第2話 鮭定食、ヤンデレ付き
聖域が構築された翌日。
橘にとって、昨日の朝の出来事は「ちょっとうるさかった」程度の分類に収まっていた。今は昼飯を何にするかの方がよほど切実である。
昼の無響大学は、今日も何事もなく、どこにでもある普通の大学として機能していた。
昨日、誰かが部屋で監禁まがいの愛を叫んでいようが、大学は知ったことではない。
二限目終わりの廊下には、購買のパンをくわえた学生、レポートの愚痴を垂れ流す学生、次の講義をサボる相談をする学生が好き勝手に散っていた。
掲示板にはサークル勧誘のビラが何枚も重なり、その端には誰かの字で「単位ください」と書かれていた。
階段の踊り場には「ここ電波入るから」と謎の理由で居座る集団がいる。
大学とは、意味の薄い人間と情報がやたら密集している場所だ。
「次の講義だっる。ピ逃げするわ」
「チクるぞ」
「密告文化やめろよ」
そんなくだらない会話を聞き流しながら、橘は吉田つきのと並んで学食へ向かっていた。
「めるちゃんは次出る?」
「とりま講義室前までは行くわ。なんか出席した気分になるし」
「出る気ゼロのやつの言い方なんだよね。出席の概念に失礼」
「概念って傷つくことあんの?」
「めるちゃんの出席率見たら泣くと思う」
講義は気分で出るし、課題は締切前に思い出せば勝ち。男子の話は適当に流し、女子とは軽口を叩き、空きコマはどこかで溶かす。
深く関わらず、深く考えない。それで困るほど、大学生活は繊細にできていない。
橘は、だいたいそうやって生きている。
学食の入口には、今日もそれなりの列ができていた。
食券機の前で悩む学生、その後ろで無言の圧を放つ学生、横で「今日の唐揚げ当たりらしいぞ」と根拠のない噂を流す学生。
誰も彼も好き勝手だが、不思議と流れは成立している。
橘は食券機の前で腕を組んだ。
「鮭か唐揚げか……いやでも唐揚げ重いんだよな」
「後ろ詰まってるよ。めるちゃん早く」
「ちょい待ち、こういうのは真剣勝負だから。午後の私を左右する重大分岐なんだよ」
「人生のスケールちっさ」
結局鮭を選んだ。数分も悩んで、理由は「なんとなく」。人生の重要な決定事項も八割はなんとなくで決まる。
席に着いて箸を割ったとき、向かいに座るつきのがスマホを見て「あ」と声を上げる。
「ごめ、ゼミの子に呼ばれた。ちょい向こう行くね」
「マジ? 秒でぼっち確定じゃん」
つきのはすぐには答えず、橘の背後を一瞬だけ見た。
「……あー、大丈夫。めるちゃんの向かいならすぐ埋まる」
「は?」
それだけ言い残して、つきのはあっさり人混みに消えた。
人の縁の軽さに定評のある大学だ。
橘は不服ながらも「まぁいいや」とつぶやき、鮭の皮を剥がそうとしたその時。
つきのが去ってからほとんど間を置かずに、椅子が引かれる音がした。
「……ん?」
──タイミングが、少しだけ良すぎた。
「ここにいたんだ」
顔を上げると、見覚えのある男がいた。
黒瀬じぇにだ。
彼はそのまま橘の目の前に座った。まるで最初からそこに座る予定だったみたいな顔で、自然に。
首元には、場違いな鎖デザインのチョーカー。無駄に整った顔面と、安定した立ち振る舞い。
そして、トレーがない。学食に来て、飯を持っていない。
だが、昨日意味不明なポエムを吐いて発狂していたとは思えないほど、大学生活への擬態精度だけは高い。
「どした? 昨日の発狂の続き?」
橘が言うと黒瀬はにこっと笑った。爽やか風味の笑顔は、やたら完成度が高くて腹立たしい。
「隣、いいかな」
「対面で言うなよ」
「そうだね」
会話が成立しているかは怪しいが、今に始まったことでもない。
「……今日もここに来ると思ってたよ、める」
「腹減ってたからね」
黒瀬は一瞬だけ黙った。
橘の返答を、どうにか自分に都合のいい意味へ変換しようとしているらしい。
「で、何の用。私を消しに来た?」
「消す? そんなもったいないことしないよ。君はずっと、僕の視界の中にいればいい」
「言い方こっわ。監視カメラかな?」
黒瀬は否定しなかった。否定してほしいところを、だいたい否定しない男である。
「それ、鮭なんだね」
「監視カメラ、魚種判定機能ついてんだ」
「見て分かったことを口に出すのが、日常会話の初手だって読んだ」
「なんか変な恋愛コラムでも読んだ?」
「選択としては妥当だと思う。今日の君の状態なら、脂質はそのくらいでいい」
「どういう基準?」
「今日の活動量と、さっきの歩幅。それと、睡眠時間も含めて」
「やたら細かくてきも。学食に人間ドック持ち込むな」
「でも今の、会話としては滑り出し悪くなかったよね? 拒絶から日常会話に移行、かなり自然にできたと思うんだけど」
「拒絶から始まってる時点で事故ってんだよ」
橘は鮭をほぐしながら黒瀬の顔を一瞬だけ見た。
(顔だけならイージーモードだったのにな、こいつ)
相変わらず、無駄に整っている。睫毛は長いし、鼻筋は通っているし、寝癖ひとつない。
大学のパンフレットに『理知的な学生代表』として載っていても違和感がない。問題は、彼の頭の中身が掲載事故なことだ。
「特に用ないなら別の席に行けば? 飯も食わずに何してんのさ」
「ここが一番、効率がいい」
「なんの?」
「……君との会話。今なら、まだ続きとして話せるから。時間が空くとまた、ただの他人になるだろ」
ほんの少し、間があった。
「さっきから会話成立してないけどな」
「そうだね」
こっちは即答だった。それで会話は終わったはずなのに、黒瀬は納得したような顔で頷く。
終わったはずの会話だけが、まだ二人の間に残っている。
鮭はうまい。
視線はうざい。
おおむねそういう昼休みだ。
橘が鮭の皮を箸でつまむと、黒瀬の視線がわずかに下がった。
「それ、残すなら僕が食べるよ。同じもの食べた方が、少しは共有できるし」
「昼飯の残骸で距離詰めようとすんな」
何を共有する気なのかはあえて聞かなかった。聞いたら説明される。
橘は即座に、いつもなら残すはずの鮭の皮を口にほおりこんだ。
「……食べるんだ。今日はそういう日なんだね」
「あんたに渡すくらいなら食うわ」
黒瀬は、鮭の皮を食べたという事実まで記録するように、静かに橘を見ていた。
周囲では食器の触れ合う音と、学生たちの笑い声が絶えず続いている。
その中で、黒瀬の声だけが急に低くなった。
「──昨日のこと、忘れてないよね」




