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黒瀬によれば、これは純愛らしい。  作者: 柊ナツキ
第1章『まだ隣にはいられない』

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8/23

EX 膝のキャンセル待ち

 無響大学、昼下がり。


 例の猫ポエム晒し事件から数日が経っても、大学構内にはまだ妙な余韻が残っていた。

 掲示板からスクショは剥がされ、油性ペンの落書きも誰かが消した。


 だが、人間の記憶というものは紙よりしつこい。特に面白い不審者の記憶は、学内ネットワークを経由してなかなか死なない。


「猫男、今日いた?」

「さっき自販機裏にいたぞ」

「人間の方?」

「人間」


 そんな会話が、昼休みの喧騒に混ざって普通に流れている。

 無響大学の治安は、今日もそこそこ終わっていた。


 橘はコンビニ袋を片手に、自販機裏へ向かう。中身は鮭弁当の空き容器と、申し訳程度に残した鮭の皮。


 以前なら、残ったものは適当に捨てていた。

 けれど最近は、鮭の皮を見ると自販機裏の茶トラの顔が浮かぶようになっている。


 別に優しさではない。食べ物を無駄にしない精神でもない。

 ただ、あの猫は余計な意味を足さずに食う。それだけで人間よりだいぶ偉い。


「おー、いたいた」


 自販機裏の陰。

 日差しを避けるようにして、茶トラの野良猫が伸びていた。

 雑に伸びた短毛。眠たげな目。大学生よりよほど昼休みの使い方がうまい。


 その首元には、あの日のブレスレットの飾りがまだ残っている。


 ただし黒瀬がいつの間にか軽い紐に通し直したらしく、前よりは猫への負担が少なそうだった。

 あくまで「少なそう」であって、そもそもつけるなという話ではある。


「残飯持ってきたよー。今日も猫生やってる?」


 橘はしゃがみ込み、鮭の皮を小さくちぎって猫の前に置いた。


 猫は一度だけ橘を見上げる。そして、まるで「まあ食ってやるか」とでも言いたげにゆっくり咀嚼し始めた。


「態度でか。じぇにより大学馴染んでるじゃん」


 橘が雑に笑いながら猫の頭を撫でる。

 猫は当然のようにそれを受け入れ、喉を鳴らした。


「じぇにの貢ぎ物の代わりに、私からの現物支給。あんた、あいつに毎日ポエム聞かされててよく精神病まないね。普通に尊敬するわ」


 猫は答えない。答えないから可愛い。


 人間はだいたい、喋ると余計なことになる。

 特に黒瀬という男は、喋るたびに世界へ異物を混ぜる。


 そのときだった。

 自販機横の植え込みが、ガサッと揺れた。


 橘の手が止まる。

 猫も一応そちらを見る。


 ガサ。

 もう一度揺れる。


 以前なら、もう少し驚いたかもしれない。

 しかし今の橘は、植え込みが揺れた時点で黒瀬を想定できる程度には、この数日で嫌な学習をしていた。

 成長ではない。被害経験だ。


「出てこい。ラブホ前の時点で植え込みキャラ確定してるから」


 数秒の沈黙のあと、植え込みの奥から黒瀬が現れた。


 葉っぱはついていない。泥もついていない。

 しかし植え込みから出てきた時点で、人間としてはかなりアウトだった。


「……偶然だね、める」


 植え込みから出てきた側が、信じがたいほど堂々と言った。


「無理あるって」


「自販機に用があった」


「じゃあ早く買えよ」


「今はそれどころじゃない」


「じゃあ自販機を言い訳に使うな」


 黒瀬は植え込みの影から一歩だけ出たところで止まった。

 橘と猫からは微妙に距離を取っている。


 それでも視線だけは、鮭の皮を食べている猫の口元に固定されていた。


 鮭の皮。橘の指。猫。首元のブレスレット。

 その四つの情報が、黒瀬の中で勝手に接続されていく。


「……なるほど」


 本来繋がってはいけない点と点が、彼の脳内で都合よく一本の線になる。


「めるは、この子を外部胃袋として使っているんだね」


「最悪の単語出た。猫は周辺機器じゃねぇよ」


 黒瀬はスマホを取り出し、メモアプリを開いた。

 指の動きだけが異様に速い。


 ──12:45 対象、外部ユニットへエネルギー供給。

 ──12:46 ブレスレット経由、間接リンク確立。


「君が鮭を渡してその子が摂取する。愛の移動はカロリーの移動でもあるんだ」


「鮭と栄養学に謝れ」


「その子には僕のブレスレットもある。つまり僕も経路上にいる。実質、相席だよ」


「鮭皮一枚で家族団欒を捏造すんなよ。あんたの席、まだ植え込みだから」


「テラス席だね」


「不審者席をオシャレに言い替えただけだろ」


