第1話 ヤバい部屋からチェックアウト
その部屋の空気は、例えるなら煮詰まりすぎたジャムだった。
ローズとサンダルウッドの香りに、夜通し『遊んだ』後の気配が混ざっている。甘く、重く、肺の奥に貼りつく。
昨日ここへ泊まったのは橘める自身の判断だ。そこまではいい。
問題は、朝になってから、部屋のほうが勝手に距離感を間違え始めたことである。
薄暗い室内を見渡せば、そこはもう立派な『橘める聖域』だ。
壁一面を埋め尽くす橘めるの写真。
過去に彼女が紛失したはずのヘアゴム。
どこから回収したのか分からないコンビニのレシート。
まるで美術館の展示品のようだが、ジャンルは現代アートというより押収品に近く、本人の許可など当然出ていない。
窓は遮光カーテンで厳重に封印され、外界を拒絶。
橘が玄関でサンダルを引っ掛けたその瞬間、背後から湿り気を帯びた声が突き刺さった。
「……どこへ行くの」
振り返らなくても分かる。
無駄に整った顔。無駄に様になる立ち姿。中身さえ伴っていれば、普通にモテる側の人間だ。
黒瀬じぇにだった。
さっきまで寝ていたはずなのに、橘が外へ出る気配だけは正確に拾う。
睡眠時間は三時間未満。執着だけで動いている。
「飯」
橘は短く答えた。
黒瀬は一瞬だけ黙り込む。
たぶん、彼の中で用意されていた監禁めいた台詞と、あまりにも生活感のある二文字が噛み合わなかったのだろう。
「……予定にない」
「私の予定だよ。あんたの台本じゃない」
「外は危ないよ」
黒瀬は詰め寄ると、橘の腕をがしっと掴んだ。
指先が震えているくせに妙に力が強く、振りほどくには少し面倒な圧がある。
「君の予定も、通知も、視界も、僕がちゃんと整えてあげる。誰から連絡が来るのか、どこへ行くのか、誰に笑うのか。君はそういうものを、あまりにも簡単に外へ渡しすぎる」
黒瀬の声は甘かった。甘すぎて、もはや砂糖ではなく接着剤に近い。
「大丈夫、怖がらなくていいよ。僕の言うことさえ聞いていれば、君は世界で一番幸せな女の子になれる。君が僕を嫌いになっても、僕は君を愛し続ける。ずっと、ずっと離さない。死ぬまで、ね」
橘の体が微かに震えた。
恐怖ではない。
(話長え……朝からテンションえぐすぎだろ、こいつ)
あまりにも重すぎる愛のポエムと、彼の首に巻かれた鎖デザインのペアルック(予定)チョーカーの痛々しさに、腹筋が限界を迎えているだけだ。
黒瀬は橘の震えを可憐な怯えと解釈し、悦に浸りながら彼女の頬に触れた。解釈精度が致命的に低い。
「だから、その例外行動の説明だけしてくれる?」
橘は「あー」とダルそうに声を漏らした。
既にお腹が空いているし、昼は鮭にするか唐揚げにするかまだ決めきれていない。
「無理っすね。今からセフレと合流するんで。じゃ」
「…………は?」
黒瀬の顔から一瞬で血の気が引いた。
その一語で、黒瀬の中に並んでいた前提が端から静かに崩れていった。昨夜を根拠に組み上げた関係図が、たった三文字で白紙に戻される。
それなのに、橘だけは平然とドアノブに手をかけていた。
「……今、なんて言った? セフレ? ……いや待って、定義の問題だね。君と僕の関係は排他的だからその概念は成立しないはずで──」
黒瀬は、そこで一度だけ口を閉じた。
何かを計算している顔だ。いや、計算しようとして、全部の数式が同じ場所で燃えているような顔。
「……誰?」
一瞬だけ理性が戻り、しかし即座に焼き切れる。
「誰だよ、そいつ。名前は? 連絡先は? どこで会うの? 今すぐ言えよ。君に届く経路を、僕が全部閉じるから!」
「めっちゃキレてて草。鼓膜に慰謝料払えよ」
黒瀬の処理が止まった隙を突き、橘は玄関のドアノブに手をかけた。
「……止まれよ、める。外出許可、まだ出してない」
低く、圧のある声。
橘はドアノブに手をかけたまま、少しだけ振り返った。
「チェックアウトです」
「……は?」
