が訂正したことで悪質さは一段増していた。


「だからさ、ああいうのやるならもうちょい段階踏め。初手から終身契約は飛ばしすぎでしょ」


「段階なら踏んだよ。確認、承認、保存まで全部終わってる」


「全部あんた側じゃん。恋愛でワンオペ決裁すんな」


 隣の席では、誰かが味噌汁の薄さに文句を言っていた。

 その横で黒瀬だけは、人生の所有権について話している。学食の場で語る思想ではない。


 橘は目も合わせず、だるそうに鮭をつついた。


「てか、朝イチで聞く量じゃないんだよあれ。胃もたれしたわ」


「……君は、僕の人生最大の更新を、食後の不調みたいに扱うんだね」


「食前だったから余計きつい」


 黒瀬は黙った。訂正されたのは比喩ではなく、胃もたれの発生時刻だった。


「……そうやって、また軽くする」


 そこでようやく橘は鮭から顔を上げた。


「え、何。まだちょいキレてる?」


「……キレてないよ。記録してるだけ」


「あっそ。キレながらログ取ってんじゃん」


 黒瀬は何も言わなかった。感情を飲み込むように静かに視線を落とした。


 橘は最後の一口を食べ終え、トレーを持ち上げる。


「じゃ、もう行くけどついて来んなよ」


「考えておく」


「却下しろって言ってんの」


 橘が立ち上がると、黒瀬は追ってこなかった。ただ、橘が離れていくタイミングに合わせてわずかに首を傾げた。


「……逃げても、意味ないのに」


 そのまま、黒瀬もゆっくり立ち上がる。


「……次の講義、同じだし」


 ◇◇


 講義中の黒瀬は、一見すると普通だった。


 教授の話を聞き、指名されれば間を置かずに正答する。その受け答えだけ見れば、ただ成績のいい静かな学生だ。


 しかし、ノートの中身だけが違う。


 日付、時刻、座席位置。

 橘の行動ログが几帳面な文字で整然と並んでいる。


 ──13:02 欠伸(右手で口元を隠す)

 ──13:07 ペン回し3回(成功率66%)

 ──13:11 隣席の男子を無視

 ──評価 : 良い判断


 ──13:14 教授の冗談に無反応

 ──評価 : 不要な愛想なし


 講義内容は一行も書かれていない。

 そのくせ、黒板の要点も教授の発言もしっかり把握して、試験は高得点を取る。


 周囲から見れば、少し静かなだけの学生。

 しかし本人の中では、講義室そのものが橘めるを観測するための箱だった。


 黒瀬は顔を上げて、少し前の席にいる橘を見た。


 ピンクベージュの髪。目元の雑なラメが光を拾って目立つ。顔立ちは平均以上。整っているのに作り込まれていない。

 総合評価──上位個体。


 そこで一度、黒瀬はペンを止めた。

 評価という形式に落とすには、少しだけ情報量が多すぎる。


「……今日も、ちゃんと存在してる」


 ──初めて見たあの日と、同じ顔で。


 黒瀬はノートの端に、小さく日付を書いた。

 今日の日付ではない。

 今日よりずっと前、橘と初めて言葉を交わした日付だった。


 ──対象、視線を逸らさない。

 ──拒絶語あり。会話継続。

 ──「きっしょ。で、結局なにが言いたいの?」


 黒瀬はその一文を見返した。


 普通なら、そこで会話は終わる。笑って誤魔化されるか、距離を取られるか、いなかったことにされる。


 でも橘は、最後まで聞いた。

 拒絶の形をしていたとしても、黒瀬にとっては、初めて自分の言葉が最後まで届いた瞬間だった。


 黒瀬は小さく頷くと、またノートへ視線を落とした。


 ──13:18 対象、退屈

 ──今日も、目を離す理由がない。


 黒瀬はその一行だけを書き足して、満足そうにペンを置いた。

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― 新着の感想 ―
黒瀬君の異常さがじわじわと・・・
ここまで読ませていただきました〜、キャラの濃い方ばかりで、見ていて飽きないのはとても良いことだと思います。 確かに括りが難しく万人受けを狙うことは困難かもしれませんが、先生が書きたい作品を書くのが一番…
これを純愛というカテゴリーで捉える黒瀬君のメンタルが心配になります。橘も、その他大勢の一人としてしか見ていない関係。危うさを感じてしまいますが……
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