 猫は何も知らない顔で鮭の皮を食べている。

 人間の妄想も愛情表現も猫には関係ない。食えるものがあるから食っているだけだ。


 橘はコンビニ袋の中を覗いた。


「今日は人間の方の餌ないよ」


「なぜ。僕のカロリーは?」


「前にやったら宗教行事になったから」


「鮭おにぎりの件だね」


「もう名前ついてんのかよ」


 猫はあっさりと鮭の皮を食べ終わり、橘の靴先へ身体を寄せたまま、前足で顔を洗っている。


 橘も特に追い払わない。邪魔そうにもしない。

 ただ、そこにいることを当たり前みたいに許している。


「……猫って審査なしで近づけるんだね。僕は毎回止められるのに、その子は顔パスなんだ」


「あんたは顔パスのあとに中身で強制送還されるタイプ」


 橘はそう言って、自販機横の低い縁に腰を下ろした。


 そして黒瀬は、今日いちばん見てはいけないものを見ることになる。


 橘は足元にいた猫を、そのまま抱き上げた。


 猫は一瞬だけ面倒そうな顔をしたが、すぐに諦めた顔をした。

 黒瀬の危機感など知らないように、橘の膝へ顎を預ける。陽だまりを一匹分だけ持ち込んだみたいに、そこだけ時間の流れが遅い。


 黒瀬の表情が固まった。


 視線が猫から橘の膝へ移り、橘の手を見て、また猫へ戻る。


 まるで世界の重要な権利関係が、今この瞬間に書き換えられたみたいな顔だった。


「……そこ、僕が一度も到達していない距離だ」


「膝に敗訴してんじゃん」


「接触面積、滞在時間、体温共有。全項目で僕より上だ」


「比較表作る前に、猫以下から再受験しなよ」


 黒瀬は黙った。

 黙ったが、視線は猫から離れない。


 猫は橘の膝に収まり、前足をゆるく畳んでいる。

 完全に勝者の姿勢だった。


「……その位置の体温、推定できるかな」


「膝のぬくもりを数値化すんな。キモすぎて草も生えない」


「僕はただ、猫と僕で何が違うのか確認したい」


「猫は植え込みで待ち伏せしない」


「……そこから?」


「そこからだよ。まず正面玄関使え」


 黒瀬は少しだけ沈黙した。

 本人としては真剣に検討しているらしい。


「……次から気をつける」


「初期設定いじるの今さらかよ」


 橘は猫の背中を撫でた。

 猫は喉を鳴らす。


 その音に、黒瀬の目が少しだけ暗くなった。


「喉、鳴ってるね」


「かわいいでしょ。あんたもやる?」


 黒瀬は本当に自分の喉元へ指を当てかけたので、橘は即座に止めた。


「おい、絶対やめろ。犬の件で学べ」


「低周波なら再現できるかもしれない」


「次やったら通報する。あと録画する。タイトルは『猫に負けた男、ついに喉を鳴らす』」


 黒瀬は少しだけ目を伏せた。その仕草だけは綺麗だったので、橘は笑った。


「まあでも、猫に負けてる自覚あるだけマシかもね」


「負けてない。比較中だ」


「はいはい。じゃあ比較対象に挨拶しときな。この前、謝罪したんでしょ」


「……挨拶すれば、少しは許可されるかな」


「知らん。少なくとも今日の通報ボタンは押さないでおいてやる」


 黒瀬は真面目な顔で、猫から橘へ視線を移した。


「それは、かなり大きい」


「人として下限ギリギリの恩赦に感動すんなよ」


 黒瀬はゆっくりしゃがみ込んだ。

 橘の正面ではなく、少し斜め前に。


 膝へ手を伸ばせば届きそうで、けれど橘本人には触れない距離。

 猫と目線を合わせ、そこで慎重に止まる。猫は半分だけ目を開け、すぐに興味を失った。黒瀬の人生で、自分の顔がここまで効かなかった相手も珍しい。


「……改めて、黒瀬じぇにです」


 橘は吹き出した。


「あの日の僕は、君をめるへ繋がる中継点だと思っていた。でも違った。君は何も求めず、関係に名前もつけず、ただ正面から来て、僕がまだ許されていない場所で眠っている」


「自己紹介の途中で敗北届出すなよ」


「君はもう観測対象じゃない。到達例だ。どうすれば僕も、めるの世界で異物として弾かれず、当たり前の顔で残れる?」


「猫に内定の取り方聞くな。こいつ鮭皮一枚で通っただけだよ」


「では鮭皮から始める」


「採用基準そこじゃねぇ」


 黒瀬は猫へ向かって、わずかに頭を下げた。

 猫は何も考えていない顔で欠伸をする。


「では先生。接触確認を──」


「もう弟子入り成立してんじゃん」


 黒瀬の指先が、猫へ近づく。


 その瞬間。

 猫は怒るでもなく、威嚇するでもなく、橘の膝からするりと降りた。

 そして黒瀬の手が届かない位置まで移動し、自販機の陰で何事もなかったように丸くなる。


「……」


 黒瀬の指先だけが、空中に残った。


 橘は数秒耐えた。しかし普通に無理だった。


