第4話 浮気される権利がありません
「はい、昨日の領収書と見積書ね」
ラブホ宿泊未遂の翌日、講義開始十分前。
橘は佐伯の机に二枚の紙を並べた。
「なにこれ、タクシー代1500円と『勝負服無駄打ち慰謝料』10000円? 慰謝料の請求項目が斬新すぎるでしょ」
「被害者の直筆だぞ、払え」
佐伯は見積書を受理せず、千五百円だけ送金した。
「……置いてったのは悪かったよ。タクシー代は払った。ホテルはまた今度で」
「何が、また今度?」
机の横に、黒瀬が立っていた。
佐伯の椅子が鳴った。本人より先に後退した。
「出たッ! 今日のは本物!」
「普通の登校だろ! ……ちょうどいい。じぇに、昨日の夜十時半のアリバイ吐け」
「研究室。過去十年分の複素数平面問題をすべて暗算で解法パターン化し、出題者の思考回路を特定していた。院生二人に確認して」
「知らんわ、過去問から犯人捜すな。なんであんたがいなかったはずなのに、昨日まさきはじぇにの気配に怯えて逃げ出したんだよ。まさかのドッペルゲンガー射出した?」
「僕に聞かれても」
正論だった。腹立たしいことに。
黒瀬は佐伯を見て、次に橘を見た。そしてなぜか満足そうな顔になった。
「……僕がいなくても、めるの周囲では君が撤退するわけだね。この範囲効果は効率がいい」
「俺のトラウマで黒瀬フィールド思いつくなよ」
「それより『また今度』という発言の詳細について説明を──」
「では、講義を始めます」
佐伯は即座に前を向いた。こんなに授業を受けたかった日はない。
「本日の議題は、予告どおり『浮気は許されるべきか』」
(助かったと思ったら議題が追ってきた!)
教壇の老教授が、黒板に議題を書きつける。
その下には『愛の所有権と自由意志』。佐伯には、副題までが自分を狙っているように見えた。
「担当する立場と本人の恋愛観は別です。相手の人格ではなく、主張に反論してください」
佐伯は配布資料の「個人攻撃は禁止」を丸で囲った。一応、三重にした。
教壇前の机は、中央の通路を挟んで二つの区画に分けられていた。右が肯定側、左が否定側。それぞれ前後二列ずつある。
肯定側には、橘と時々同じ講義で顔を合わせる橋本けんたもいた。
橘の隣には当然のように黒瀬が座った。
「あんた反対側だろ。向こう行け」
「反論は近い方が届く」
「マイク使え」
黒瀬を向かいの席へ追い払い、橘は腰を下ろした。
橘と橋本の後ろに、すみれと佐伯。向かいには黒瀬とつきの。佐伯だけは鞄を膝に抱え、出口までの通路を空けていた。
「では肯定側の橘さん、お願いします」
司会役の学生に促され、橘はだるそうに立ち上がった。
「はーい、肯定側から行きます。私に言わせれば浮気なんてお試し期間であって、他の男と遊んでみて『やっぱあいつが一番いいわ』って戻ることもあるでしょ。寄り道禁止にするほど自分に自信ないわけ? そもそもバレなきゃなんでもよくない?」
橘の煽り混じりの立論に、後方のすみれが「それな! めるシーがんば!」とボールペンをペンライトのように振る。
司会が「では否定派反論を」と促すと、黒瀬が静かに立ち上がった。
「双方が合意しているならともかく、相手に伏せたお試し期間は相手の信頼を使った無断の試用だよ。戻るつもりなら、待たせていいことになるの?」
「……普通にディベートしてきたなこいつ」
「で、める。昨日は誰とどこまで合意したの?」
「言い方! あと授業中は『橘さん』って呼べ」
「分かった。橘さん。昨夜、佐伯まさき君と宿泊することについて──」
「名字にしたら聞いていいわけじゃねぇんだよ」
後方で佐伯が資料を持ち上げ、「個人攻撃は禁止」を黒瀬に向けている。黒瀬は全く見ていない。
「昼食から宿泊へ予定を変更した時点で、僕に連絡しなかった理由を確認したい」
「反対側、質問は議題に沿ってお願いします」
司会が割って入ると、黒瀬は一度だけ頷いた。
