第7話 巨大声明文
翌朝、午前七時三十分。
黒瀬は無響大学の中庭で、昨夜の研究成果を見上げていた。
「字間、行間、色彩心理学に基づく威圧効果。すべて計算通りだ」
学内中央掲示板を完全に覆い隠しているのは、横幅およそ2mの巨大な懸垂幕。
掲示物というより、大学に対する思想占領に近かった。
【緊急声明──黒瀬じぇにの性的指向に関する数学的・論理的証明】
1.僕の恋愛対象は橘める一名のみである。
2.P(黒瀬じぇにが橋本けんたへ性的関心を抱く)=0
3.昨日の壁ドン及び接触予定は威嚇手続きであり、恋愛的動機は測定限界未満である。
4.橋本けんたは僕の認識上、「排除対象の有機物」に分類されている。
※詳細な証明及び測定データは右記QRコード、全86ページを参照。
【理学部二年 黒瀬じぇに】
「……これで僕の潔白と、めるへの絶対的な愛が全校生徒に周知された」
黒瀬が独りごちたその直後、登校してきた学生たちが続々と足を止め始めた。
「『僕はホモではない』って内容をわざわざ巨大懸垂幕で主張する奴初めて見た」
「しかも『橋本けんたは生ゴミ』って書きながら、わざわざ実名挙げて長文で弁明してるの、嫉妬を隠し切れてない感ヤバくない?」
「嫌いな男のために徹夜したの?」
「違う! めるのためだ!」
黒瀬の目論みは、掲示された瞬間に逆方向へ音速突破で暴走を始めていた。
そして午前八時十五分。
「ちょっと、何してくれてんのあんたは──っ!?」
登校するやいなや、中央掲示板の惨状を目撃した橘は、ピンクベージュの髪を朝風に暴れさせ、怒気で肩を上下させながら突進してきた。
「おはよう、める。見て、これで昨日の不名誉なデマは完全に収束する」
「収束するか! むしろ爆発炎上して新章突入してんだよ。なんなのこの『巨大ホモ疑惑弁明タペストリー』は。恥ずかしすぎて三秒で帰りたくなったわ」
「橘さん! 黒瀬君!」
そこへ、両手に可愛らしいラッピングが施された紙袋を抱え、橋本が駆け寄ってきた。
その顔には、晴れやかさと悲壮な覚悟が奇妙に同居していた。昨日までは存在しなかった表情だ。主に烏丸のせいである。
「橋本けんた。何の用? 僕は今、めるに僕の潔白を論理的に説明している最中なんだけど」
黒瀬が冷たい目で睨みつける。しかし橋本は怯まなかった。
「黒瀬君。昨日はいろいろあったし、これで手打ちにしようと思って。別に深い意味はないよ」
「は?」
黒瀬が眉をひそめる。
橋本は紙袋から高級洋菓子店の箱を取り出した。中には小ぶりなパウンドケーキが一本収まっている。
「これ、俺の実家がやってる店のパウンドケーキなんだ。今朝、家族に頼んで一本分けてもらった。仲直りの手土産として受け取ってほしい」
「待って。けんたの実家って、予約半年待ちの『パティスリー・ル・シエル』なの? こいつ、急にモブとして無視できない情報出してきたな……」
「いらない」
黒瀬は即答した。一秒の躊躇もない。
「僕は君が持ち込んだ物質を体内に摂取する気は一ミリもない。生物学的拒絶反応が起きる」
「そんな酷いこと言わないでよ」
冷たく突き放す黒瀬と、必死に菓子箱を差し出す橋本。そのやり取りを横で見ていた橘は、早朝からの疲労と空腹で目眩がしていた。
「あのパウンドケーキ、超並ぶやつじゃん。今朝忙しすぎて朝飯食べてないんだよね……」
橘の胃袋がぐぅ、と可愛らしい悲鳴を上げた。
「……あーもう。じぇにがいらないなら私がもらうわ。腹減ってんだよ」
橘が横から手を伸ばし、橋本の持つパウンドケーキ箱をひょいと奪い取ろうとした、その瞬間。
黒瀬の手が素早く動き、橘の手首を掴んで制止した。
「……める。何をしているの?」
「何って、あんたがいらないなら私が食うって言って──」
「だめだよ。問題は原材料ではない。この菓子には『橋本けんたからめるへの贈与』という履歴が付与される。他の男から君に与えられた物質を、君の消化器官へ格納することは許容できない」
「独占欲のベクトルがキモすぎる。たかがパウンドケーキだろ、よこせ」
「許容できない」
「じゃあどうすんだよ。捨てるのか? 食べ物を無駄にすんなアホ!」
「……っ」
黒瀬はじっと菓子箱を見つめた。
選択肢A、橘に食べさせる。
橋本から橘への贈与が成立。死ぬ。
選択肢B、廃棄する。
橘から食物廃棄について叱責される。死ぬ。
選択肢C、自分で食べる。
橋本からの贈り物を喜んで受け取った男になる。社会的に死ぬ。
黒瀬は三秒間、死刑囚の顔をした
「……僕が処理する」
「え?」
黒瀬は処刑台へ上がる囚人の顔で、パウンドケーキを一口かじった。
咀嚼が止まった。まずかったからではない。腹立たしいほどうまかったからだ。
「……完成度が高い」
「褒めてくれた!」
「店を褒めたのであって君ではない」
「俺の実家のレシピだよ!」
橘が箱へ手を伸ばすと、黒瀬は箱ごと自分の胸元へ引いた。
「残りも僕が処理する」
「箱ごと……?」
「その顔をやめろ、けんた!」
黒瀬は味への評価と橋本への憎悪を完全に分離したまま、パウンドケーキ一本を三分で完食した。
橋本の中で、黒瀬の殺意は不器用な好意へと変換された。誤変換だったが本人に修正する意思はない。
(口ではあんなに拒絶しているのに、俺が渡したものは捨てられず、全部自分で食べた……。もしかして黒瀬君は、素直になる方法を知らないだけなんじゃ……?)