「っあはは! 先生、初回から実技免除してんじゃん!」


「拒絶ではない。席替えだね」


「避難訓練の間違いな」


 黒瀬は、猫ではなく橘の膝を見た。ついさっきまで猫が丸くなっていた場所が、今は空いている。


「……空いたね」


「言うと思った」


「予約枠が解放されたと考えるのが自然だよ」


「猫が席立ったからって飛び込み客は入れないわ」


「キャンセル待ちは?」


「受付終了でーす。永久休業の予定」


「再開通知を待つ」


「店の前に住み着くタイプの客じゃん。怖っ」


 その一連のやり取りを、通路側からつきのが見ていた。


 購買のパンを片手に、足を止めたまま動けない。


 猫、橘、黒瀬。

 昼休みの大学に並んでいい要素ではなかった。


「……めるちゃん達、何してんの?」


「膝のキャンセル待ち」


「最悪の説明ありがとう。今どこから通報すればいいか迷ってる」


 つきのは猫と黒瀬を交互に見た。


「黒瀬くん、猫にも避けられたの?」


「接触条件を再提示された」


「猫に利用規約更新されたんだ」


「近い」


「認めるんだ」


 橘は自販機の陰で丸くなる猫に向かって、「おつー」と言いながら軽く手を振った。

 黒瀬はまだ空中に残っていた自分の指先を見て、それから猫を見つめた。


「それでも今日は、めるの世界の端にいるこの子へ僕の名前を伝えることができた。忘れられても、届いた事実までは消えない」


「猫、たぶんあんたのこと『近づくと席を替えるやつ』って覚えてるよ」


「覚えてもらえたなら前進だ」


 橘は笑い半分、呆れ半分の顔で立ち上がり、通知の溜まったスマホを確認する。


 黒瀬の目だけが、わずかにそちらへ動いた。


「じゃ、私行くわ。猫に変なポエム聞かせんなよ。あと、そのブレスレット後で外すから。猫の首にじぇにの感情背負わせるのかわいそうだし」


「……外すの?」


 黒瀬の表情が露骨に沈んだ。

 さっきまで猫を先行事例だの接触条件だの言っていた男が、急に捨てられかけた犬みたいな顔をする。


 橘は面倒くさそうに息を吐いた。


「代わりに鈴でもつけとけば? 普通の、ちゃんと軽いやつ。猫が嫌がんなければね」


「……僕が選んでいいの?」


「猫が嫌がんなければ、な」


 黒瀬は嬉しそうに頷いた。猫の鈴ひとつでここまで人生に光を見いだせる男も珍しい。


 つきのが小声で言う。


「めるちゃん、今ちょっと優しかったね」


「うるさ。猫に対してだけな」


「黒瀬くんにも効いてるけど」


「副作用じゃん」


 橘はつきのと並んで歩き出した。

 背後では、黒瀬が自販機裏の猫へ真剣な声で話しかけている。


「君の好みを把握したい。鈴の音量、重さ、色、素材。めるが許可したからといって、君の自由意志を無視するつもりはないよ」


「にゃあ」


「今のは承認?」


「絶対違ぇよ」


「では保留だね。次回までに三案用意しておく」


「猫にプレゼンすんな!」


 橘は振り向かずに笑った。


 その日の夕方。

 無響大学・非公式掲示板には、新しいスレが立った。


【現地】猫男、猫に首輪プレゼン開始【自販機裏】


 1:名無しの無響生

 猫男、自販機裏で猫に「鈴の音量は君の拒絶反応を見て調整する」とか言ってて草


 2:名無しの無響生

 猫相手に商談すな


 3:名無しの無響生

 猫「にゃあ」

 猫男「承認ではなく保留だね。次回までに三案用意しておく」


 4:名無しの無響生

 橘める餌付けやめろ、猫男も増えるぞ


 5:名無しの無響生

 もう増えてる定期


 翌日、自販機裏には「鈴の音量サンプル」と書かれた紙袋が三つ並んでいた。

 猫は三案とも無視して、そのうち一つを枕に昼寝していた。

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― 新着の感想 ―
橘さんはいろいろと雑。雑だから黒瀬君も受け入れているのか・・・ 猫と三角関係が成立するとは。 学内での黒瀬君、いつになったら猫への求愛ネタおさまるんだろう(笑)
Xの宣伝で気になって読みに来ました! 面白すぎてここまで一気読みしちゃいました! 黒瀬君と橘さんの掛け合いがテンポ良くて読んでて楽しいです。 特に黒瀬君の台詞がいちいち面白すぎます!「おもしれー男」っ…
こごまで読ませていただきました。 言動は完全にホラーなのに、ほのぼの感が漂う不思議…w 新たに登場した男の正体も気になりますが、今後、黒瀬の熱い想いが橘に届くのか、それとも橘が最後まで逃げきるのか、続…
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