「では一般論として。本人同士がよければ、第三者の不快感は無視していいということかな」
「誰かが不快になるたびに許可取りに行ってたら飯も食えないだろ」
「僕は不快だよ」
「あんたの不快感は知らん!」
すみれが机に突っ伏した。笑い声だけが漏れて出てくる。
「なら次は、感情という曖昧な数値を排除し、君の行動を数式化して解析しよう」
黒瀬は教壇横の黒板へ向かい、チョークを握った。やたら手際良く数式を書き始める。
「君が他者に割ける時間をT、相手の男の人数をnとする。均等に配分すると一人あたりの時間はT/nとなる」
「均等に配る前提どっから来た? ただの割り算をよくドヤ顔で発表できたな」
黒瀬はnの下に小さく『佐伯』と書き足した。
「待って、変数の匿名性消えてるって。俺の実名を書くなよ」
黒瀬は「T/n」を四角で囲み、その下へ「n=1」と書いた。答えの横にはまだ誰も頼んでいない二重丸がついた。
「したがって、君から受ける熱量を最大化するにはnを1にする。まずはnの要素から佐伯まさきを消去する」
「約分するな俺を」
「愛を無秩序に拡散させれば関係性の秩序は崩壊する。これは熱力学第二法則におけるエントロピーの増大と同義だよ。つまりめるの浮気は熱的死を招く」
すると否定派のつきのが静かに手を挙げた。
「その説明に熱力学を適用する科学的根拠は?」
「僕の精神的平穏が失われる」
「あなたの感想は物理法則にならないよ」
「ではめるに関する規則として定めよう。法と執行を僕に集約すれば対応は早くなる」
「独裁国家とかマジで最悪だろ! 刑事さーん!」
つきのが再び口を挟んだ。
「黒瀬くん。浮気を否定するのと、あなたの許可を必要にするのは別の話だよ」
「同じ否定側だろう」
「あなたの全肯定側ではないから」
「味方に国交断絶されてんじゃん!」
すみれがとうとう声を上げて笑った。
佐伯は笑えなかった。
「俺なんて昨日、不在の黒瀬じぇにの波動攻撃で1500円吹き飛んだんだぞ! 存在しない男に1500円カツアゲされる恐怖分かる!?」
「自業自得だろ発泡スチロール!」
ここで肯定派の別の男子学生、橋本が爽やかに笑いながら手を挙げた。
「あの、恋愛なんてぶっちゃけ互いのニーズの合致じゃないですか。橘さんみたいな可愛い人なら、多少の浮気も『可愛いわがまま』として許容するのが男の包容力というものでは?」
橋本は橘の反応を確かめるように横を見た。
黒瀬のチョークが止まった。
「……君。今、何と言った?」
「え? 男の包容力、という……」
「めるが可愛いことと君が許す立場にいることの間に、論理的な接続が見当たらない。その包容力を適用する相手にいつ、めるが立候補したの?」
その瞬間、教室内の室温が5℃下がった。
橋本の笑顔が返事を待たずに撤退する。黒瀬が自分だけを見ていることに、ようやく気づいた。
黒瀬の顔からはすべての感情が消えていた。
「いや、僕は例として……」
「次回から具体例を出す前に、全遺伝子情報と納税証明書を提出して。一般論ならめる以外でも話せるはずだよ」
「発言の必要書類が重すぎません!?」
橋本は何かを悟ったように静かに手を下ろし、ついでに椅子も引いた。黒瀬との距離だけは反論前より広くなった。
「うわ、橋本くんの包容力、本人だけ収納して閉じた! 秒で撃沈してて笑うんだが!」
すみれが腹を抱える隣で、つきのは黒瀬を見たままノートに何かを書き込んだ。
「黒瀬くん。それ浮気を否定する理由じゃなくてあなたに近づきたくない理由になってるよ」
「そういう効果もあるね」
「褒めてないんだよ」
教壇で、教授が一度咳払いをした。
「一般論に戻してください」
「じゃあさー」
後方の男子学生が面白がって声を上げた。
「もし橘さんが男と二人でラブホ入ろうとしたら、黒瀬くんはどうすんの?」
(ちょっと待て、その超具体例マジでやめて!)
