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黒瀬によれば、これは純愛らしい。  作者: 柊ナツキ
第1章『まだ隣にはいられない』

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第3話 猫以下の距離感

 

 唐突で、躊躇いのない切り出しだった。橘はコップを置いて首を傾げる。


「昨日のどれ?」


「どれ」


 黒瀬が小さく反復する。その声はさっきよりもほんの少し低くて冷たさがあった。

 学食のざわめきに紛れていたはずの声が、今は妙に輪郭を持って耳に残る。


「全部だよ。僕が君に話したことも、君が出ていったことも、その後のことも」


「あー、あれか」


 橘は雑に頷いた。

 聖域こと黒瀬の自宅で起きた一悶着。覚えているが、特別な出来事として胸の中にしまっておくほどのものでもない。


「なんか重かったやつね。朝から湿度高すぎて逆にウケたわ。利用規約みたいな愛を読み上げてたね」


 黒瀬はすぐには返さなかった。感情の読めない視線からわずかな温度の低さが滲む。

 学生たちの笑い声が響く中で、黒瀬だけが纏う空気は妙に重い。


「君にとって、あれはその程度なんだね」


「1回寝ただけで契約だの一生だの言い出したら、そりゃ重いだろ。こっちは同意してないし」


「したよ」


「してねぇよ。なんで勝手に承認済みにしたんだよ」


「君が覚えてないだけ。君が軽く流した言葉も、笑った顔も、帰る時に振った手も、僕の中には全部残ってるんだ。あれを取り消すことはできないんだよ」


「ワンクリック詐欺じゃん」


「詐欺じゃない。解約窓口がないだけだよ」


 冗談のつもりはないらしい。

 黒瀬は本当に、分類を訂正しただけと言った感じで淡々としていた。


「余計に悪質だわ。あんたさ、ああいうのやるならもうちょい段階踏め。初手から終身契約は飛ばしすぎでしょ」


「段階なら踏んだよ。確認、承認、保存まで全部終わってる」


「全部あんた側じゃん」


「僕の中では、処理が止まる理由がなかった」


「恋愛でワンオペ決裁すんな」


 橘は目も合わせず、だるそうに鮭をつついた。


「てか、朝イチで聞く量じゃないんだよあれ。胃もたれしたわ」


「……君は、僕の一番大事な瞬間を、食後の不調みたいに扱うんだね」


「食前だったから余計きつい」


 黒瀬の視線が、少しだけ冷えた。


「……そうやって、また軽くする」


 不服そうな声に、橘が少しだけ顔を上げた。


「え、何。まだちょいキレてる?」


「……キレてないよ。記録してるだけ」


「あっそ。キレながらログ取ってんじゃん」


 全く信じていない橘の返事。

 それでも、黒瀬はそれ以上は言わなかった。感情を飲み込むみたいに、静かに視線を落としただけだ。


 橘は最後の一口を食べ終え、トレーを持ち上げる。


「じゃ、もう行くけどついて来んなよ」


「考えておく」


「却下しろって言ってんの」


 橘が立ち上がると、黒瀬は追ってこなかった。ただ、橘が離れていくタイミングに合わせてほんの少しだけ首を傾げた。


「……逃げても、意味ないのに」


 そのまま、黒瀬もゆっくり立ち上がる。


「……次の講義、同じだし」


 ◇◇


 講義中の黒瀬は、一見すると普通だった。


 教授の話を聞き、指名されれば間を置かずに正答する。その受け答えだけ見れば、ただ成績のいい静かな学生だ。


 しかし、ノートの中身だけが少し違う。


 日付、時刻、座席位置。

 橘の行動ログが几帳面な文字で整然と並んでいる。


 ──13:02 欠伸(右手で口元を隠す)

 ──13:07 ペン回し3回(成功率66%)

