第3話 解約窓口はない
さっきまで練習していた日常会話の温度が、その声から消えていた。
橘はコップを置き、首を傾げる。
「昨日のどれ?」
「どれ」
黒瀬が小さく反復する。「どれ」と聞かれたこと自体が気に入らないらしい。
「全部だよ。君が笑ったことも、出ていったことも、戻らなかったことも」
「あー、あれか」
橘は雑に頷いた。
聖域こと黒瀬の自宅で起きた一悶着。覚えているが、特別な出来事として胸の中にしまっておくほどのものでもない。
「なんか重かったやつね。昨日は朝から湿度高すぎて逆にウケたわ。利用規約みたいな愛を読み上げてたね」
黒瀬はすぐには返さなかった。
「君にとって、あれはその程度なんだね」
「1回寝ただけで契約だの一生だの言い出したら、そりゃ重いだろ。こっちは同意してないし」
「したよ。寝る前に『はいはい承認、知らんけど』って」
「最後の五文字で無効だろ」
「『知らんけど』は承認後の注釈であって、撤回ではない。君が軽く流した言葉ほど僕は忘れないよ。僕の中では、全部そのまま残ってる」
「ワンクリック詐欺じゃん」
「詐欺じゃない。解約窓口がないだけだよ」
冗談のつもりはないらしい。黒瀬が訂正したことで悪質さは一段増していた。
「だからさ、ああいうのやるならもうちょい段階踏め。初手から終身契約は飛ばしすぎでしょ」
「段階なら踏んだよ。確認、承認、保存まで全部終わってる」
「全部あんた側じゃん。恋愛でワンオペ決裁すんな」
隣の席では、誰かが味噌汁の薄さに文句を言っていた。
その横で黒瀬だけは、人生の所有権について話している。学食の場で語る思想ではない。
橘は目も合わせず、だるそうに鮭をつついた。
「てか、朝イチで聞く量じゃないんだよあれ。胃もたれしたわ」
「……君は、僕の人生最大の更新を、食後の不調みたいに扱うんだね」
「食前だったから余計きつい」
黒瀬は黙った。訂正されたのは比喩ではなく、胃もたれの発生時刻だった。
「……そうやって、また軽くする」
そこでようやく橘は鮭から顔を上げた。
「え、何。まだちょいキレてる?」
「……キレてないよ。記録してるだけ」
「あっそ。キレながらログ取ってんじゃん」
黒瀬は何も言わなかった。感情を飲み込むように静かに視線を落とした。
橘は最後の一口を食べ終え、トレーを持ち上げる。
「じゃ、もう行くけどついて来んなよ」
「考えておく」
「却下しろって言ってんの」
橘が立ち上がると、黒瀬は追ってこなかった。ただ、橘が離れていくタイミングに合わせてわずかに首を傾げた。
「……逃げても、意味ないのに」
そのまま、黒瀬もゆっくり立ち上がる。
「……次の講義、同じだし」
◇◇
講義中の黒瀬は、一見すると普通だった。
教授の話を聞き、指名されれば間を置かずに正答する。その受け答えだけ見れば、ただ成績のいい静かな学生だ。
しかし、ノートの中身だけが違う。
日付、時刻、座席位置。
橘の行動ログが几帳面な文字で整然と並んでいる。
──13:02 欠伸(右手で口元を隠す)
──13:07 ペン回し3回(成功率66%)
──13:11 隣席の男子を無視
──評価 : 良い判断
──13:14 教授の冗談に無反応
──評価 : 不要な愛想なし
講義内容は一行も書かれていない。
そのくせ、黒板の要点も教授の発言もしっかり把握して、試験は高得点を取る。
周囲から見れば、少し静かなだけの学生。
しかし本人の中では、講義室そのものが橘めるを観測するための箱だった。
黒瀬は顔を上げて、少し前の席にいる橘を見た。
ピンクベージュの髪。目元の雑なラメが光を拾って目立つ。顔立ちは平均以上。整っているのに作り込まれていない。
総合評価──上位個体。
そこで一度、黒瀬はペンを止めた。
評価という形式に落とすには、少しだけ情報量が多すぎる。
「……今日も、ちゃんと存在してる」
──初めて見たあの日と、同じ顔で。
黒瀬はノートの端に、小さく日付を書いた。
今日の日付ではない。
今日よりずっと前、橘と初めて言葉を交わした日付だった。
──対象、視線を逸らさない。
──拒絶語あり。会話継続。
──「きっしょ。で、結局なにが言いたいの?」
黒瀬はその一文を見返した。
普通なら、そこで会話は終わる。笑って誤魔化されるか、距離を取られるか、いなかったことにされる。
でも橘は、最後まで聞いた。
拒絶の形をしていたとしても、黒瀬にとっては、初めて自分の言葉が最後まで届いた瞬間だった。
黒瀬は小さく頷くと、またノートへ視線を落とした。
──13:18 対象、退屈
──今日も、目を離す理由がない。
黒瀬はその一行だけを書き足して、満足そうにペンを置いた。