佐伯は資料で顔を隠した。
黒瀬は即答した。
「探す」
「……で?」
「特定する」
「……で?」
「消す」
「怖ああああああああああ!!」
教室が一斉に沸いた。
佐伯だけは立ち上がった。
「それはもはや殺し屋の工程表なんだよ!」
「誤解しないで。僕は法を守る。命を奪うとは言っていない」
「おお、人間として踏みとどまったか、じぇに」
「消すのは社会的信用だけだよ」
「守る法を自分で選ぶな!」
橘が机を叩いた。
「おい、いい加減ディベートしろよ!? これ浮気の是非を話し合う場だから! あんたの拷問プラン発表会じゃないんだよ!」
その時、ガタっと大きな音が響いた。佐伯が自分の椅子と鞄を持ち上げて移動し始めていた。
「待て。どこ行くんだよまさき」
「否定側」
「意見変わったの!?」
「生存方針が変わったんだよ」
つきのは露骨に嫌そうな顔をした。
「ちょっと、勝手にこっちを避難所にしないで」
「端でいい。発言もしない。荷物として置いてほしい。そっちなら黒瀬くんに正面から睨まれずに済む」
さらに、すみれが嬉々として椅子を動かした。
「あ、あたしもちょっと否定側に座るわ。めるシーが黒瀬くんにキレてる顔、正面から見たいし!」
否定側の机に椅子だけが二脚増えた。つきのは自分のノートを引き寄せ、佐伯は黒瀬の視界に入らない位置へ座り直す。
黒瀬が黒板の前で満足げに頷いた。
「否定側、四名。僕の主張が支持を集めているようだね」
「支持じゃなくて避難と見物だろ。選挙区じゃねぇんだぞ」
司会が口を開いた。何か言いかけて、閉じた。手元のレジュメには、まだ『自由討論』と書いてある。
自由にした責任が重すぎた。
肯定派の席に残された橋本は隣に残っているのが橘だけだと気づくと、引いた椅子を少し戻した。
「橘さん。ああいう束縛男は危険ですよ。僕なら橘さんが誰と遊ぼうと自由にさせますし……なんなら今度、黒瀬君のいないところでご飯でも行きません?」
「あー、変な書類持ってこないならいいよ」
バキ、とチョークの折れる音がした。
黒瀬はゆっくり視線を向けた。
「…………橋本けんた。君とは講義が終わり次第、個別に『構造改革』の面談を行いたい」
「いやご飯に誘っただけですけど!?」
「それと、める。君はさっき『バレなければいい』と言ったね。……僕に対する当てつけ?」
「は? ディベートの割り振りだって言ったろ」
「それだけかな。君の心拍数は上がり、瞳孔も拡大している。昨夜、僕が不在だったことへの不満が発言に混ざっているのでは?」
「解析精度が無駄に高ぇんだよ、メンヘラ科学者か。いないくせに邪魔だったことが不満なんだよ!」
「ねぇ、そもそもさー」
すみれが手を挙げた。
「二人って付き合ってるんだっけ?」
「付き合ってない」
橘は即答した。黒瀬の動きが止まった。
今度は後方の誰かが言う。
「じゃあ誰に対する浮気?」
一秒だけ、教室が静かになった。
佐伯がゆっくりと資料から顔を出した。今の一言を言った学生にタクシー代を渡したい気分だった。
「……関係に名前がついていないことと、僕がめるをどう思っているかは別だよ。僕がこれだけ明確に意思を示している以上、君の判断にも考慮されるべきだと思う」
「思うのは勝手だろ。でも私の行動まで決める権利はあんたにない」
今度こそ、黒瀬が黙った。
すみれが口を押さえた。
つきのはペンを止めなかった。
