第6話 君、めるに近づいてるよね
橋本が自分の心臓を「敵」と認定するまで、あと二分。
黒瀬が重い鉄扉を押し開けると、冷たい風が階段まで流れ込んできた。眩しい昼空を背に白衣の裾が大きく翻る。
午後に実験実習があるらしく、今日は黒い服の上から白衣を羽織っている。似合いすぎて、処刑台へ案内する側の制服にしか見えなかった。
「どうぞ」
(何で処刑台へのエスコートだけ丁寧なんだよ)
橋本が屋上へ出ると、背後で鉄扉が重い音を立てて閉まった。
屋上には他に誰もいない。
(よし、人目もない。きっちり言って帰る。大丈夫。相手は顔がいいだけの大学生。顔がいいだけ。顔がいいのは話し合いに関係ない)
自分に三度言い聞かせた時点で、すでに多少関係していた。
だが、昨日あれだけ「男の包容力」を語ったのだ。ここで引き下がれば自分まで佐伯と同じ逃亡者になる。
「先に言っとくけど、橘さんが行くって言ってるんだから俺が飯に誘うのは自由だよね。橘さんの彼氏でもない君に、止められる筋合いはないから」
「うん。君の言う通りだ」
「……え?」
あまりに素直な返答だった。
「めるには選ぶ権利がある。昨日の講義で理解したよ。だから、君の方から自主的に断ってほしい」
「それ何も学んでないだろ。自由意思の出口が一個しかない」
黒瀬が一歩近づいた。
橋本が一歩下がる。
「どうして下がるの?」
「君が来るからだろ」
「話をしているだけだよ」
「話し合いって普通、追い込み漁みたいにやる!?」
黒瀬がまた進む。橋本もまた下がる。さらに一歩。
背中が、屋上出入口脇のコンクリート壁に当たった。
(しまった、陸地終了!)
「じゃあ、改めて確認しようか」
黒瀬が右腕を上げた。
バンッ。
「うおっ!?」
耳の横に黒瀬の腕が叩きつけられ、コンクリート壁が鳴る。橋本は反射的に反対側へ逃れようとした。
その進路にも黒瀬の左腕が伸びる。
バンッ。
「増えた!?」
右に腕。左にも腕。背後には壁。
橋本の自由意思は、先ほどより分かりやすく出口を失っていた。
「いや何してんの!? 腕を増やすなよ! 逃げ道を増やせよ!」
距離、およそ五十センチ。ローズとサンダルウッドを重ねた香りと、顔面の圧力だけが届く。
橋本は黒瀬を見上げた。
そして、見上げたことを即座に後悔した。
(……え? てか、待って)
橋本の脳内に、突如としてバグが発生した。
(顔……ちっっっか!? え、何このイケメン!? 近くで見たら破壊力ヤバすぎだろ! 映画の撮影!? 俺だけ衣装支給されてないけど!?)
「橋本けんた。僕を見て答えて」
(見てる! むしろ他に何が見えんだよ!)
黒瀬がわずかに声を落とした。
「昨日、君はめるにこう言ったね。『橘さんのような可愛い人なら許すのが男の包容力』。……そして『黒瀬くんのいないところでご飯に行きませんか』」
(あかん、声が良い。低音ボイスが骨に響く。なにこれ、顔面とセット販売?)
「めるとの食事は君の方から断ってほしい」
「……い、嫌だよ。橘さんが行くって言ってるんだから、君に止められる筋合いないだろ」
口では反論できている。まだ大丈夫。橋本の理性はそう判断した。
「そう」
黒瀬は少しも動かなかった。
「では君が断るまで確認を続ける。明日も、明後日も、その次の日も。君がめるから離れるまで毎日会いに来るよ」
(完全に脅迫のはずなのにセリフが告白! これ俺、乙女ゲームのヒロインの位置じゃん! 攻略対象が殺害予告してくる理系ヤンデレ!)
