第5話 昼、屋上で密会
「……ここ意外と風が強くて寒いんだな」
地獄のディベートから一夜明けた、昼休み。
佐伯は呼び出された理学部棟の屋上で腕を組んでいた。
一昨日はラブホ前から逃走。昨日はタクシー代1500円を払い、講義中には否定側へ亡命。
あれだけ譲歩したのに、今日は屋上へ呼び出しである。
(いつ終わるんだよ、この追加請求)
フェンスの向こうでは真昼の空が腹立たしいほど晴れている。佐伯は風を避けながら屋上出入口の壁際へ移った。
その隣で、鉄扉がガチャリと開く。
「佐伯まさき。呼び出して申し訳ない」
白衣を羽織った黒瀬が現れた。顔だけ見れば大学案内の表紙。用件はどう考えても裏社会である。
「何の用? 俺、昨日ちゃんと否定側に移ったよね。座席変更だけじゃ足りなかった?」
「変わったのは席だけだ。『ホテルはまた今度』という発言は撤回されていない」
佐伯は開いた扉へ身体を滑り込ませようとした。その進路へ、黒瀬が一歩入る。
バン、と耳の横で音が鳴る。
屋上出入口の脇。佐伯の背中が壁に触れ、その横に黒瀬の手がついていた。逃げようとした足を止め、佐伯は目の前の顔を見上げる。
「ホストより距離詰めるの上手いね。まだ初回なんだけど」
「ふざけずに聞いて」
「聞く聞く。顔が近いと内容入ってこないから、ちょっと下がってくれる?」
黒瀬は下がらない。
(あ、これ冗談通じない日だ)
日によって通じたことがあるような言い方を、頭の中でしてしまった。
「単刀直入に言うけど、めるをホテルに誘うのはもうやめてほしい」
「律儀だねぇ。昨日の自分の発言なんか半分くらい覚えてないわ」
佐伯は薄く笑ったまま、壁についている腕へ目をやった。退いてくれる気配はない。
「で、それはお願い? 命令?」
「君の自主的な判断を求めている」
佐伯は肩をすくめた。肩まで壁に当たって、思ったほど格好はつかなかった。
「俺の予定、橘よりお前の方が気にしてんじゃん。次に遊ぶかどうかは俺と橘が決めることでしょ」
「佐伯まさき」
「はいはい。怖い名前の呼び方すんなって」
笑ってみせても黒瀬の表情は変わらない。佐伯は息を吐いた。
「......つーかさ。その顔で、その距離まで来れるのに、何で橘には普通に『俺と遊ぼう』って言わないの?」
「僕は君より何度も彼女を誘っている」
「じゃあ断られたらまた別の日に誘えば?」
「僕は、そう簡単には切り替えられない」
佐伯は笑うのをやめた。ほんの一瞬だけ。
「……そっか。お前、一回断られるだけで済まないんだ」
壁についていた指がわずかに動いた。
「何が言いたいの?」
「別に。俺に断らせない練習しても橘の返事は変わんないよってだけ」
「君に僕たちの何が分かる」
「何も。だから二人でやってよ。俺を壁に飾ってないでさ。この壁ドンは橘にやれば? 少なくとも俺より喜ぶ可能性あるよ」
「彼女には選ぶ権利がある」
「俺にもあるんだけど。昨日の授業、女の子限定だった?」
黒瀬はしばらく佐伯を見つめていた。やがて、ゆっくりと腕を下ろす。
佐伯はすぐに一歩離れた。笑顔を保つにも適切な距離というものがある。
「今日はこっちから誘う予定はないよ。今日の分だけ。それで勘弁して」
「……今日は、だね」
「カレンダーに勝った日として記録すんなよ。じゃ、お疲れ。昼飯まだなんだわ」
勝手に生涯契約へと話を広げられる前に、佐伯は鉄扉を開けた。踊り場を曲がって黒瀬から見えなくなったところで、ようやく口元の笑いを外す。
「……いや重っ。あれ毎日相手してんの、橘やっぱすげぇ」
ポケットからスマートフォンを取り出しかけ、やめた。
今日くらいは、別の友達と飯を食おう。
◇◇
それから十分ほどして、講義棟一階の廊下。
「じゃあ店いくつか探して送るね」
「おけー。高いとこじゃなくていいよ。普通に肉食いたい」
橋本けんたは橘と向かい合って食事の打診をしていた。昨日の誘いを、冗談だったことにされる前に確認したかったのだ。
結果、肉である。断られるどころか食べたいものまで出てきた。
(……これ普通に行けるやつじゃん)
「焼肉とか?」
「あり。じゃ、すみれ待たせてるから私もう行くわ」
「了解。また連絡する」
橘が片手を上げ、ガラス扉の向こうへ出ていく。橋本も手を振り返した。姿が見えなくなってから、ようやく口元を緩める。
昨日は黒瀬に睨まれ、発言に納税証明書まで要求されたが、誘ってみるものである。何もしなければ何も始まらない。恋愛には多少の勇気も必要だ。
「楽しそうだね、橋本けんた」
振り向くと、勇気の代償が白衣を着て立っていた。
「……あ、黒瀬君。お疲れ」
「めると何を話していたの?」
「ご飯の店。昨日、行こうって話になったから」
黒瀬は答えなかった。橘が出ていったガラス扉へ一度視線を向け、それから橋本を見る。
「今から少し時間をもらえる?」
「昨日のディベートの話?」
「その続きだよ。屋上に来て。人に聞かれると君も話しにくいだろうから」
(俺、何を自白する予定になってんの?)
橋本は廊下を見回した。購買の袋を持った学生たちが、二人の横を通り過ぎていく。
「俺は別に、ここでもいいけど」
「僕はよくない」
一般論にする気が、昨日よりなくなっていた。
黒瀬が階段の方へ身体を向ける。数歩進んだところで立ち止まり、振り返って橋本を見た。
「来ないの?」
その顔を見て、橋本は少しむっとした。
橘の彼氏でもない男に、食事の約束をするたびに睨まれる筋合いはない。ここで逃げたら、昨日の「男の包容力」まで口先だけになる。
「……行くよ。俺も、ちょっと言いたいことあるし」
「よかった。佐伯まさきの時は、途中で話が終わってしまったから」
(あいつ、今日も何かあったのかよ)
橋本は鞄の紐を肩に掛け直した。
言いたいことは決まっている。橘を飯に誘うのに、黒瀬の許可はいらない。
この時点ではまだ、橋本の好みは顔より胸だった。