「……認めるよ」
黒瀬がゆっくりと息を吐いた。
「……君が誰と会うかを決める権利は、僕にはない。そこは理解した。でも君に会えない夜まで、僕が平気で過ごす義務はないだろ」
「……そこまでは別に否定してねぇよ」
「だから君が他の男に一ミリでも傾くなら、僕は世界の方を破壊してでも君を僕の観測下に繋ぎ止めたい」
「あははっ! 堂々と世界破壊宣言出たーっ! 一周回って超ロマンチックなんだが!」
「ロマンチックの定義が壊滅してるでしょ、すみれちゃん」
つきのはノートに一本、線を引いた。
「今ので、他人の自由意志を認められない理由が全部あなたの都合だって分かったね。高スペック狂人による『所有権の主張』、傍から見る分には面白いけど」
「理由は説明したつもりだよ」
「正当化には失敗してる」
「否定側が内戦始めた!!」
すみれが机を叩く。
佐伯は教壇を振り返った。
「教授! なんとかしてください! 俺たち黒瀬くんの精神攻撃で全滅します!」
教壇の老教授は、静かにメガネを外し、ハンカチで涙を拭った。
「……諸君。私には、教えることはもう何も……」
「諦めるな教員!」
司会まで頷いていた。
「少なくとも、相手の意思を尊重することの重要性は十分に説明したつもりなのですが……」
「じぇにだけ補講でおけ」
「個別指導ならめるにも同席してほしい」
「補講まで私物化すんなよ」
チャイムが鳴った。
司会がマイクを掴んだ。その日、最も迷いのない動作だった。
「終了です。本日の討論はここまで!」
「待って。まだ僕の主張に誤解が──」
「ここまでです!!」
マイクの音量が、初めて黒瀬を上回った。
教授が出席簿を閉じる。
「レポートでは、本日の発言のうち、論点から外れていたものを挙げ、その理由を説明してください」
「文字数足ります!?」
「では、解散」
椅子が一斉に鳴った。
佐伯は誰より早く資料を鞄に詰めた。「個人攻撃は禁止」の丸だけが、最後まで何の役にも立たなかった。
すみれは笑いすぎて机に額をつけ、つきのに肩を叩かれている。橋本は黒瀬と目を合わせず、遠い方の通路から足早に退出した。
学生たちが蜘蛛の子を散らすように講義室を出ていく中、橘は机に突っ伏した。
「……マジでなんなんだよこの時間」
「有意義なディベートだったね、める」
「どの口が言ってんだよクソヤンデレ」
「君の反論のおかげで、僕が君を独占したい理由がより明確になった」
黒瀬はチョークを置き、橘の隣の椅子を引いた。
「あんた向こう側だろ」
「討論は終わったよ。……研究室では君の画像を一秒間に百枚の速度で再生していたけど、やはり実物には及ばないね」
「気味の悪い告白やめろ。見方が走馬灯なんだよ。せめて普通の速度で見ろ」
「さて、君がさっき言った『バレなきゃいい』という発言について詳しく聞きたいんだけど」
「絶対やだ。すみれとつきのと飲みに行くから」
教室の出口で、すみれが手を振った。
「めるシー! 置いてくよー!」
「今行く!」
橘は鞄を肩にかけ、黒瀬の横をすり抜けた。
「では、僕との予定は変更ということ?」
「最初から入ってねぇ!」
◇◇
その日の夜。
現代倫理学の複数のレポートに、似た指摘が並んだ。
『黒瀬君は、浮気への反対と自分への賛成を混同していた』
なお佐伯の提出分にだけは、末尾に一行、追記があった。
『このレポートを黒瀬君に見せないでください』