少なくとも黒瀬の顔は、心理的圧力が順調に効いていると信じ切っていた。
しかし橋本の心拍数は、恐怖だけでは説明のつかない方向へ加速していく。
(……は? 今俺、ときめいた……!? いやいや、俺は橘さんみたいなギャルが好きで! 男に興味なんて──でも、近っ! 顔が良すぎて直視できない!)
「返事は?」
「……顔がいいのは分かったから、一回どいてくれない?」
「僕は顔の評価を求めていない」
「俺も求めてないのに感想が出てくるんだよ!」
「顔が赤いね。心拍も上がっている。僕の顔が君の生理反応へ影響している?」
返事が出ない。代わりに心臓だけが元気よく返事をしている。
黒瀬が不審そうに眉をひそめた。
「答えて。君の目的はめるか、それとも僕への挑発か。後者なら君の心拍が恐怖だけになるまで話し合うから」
(ヤバい。イケメンに脅迫されるの、なんかアリ──いやアリじゃねぇ! 新しい扉を開くな俺!)
ふいに黒瀬が左手を壁から離した。
助かった。そう思った直後、その手が橋本の顎へ伸びてきた。
(出口じゃなくて新イベントが開いた!)
黒瀬が橋本の顎に指をかけようとした、そのとき。
ガチャッ。
「中、席埋まってた。もうここでよくね?」
「風あるじゃん。髪ぐちゃぐちゃになるんだけど──」
橘、つきの、すみれの三人の視線が同じ場所で止まった。
壁へ片手をつき、橋本を見下ろす黒瀬。橋本の顎へ伸びかけたもう片方の手。顔を真っ赤にし、なぜか黒瀬を見上げている橋本。
橘が手にしていたスポーツドリンクが落ちた。
ごとん。ボトルが一度跳ね、三人の足元を転がっていく。誰も拾わない。
風の音だけが吹き抜ける。
「……」
事情を知れば脅迫。事情を知らなければ恋愛イベント。
そして今、三人のもとには事情だけが届いていない。
「……え?」
橘の口角が引きつった。
「じ、じぇに……? あんた、昨日あんなに『私を独占したい』とか『世界を破壊する』とか言っておいて、裏で橋本を屋上に呼び出して壁ドンして口説いてたの……?」
「違う。僕は彼を物理的に脅迫し、君の周りから排除するための威圧行動を行っていただけだ」
「私の周りの男を減らしたかったんじゃなかったの?」
「そのために話している」
「自分の男増やしてんじゃねぇか! 橋本の顔見ろよ!」
「言い訳が見苦しいよ黒瀬くん」
後方からも、冷ややかなつきのの声が飛ぶ。つきのは素早い手つきでスマホのカメラを起動させ、パシャパシャと連続撮影を行った。
「完璧なアングルだね。絵面が『昼休みに屋上で密会する美形攻め×モブ受けのBL』そのもの。文芸部の壁報の表紙として完成してる」
「ヤバーい!」
すみれは口元を押さえながら、すでにスマートフォンを横向きにしていた。
「黒瀬くん、めるシーじゃなくて橋本くん狙いだったの!? 超激アツ展開なんだが! 映えー!」
「ち、違うんだ橘さん!」
橋本が必死で叫んだ。
「僕はただ、黒瀬君に壁ドンされて、顔が良すぎて不覚にも一瞬ときめいただけなんだ!」
「墓穴掘ってんじゃねぇよけんたぁ! 重罪だろそれ!」
橘が絶叫する。
「める、誤解だ。僕は彼に自主的な撤退を求めるため、心理的圧力を加えていただけだよ。身体的接触もまだ発生していない」
「『まだ』って何だよ! やっぱりこの先に接触予定あったんじゃねぇかホモ!」
「僕の恋愛対象は性別ではなく橘めるという一個体に限定されている」
「新しい性癖作るな!」
その時、すみれのスマートフォンが震えた。
「……え、待って。あたし、まだ投稿してないんだけど」
「どうしたの、すみれちゃん」
つきのと橘が覗き込むと、すみれの画面にはたった今の二人が掲示板に投稿されていた。
黒瀬が橋本を壁際へ追い詰め、顎へ手を伸ばしている瞬間。
向かいの講義棟から望遠で撮られたため、実際には残っていた五十センチの距離が、写真の中ではきれいに消滅していた。
◇◇
──その日の放課後。
キャンパス内の掲示板および無響大学の匿名掲示板は爆発的な盛り上がりを見せていた。
【悲報】黒瀬じぇに、橘めるの男を排除する途中で自分の男にする
1:名無しの無響大生
橋本の顔、完全にイベントスチルで草
2:名無しの無響大生
本人は「脅迫していただけ」って説明してるらしい
3:名無しの無響大生
音声ないから告白と区別つかん
4:名無しの無響大生
佐伯まさきも昨日黒瀬に追い詰められてたらしいぞ。まさか三角関係……?