「ツンデレ攻めが差し入れ爆食いしてる」
「あれ実質告白への返事じゃん」
「なんだよこの地獄絵図!?」
橘が頭を抱える中、周りで遠巻きに見ていた女子生徒たちがひそひそと話し始め、やがて生温かい視線を橘へと向け始めた。
「……橘さん、かわいそうにね……」
「黒瀬くん、橘さんの前で『お前の手土産なんて橘には渡さない! 俺が食う!』って橋本くんのパウンドケーキ食べたんでしょ……?」
「もう完全に『橘さんをダミーにして橋本くんと愛を育む昼ドラ』じゃん」
女子生徒の一人が、悲痛な面持ちで橘に歩み寄ってきた。
「橘さん……辛かったらいつでも私達に相談してね。あんな執着狂のホモイケメンに振り回されて、男のダミーにされるなんて……私、橘さんの味方だから!」
「違ぇよ! 私はダミーじゃないし、あいつはホモじゃなくてただのサイコヤンデレなんだよ! 味方なら今すぐこの掲示板剥がすの手伝え!」
橘の叫びは、朝のキャンパスの雑踏へとむなしく消えていった。
◇◇
午前十一時、学食。
巨大声明文も、パウンドケーキ事件も、全てが裏目に出て「黒瀬じぇに=不器用すぎるホモ」の印象を強固にしてしまった。
黒瀬のノートPCには、学内SNSから収集した関連投稿の感情分析結果が表示されている。
【黒瀬じぇに同性愛疑惑:前日比+340%】
【橋本健太との交際を応援:前日比+812%】
【橘めるへの同情:計測上限突破】
「……理解できない。なぜ声明発表後に全項目が上昇している?」
黒瀬は頭を抱えていた。
橘の隣にはつきの、向かいには動画編集中のすみれが座っていた。
「落ち度しかないからだよ」
つきのがアイスコーヒーを飲みながら言った。
「黒瀬くんのやる行動は全て『ホモのツンデレ表現』として補正されて解釈されてるよ。巨大声明文は『必死の言い訳』、橋本くんのパウンドケーキを食したのは『歪んだ愛の受容』。完璧な文脈の完成だね」
「ヤバー。『今日の黒瀬先輩と橋本くん』シリーズ、投稿から二時間で再生数百万回突破してるんだが! コメント欄『攻めが無理してパウンドケーキ食べるの尊すぎて無理』で埋まってるよ」
「……その動画を投稿者ごと消去して」
黒瀬は息を吐いた。
「……なら、僕が『橘めるの恋人』として振る舞い、彼女との親密性を学内に知らしめれば誤解は解けるはず」
「恋人っぽく振る舞う……?」
橘は嫌な予感を察知して身構えた。
「やめろ。絶対ろくなことにならない」
「今から検証を始める」
黒瀬はノートPCを閉じると、箸を手に持った。
「める。恋人間における給餌行動を実施する。口を開けて」
「言い方が動物園」
黒瀬は唐揚げを持ち上げたが、途中で動きを止めた。
「待って、比較対象がない。実験には対照群が必要だ」
黒瀬は隣の席を見ると、別の男子学生と目が合った。
「……あ、黒瀬先輩。僕、そっちの趣味は……でも、先輩にあーんしてもらえるなら……!」
男子学生は頬を赤らめながら口を開けた。黒瀬は無表情で唐揚げを入れた。
「比較データ取得完了」
「対照群を男で取るな。余計に言い逃れできなくなるだろ!」
「なら次は接触時の心理反応を測定する」
黒瀬は橘の頭を撫でようと手を伸ばす。しかし不自然な動きに橘は思わず、黒瀬の手を跳ね除けた。
結果──。
「……え?」
黒瀬の手は軌道を逸らされ、隣の男子学生の頭に変に優しい角度で着地した。
「く、黒瀬くんが、僕に頭ポンポンを……?」
「もうマジでやめろ! あんたが『恋人っぽく』振る舞おうとすればするほど、事故で周りの男を無差別に落としていってんだよ。破壊神か!」
学食内はパニックに包まれていた。
「黒瀬が学食で男を無差別狩りしている」という話題が駆け巡り、男子学生たちは恐怖と謎の熱気で阿鼻叫喚となっていた。
◇◇
午後七時十分。駅前。
黒瀬が見覚えのある茶トラを発見したのは、大学を出てすぐのことだった。
以前、この個体を追跡した結果、ラブホテル街で橘と邂逅している。偶然の再現性を確認するには十分な観測対象だった。
「同一個体。進行方向も前回と一致している」
茶トラは黒瀬を一度だけ振り返り、駅前の雑踏へ入っていった。
黒瀬は追った。猫を追跡しているだけであり、それ以上の意味はない。少なくとも現時点では。
猫は横断歩道を渡り、ネオンの密度が高くなる区画へ入る。
黒瀬の足が止まった。
道路の反対側に橘がいた。
隣には、知らない男。橘がその男の肩に何気なく触れている。何かを言われ、声を上げて笑っていた。
黒瀬は二人の間へ入らなかった。
道路の反対側から、ただ見ていた。
橘はまだ黒瀬には気づいていない。
朝の懸垂幕で証明したのは、黒瀬が橘を選んでいるという事実だけだった。橘が黒瀬を選ぶ確率については、八十六ページのどこにも記載されていない。
知らない男の肩に置かれた橘の手が、今朝の巨大声明文よりもはるかに明確な回答に見えた。
黒瀬の足元で、茶トラが一度だけ鳴いた。




