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黒瀬によれば、これは純愛らしい。  作者: 柊ナツキ
第1章『まだ隣にはいられない』

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第2話 鮭定食、ヤンデレ付き

 聖域が構築された翌日。


 橘にとって、昨日の朝の出来事は「ちょっとうるさかった」程度の分類に収まっていた。今は昼飯を何にするかの方がよほど切実である。


 昼の無響(むきょう)大学は、今日も何事もなく、どこにでもある普通の大学として機能していた。

 昨日、誰かが部屋で監禁まがいの愛を叫んでいようが、大学は知ったことではない。


 二限目終わりの廊下には、購買のパンをくわえた学生、レポートの愚痴を垂れ流す学生、次の講義をサボる相談をする学生が好き勝手に散っていた。


 掲示板にはサークル勧誘のビラが何枚も重なり、その端には誰かの字で「単位ください」と書かれていた。

 階段の踊り場には「ここ電波入るから」と謎の理由で居座る集団がいる。


 大学とは、意味の薄い人間と情報がやたら密集している場所だ。


「次の講義だっる。ピ逃げするわ」

「チクるぞ」

「密告文化やめろよ」


 そんなくだらない会話を聞き流しながら、橘は吉田(よしだ)つきのと並んで学食へ向かっていた。


「めるちゃんは次出る?」


「とりま講義室前までは行くわ。なんか出席した気分になるし」


「出る気ゼロのやつの言い方なんだよね。出席の概念に失礼」


「概念って傷つくことあんの?」


「めるちゃんの出席率見たら泣くと思う」


 講義は気分で出るし、課題は締切前に思い出せば勝ち。男子の話は適当に流し、女子とは軽口を叩き、空きコマはどこかで溶かす。


 深く関わらず、深く考えない。それで困るほど、大学生活は繊細にできていない。

 橘は、だいたいそうやって生きている。


 学食の入口には、今日もそれなりの列ができていた。


 食券機の前で悩む学生、その後ろで無言の圧を放つ学生、横で「今日の唐揚げ当たりらしいぞ」と根拠のない噂を流す学生。

 誰も彼も好き勝手だが、不思議と流れは成立している。


 橘は食券機の前で腕を組んだ。


「鮭か唐揚げか……いやでも唐揚げ重いんだよな」


「後ろ詰まってるよ。めるちゃん早く」


「ちょい待ち、こういうのは真剣勝負だから。午後の私を左右する重大分岐なんだよ」


「人生のスケールちっさ」


 結局鮭を選んだ。数分も悩んで、理由は「なんとなく」。人生の重要な決定事項も八割はなんとなくで決まる。


 席に着いて箸を割ったとき、向かいに座るつきのがスマホを見て「あ」と声を上げる。


「ごめ、ゼミの子に呼ばれた。ちょい向こう行くね」


「マジ? 秒でぼっち確定じゃん」


 つきのはすぐには答えず、橘の背後を一瞬だけ見た。


「……あー、大丈夫。めるちゃんの向かいならすぐ埋まる」


「は?」


 それだけ言い残して、つきのはあっさり人混みに消えた。

 人の縁の軽さに定評のある大学だ。


 橘は不服ながらも「まぁいいや」とつぶやき、鮭の皮を剥がそうとしたその時。


 つきのが去ってからほとんど間を置かずに、椅子が引かれる音がした。


「……ん?」


 ──タイミングが、少しだけ良すぎた。


「ここにいたんだ」


 顔を上げると、見覚えのある男がいた。


 黒瀬じぇにだ。


 彼はそのまま橘の目の前に座った。まるで最初からそこに座る予定だったみたいな顔で、自然に。

 首元には、場違いな鎖デザインのチョーカー。無駄に整った顔面と、安定した立ち振る舞い。


 そして、トレーがない。学食に来て、飯を持っていない。


 だが、昨日意味不明なポエムを吐いて発狂していたとは思えないほど、大学生活への擬態精度だけは高い。


「どした? 昨日の発狂の続き?」


 橘が言うと黒瀬はにこっと笑った。爽やか風味の笑顔は、やたら完成度が高くて腹立たしい。


「隣、いいかな」


「対面で言うなよ」


「そうだね」


 会話が成立しているかは怪しいが、今に始まったことでもない。


「……今日もここに来ると思ってたよ、める」


「腹減ってたからね」


 黒瀬は一瞬だけ黙った。

 橘の返答を、どうにか自分に都合のいい意味へ変換しようとしているらしい。


「で、何の用。私を消しに来た?」


「消す? そんなもったいないことしないよ。君はずっと、僕の視界の中にいればいい」


「言い方こっわ。監視カメラかな?」


 黒瀬は否定しなかった。否定してほしいところを、だいたい否定しない男である。


「それ、鮭なんだね」


「監視カメラ、魚種判定機能ついてんだ」


「見て分かったことを口に出すのが、日常会話の初手だって読んだ」


「なんか変な恋愛コラムでも読んだ?」


「選択としては妥当だと思う。今日の君の状態なら、脂質はそのくらいでいい」


「どういう基準?」


「今日の活動量と、さっきの歩幅。それと、睡眠時間も含めて」


「やたら細かくてきも。学食に人間ドック持ち込むな」


「でも今の、会話としては滑り出し悪くなかったよね? 拒絶から日常会話に移行、かなり自然にできたと思うんだけど」


「拒絶から始まってる時点で事故ってんだよ」


 橘は鮭をほぐしながら黒瀬の顔を一瞬だけ見た。


(顔だけならイージーモードだったのにな、こいつ)


 相変わらず、無駄に整っている。睫毛は長いし、鼻筋は通っているし、寝癖ひとつない。

 大学のパンフレットに『理知的な学生代表』として載っていても違和感がない。問題は、彼の頭の中身が掲載事故なことだ。


「特に用ないなら別の席に行けば? 飯も食わずに何してんのさ」


「ここが一番、効率がいい」


「なんの?」


「……君との会話。今なら、まだ続きとして話せるから。時間が空くとまた、ただの他人になるだろ」


 ほんの少し、間があった。


「さっきから会話成立してないけどな」


「そうだね」


 こっちは即答だった。それで会話は終わったはずなのに、黒瀬は納得したような顔で頷く。

 終わったはずの会話だけが、まだ二人の間に残っている。


 鮭はうまい。

 視線はうざい。

 おおむねそういう昼休みだ。


 橘が鮭の皮を箸でつまむと、黒瀬の視線がわずかに下がった。


「それ、残すなら僕が食べるよ。同じもの食べた方が、少しは共有できるし」


「昼飯の残骸で距離詰めようとすんな」


 何を共有する気なのかはあえて聞かなかった。聞いたら説明される。

 橘は即座に、いつもなら残すはずの鮭の皮を口にほおりこんだ。


「……食べるんだ。今日はそういう日なんだね」


「あんたに渡すくらいなら食うわ」


 黒瀬は、鮭の皮を食べたという事実まで記録するように、静かに橘を見ていた。

 周囲では食器の触れ合う音と、学生たちの笑い声が絶えず続いている。

 その中で、黒瀬の声だけが急に低くなった。


「──昨日のこと、忘れてないよね」

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― 新着の感想 ―
読みやすく、情景がイメージしやすい!応援してます。
価値観は違うのに何故か惹かれてしまう、そんな関係性が描かれていて面白いです! 続きも楽しませてもらいますね♪
面白いですね……! 会話が軽妙だけれどエッジが効いてると言うか(エッジって今は使われないかもですが)。 愛重はいろんな意味で怖い、というところが存分に出ていて良きです!
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