5:名無しの無響大生
橘の男を減らすたび黒瀬の男が増える永久機関
6:名無しの無響大生
被害者なのか攻略対象なのか、大学で統一見解出してくれ
◇◇
放課後、学食のテラス席。
橋本が学食の隅で頭を抱えていると、生還者の証言を聞くように男子学生が集まっていた。
「橋本、お前黒瀬くんを落としたんだって? すげぇな」
「あんな国宝級イケメンに壁ドンされるとか前世でどんな徳積んだの?」
「おい橋本、今夜黒瀬に襲われないように気をつけろよ!」
「違う、違うんだ。俺はただ橘さんとご飯に行きたかっただけなんだ……! なんで俺が黒瀬君の恋人候補みたいになってんだよおおお!」
「……橋本けんたさん」
「うわっ。今度は何だよ」
顔を上げると、烏丸れいぶんがバッグを持って立っていた。
アッシュグレーの髪に銀縁眼鏡。騒ぎの中心へ来た人間とは思えないほど姿勢がよく、そこだけ大学ではなくサポート窓口だった。
「周囲の噂に合わせて、黒瀬さんへのお気持ちを決める必要はありません」
「元から気持ちはない!」
「承知しました。よろしければ、こちらを」
烏丸が小さな遮光瓶を差し出した。ラベルには几帳面な文字でこう書かれている。
【黒瀬じぇに近接時動悸緩和用アロマver.2.3】
「何でバージョンアップ重ねてるの?」
「似た相談がいくつか寄せられたため、先行利用者からのフィードバックを反映しました」
「そこだけ聞くとめちゃくちゃ気が利くな……」
橋本は蓋を開け、試しに匂いを嗅いだ。ローズとサンダルウッドの香りが鼻を抜け、橋本の心臓が跳ねる。
「黒瀬君の匂いじゃねぇか! なんでトラウマを高精度で復元した!?」
「……段階的に慣れることで、過剰な反応を軽減できるかと思いまして。実際に効果はあるとご意見をいただいたのですが」
「俺の許可なく治療を開始するな!」
「……申し訳ありません。では、治療開始前の状態へ復元します。お大事になさってください」
烏丸はアロマの蓋を閉め、その場で丁寧に一礼した。
「なお、める様との食事につきましてはご本人同士でお決めください」
「今日初めて当然のこと言う人に会った気がする……」
そこへ、今度は別の人物がやってきた。
「橋本けんたさん」
「今度は誰だよ!」
振り向くと、仕立ての良さだけは素人にも分かる濃紺の服を着た男が、図面用の筒を抱えてやってきた。
「掲示板の写真、圧縮がひどかったので高解像度版を印刷してきましたよ」
文芸部部長、篠原ともきである。
篠原はA1サイズの写真を広げた。
左半分には、黒瀬に壁ドンされて顔を赤くする橋本。右半分には、見覚えのない筋肉質な男性の二の腕を、黒瀬が真剣な顔で掴んでいる写真が印刷されている。
「は? でっか! なんで俺の赤面をポスターサイズにした!?」
「無断撮影されたうえ、低画質のまま流通するのは被写体にも失礼でしょう。もちろん、本人の掲載許可が降りなければ壁報への採用は見送りますのでご安心ください」
「じゃあ何で刷ったんだよ」
「掲載しないと判断するための色校です。印刷費は僕が負担します」
「金の話してねぇ! ……で、右側のムキムキは誰?」
「分かりません。ですが不思議と構図に連続性があったので、比較資料として配置しました」
「何この黒歴史。低画質で潰れたまんまにしといてほしかった……」
少し離れた席から写真を見た橘が、ストローを噛んだまま目を細めた。