「昨日泊まった。朝になった。出る。めっちゃ普通。部屋の方が監禁してくるとか聞いたことねぇよ」
「ここはホテルじゃない」
「じゃあラブホより面倒な部屋」
黒瀬の顔が、さらに歪んだ。
「める」
「まぁ、また気が向いたら来てやるから、そこで待ってな」
「待ってな、だって? 僕を置いて、他の男に会いに行くのを、ここで指をくわえて待ってろって言うの? ……ふざけるなよ」
伸びてきた手を、橘は半歩ずれて避けた。
まるで闘牛士だった。相手は牛というより、理性を焼いた湿った不審者だが。
「一回寝た程度で彼氏面すんなよ。童貞捨てただけの童貞が」
その一言を置き土産に、橘は外の光の中へ出た。
「朝から元気だね。賢者タイム、どこに置いてきた? とりま散歩でもして頭冷やしなー。おつ!」
ケラケラと響く軽快な笑い声と共に、彼女の背中は遠ざかっていく。
ドアの閉まる音がやけに軽い。
その軽薄な余韻を残した部屋で、黒瀬は立ち尽くしていた。
「問題、ない」
息の継ぎ方だけが、急にわからなくなった。
「……問題じゃ、ない」
──遅れて、壊れた。
黒瀬は糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちる。
セフレ。
たった三文字の毒が脳内で反響し、鋭利なガラス片となって心臓を細切れにする。彼の世界は静かに、かつ致命的に粉砕された。
黒瀬はそのまま、動かない。
遮光カーテンの隙間からわずかな光だけが差し込む。
「……はは」
乾いた笑いがこぼれた。
彼女のあまりにも軽い拒絶。軽いからこそ、黒瀬には致命傷だった。
(……いや。違う)
指先が、ゆっくりと動く。
(まだだ。ここで終わったら……僕は、ただの『捨てられた男』になる。そんな、無様な現実を認めるくらいなら……)
彼は顔を上げた。
それは、許容できない結論だった。
「……そんなわけないだろ。は、はは……違う。君、分かってないな」
笑った、というより、壊れた音が喉から漏れる。
「……一回って言うな。一回で済むなら、僕は今、こんなに息ができないはずがない」
一度漏れると止まらなかった。絶望を燃料にして、黒瀬の中の防衛本能がゆっくり火を吹く。
「あれは『一回寝ただけ』で処理できる出来事じゃない。関係の更新だよ。不可逆で、記録で、証明で──僕たちが昨日までの他人に戻れなくなるための『儀式』だったんだ」
その瞬間、事実は事実であることをやめた。彼にとって都合のいい神話へと書き換えられたのだ。
すると黒瀬は、さっきまで取り乱していたのが嘘のように立ち上がった。
泣き声も、怒鳴り声も、もうない。ただ、結論だけが残っていた。
黒瀬は机に向かい、ノートPCを開く。
「……いいよ。そういう追いかけっこ、嫌いじゃない。逃げるなら、もっと分かりやすくしてよ。僕が見逃すはずないだろ?」
その声は祈りではなく、完成された呪いだった。
黒瀬は迷いのない手つきでキーボードを叩き始めた。
完成したはずの聖域に、なぜ外へ出る扉が残っていたのか。橘はなぜ、朝になれば当然のように外へ行けると思っているのか。
その設計ミスを、修正するために。
ふいに指が止まった。ゆっくりと、壁一面の写真へ視線を向ける。
昨夜、橘はこの部屋にいた。それは一時的な滞在ではない。
関係の更新であり、不可逆の記録であり、彼女がまだ理解していないだけの完成だった。
黒瀬にとってこれは破局ではなく、開始である。
「……最初から、やることは変わってない」
その言葉で、崩れた世界に名前がついた。
「作戦名──『聖域構築』」
【目的:橘めるの完全保存】
【進捗:100%(黒瀬理論)】
その頃、当の橘はそんなことも知らず、大学へ向かう道で今日の昼飯のことを考えていた。
「鮭定食か、唐揚げ定食か……いや、昨日重かったし鮭かな」
昨日重かったのは、油ではない。
黒瀬である。