 ──13:11 隣席の男子を無視

 ──評価 : 良い判断


 ──13:14 教授の冗談に無反応

 ──評価 : 不要な愛想なし


 講義内容は一行も書かれていない。

 そのくせ、黒板の要点も教授の発言もしっかり把握して、試験は高得点を取る。


 周囲から見れば、彼もまた『少し静かなだけの学生』に過ぎない。

 ただ一つ違うのは──


 彼の世界の中心が、橘めるただ一人で構成されているということだけ。


 講義中、黒瀬はペンを止めると、ゆっくりと顔を上げた。

 教室の少し前で、橘は退屈そうに頬杖をついている。


 ピンクベージュの髪。目元の雑なラメが光を拾って妙に目立つ。

 顔立ちは平均以上。整っているのに作り込まれていない。

 総合評価──上位個体。


「……今日も、ちゃんと存在してる」


 ──初めて見たあの日と、同じ顔で。


 普通の人間は、黒瀬と関わると途中で視線を逸らすか、笑って誤魔化すか、そのどちらかだった。


 でも橘は違う。


 初めて話した日もそうだった。

 黒瀬が言葉を選びすぎて会話を壊しかけたとき、橘は途中で逃げなかった。

 ただ眉をひそめて、「きっしょ。で、結局なにが言いたいの?」と言った。


 本来なら、ただの拒絶である。

 でも黒瀬にとっては、初めて会話が最後まで届いた瞬間だった。


 一度寝たから始まったわけではない。もっと前から、彼の中ではもう決まっていたことだ。


 黒瀬は小さく頷くと、またノートへ視線を落とした。


 ──13:18 対象、退屈

 ──今日も、目を離す理由がない。


 その一行だけを書き足して、彼は満足そうにペンを置いた。


 ◇◇


 空きコマ。

 学食での鮭攻防戦と3限の講義を終えた橘は、大学構内のベンチで時間を溶かしていた。


 空を見上げれば、雲がやる気なく流れている。

 あの雲くらい何も考えずに生きられたら、たぶん人生はもう少し楽だ。少なくとも、黒瀬の言葉を朝から反芻するよりはずっと健全である。


 あの男は、何を言うにも湿度が高い。重いし、面倒だし、たまに愛情表現が利用規約みたいになる。


 ただ、本当に嫌いならとっくに視界から消している。話していて退屈ではない。

 そこが一番腹の立つところだった。


 そんなふうに考えていると、ふいに足元に何かがすり寄ってくる。


 見下ろすと、茶トラの野良猫がいた。雑な毛並みで、眠たげな目をしている。


「あ、またあんたか。かわいー!」


 よくこの大学周辺に出没する猫だ。

 橘はしゃがみ込み、ほとんど無意識の動きで猫の頭を撫でた。猫は喉を鳴らし、橘の足元を陣地と定めた。


「餌がない日でも来んの律儀だね。あんた、将来有望だよ」


 少なくとも今、この猫は大学生活におけるかなり上位の癒しだった。

 橘はそんなふうに感心しながら背中を撫でる。



 ──橘と猫の戯れを、少し離れた場所から見ている男がいた。

 黒瀬である。


 物陰に半分だけ身を隠しながら、彼は無言で橘と猫の距離を観察していた。

 猫は当然のように橘の足元にいる。橘も当然のように撫でている。拒絶も警戒もない。


 昨夜、確かに距離はゼロになった。

 けれど今日の橘は、昨日と何ひとつ変わらない顔で鮭を食べ、黒瀬に「来んな」と言った。


 触れたことがあるのに、日常には入れていない。

 黒瀬にとってその矛盾はひどく不快だった。


「……そっちは、いいんだ。言葉も通じないのに」


 黒瀬の視線が橘の手元に落ちた。指先が雑に、しかし柔らかく猫に触れている。

 猫は何もしなくても、愛を語らなくとも、そこにいるだけで触れてもらえる。


「なんでだろうね」


 触れたいのではない。いや、触れたいに決まっている。

 けれどそれ以上に欲しいのは、橘が何も考えずに受け入れる距離だ。



 橘は、猫の額を撫でながらふと視線を上げた。すると、物陰からじっとこちらを見る不審者と目が合った。


「……あんた、何してんの」


「その子がどうして許されてるのか、考えてる」


「何の話?」


「その子は近づいても拒絶されない。触れても逃げられない。君の膝に前足を乗せても許されてる」


「理由は猫だから以外にないだろ。あと、猫は人間みたいに喋らないから可愛い」


「……そうか。わかった」


 黒瀬はメモ帳に何かを書き込んだ。


「発話量、存在感、接近速度……許可条件の抽出」


「猫から何を履修してんだよ」


 黒瀬はそこでメモ帳を閉じた。

 もう必要な情報は揃った、という顔で静かに踵を返す。


 橘は猫を撫でたまま、その背中を見送った。


「……今、猫から何を持ち帰った?」


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― 新着の感想 ―
これを純愛というカテゴリーで捉える黒瀬君のメンタルが心配になります。橘も、その他大勢の一人としてしか見ていない関係。危うさを感じてしまいますが……
拝読させていただきました! まさかの狂気的な恋愛の物語でびっくりしました! まだ、主人公の一方的な関係に見えますが、これからどうなってゆくのか…。 主人公もヒロインの性格もどちらもひとくせある印象な…
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