「……こいつ、仕様書に載ってた『氏名不明の筋肉質な男性』じゃね?」
つきのが二枚を見比べる。
「一人目は壁ドン。二人目は上腕への接触。攻略対象ごとにイベント内容を変えてるんだね」
「攻略してない! 俺はされてもいない!」
「顔は負けてるよ、けんた」
「橘さんまで言わないで!」
すみれがパフェを食べながら、A1写真をスマートフォンで撮影した。
「でもいいじゃん、めるシー。黒瀬くんが男好きって噂が定着すれば、めるシーへの異常なストーキングも少しは減るかもしれないし」
「減るわけないだろ。あいつのベクトルは私に向いてんだよ。なのに周りが勝手に『黒瀬は男が好きだからめるの周りの男を狙ってる』って勘違いして逃げ回って──」
その時、学食の入口がざわついた。
白衣が見えた途端、「ひぃっ! 掘られる!」と男子学生たちが悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
「やべぇ、黒瀬来た。壁際空けろ!」
「顔見るな。橋本みたいに返事させられるぞ」
「屋上に誘われてもついていくな。イベント条件が成立する」
男子は逃げ、女子はスマートフォンを構えた。
モーセが海を割ったように、黒瀬の進路だけが開く。なお、海と違って左右から大量のカメラを向けられているが。
「……なぜ僕が入ってきただけで避難訓練が始まるの?」
「あなたが屋上で新しい災害区分を作ったからでしょう」
篠原が言うと、黒瀬は長テーブルまで歩いてきてA1写真を見下ろした。
「それ、どこから入手したの?」
「匿名掲示板です」
橘が写真を指さした。
「右のムキムキ誰だよ」
「測定協力者だよ。壁際で人間の退路を制限する際、身体に負荷を与えない最適な腕の位置と、接触圧を調べた」
「壁ドンの研究協力者おつ!」
「正確には、威圧時の安全性を検証するための予備実験だけどね」
「本番が俺だったの!?」
橋本の絶叫がテラスへ響いた。
黒瀬は騒ぐ橋本には構わず、タブレットを橘の前へ置く。画面には二本の折れ線グラフが表示されていた。
【橘めるを視認した際の脳活動】
【橋本けんたを視認した際の脳活動】
「見て。僕のドパミン分泌量は君を見た時だけ異常値を出している。橋本けんたを見た際の反応は、生ゴミを視認した場合とほぼ一致している」
「生ゴミ扱いされるけんたが可哀想すぎるだろ。てか公共の場で脳波比較すんなよ」
「俺と生ゴミの誤差を発表するな!」
「……める」
黒瀬の声から、わずかな苛立ちが消えた。橘はその変化を知っている。彼が変に落ち着いた時は、もう次の奇行を決めている。
「僕が誰を望んでいるのか、全員に誤解の余地なく提示する」
橘の嫌な予感が確信に変わった。
「……あんた、何する気?」
「事実を公表するだけだよ」
黒瀬はすでにノートを開いていた。
【課題:橘めるがカモフラージュではないことの公的証明】
【方法:関係性の明文化および公開】
「やめろ。じぇに、聞け」
【必要物:声明文、署名欄、掲示許可】
「そのノート返せ!」
「僕のだよ」
「問題は所有権じゃねぇ!」
翌朝、学内中央掲示板に黒瀬本人の署名入り巨大声明文が貼り出されることを、この時点で橘だけがほぼ正確に予測していた。
唯一外したのは、声明文が想定の三倍でかかったことだけだった。




