第3話 いないのにいる
「改めて、精算会に潰された私たちの夜に乾杯!」
「そんな未練のある乾杯だったっけ?」
金曜日、午後八時。
駅前の安い焼き鳥屋で、橘と佐伯はジョッキを合わせた。カン、と軽い音が鳴る。
「俺の記憶だと『過去の男が全裸でバッテリー探してたのバレた』だったけど。しかも黒瀬くん同席」
「棺桶の横に検視官までいたようなもんだわ」
「そりゃ来られないね」
前夜に流れた「また今度」が今日だった。二人で肉を食べ、ゲーセンへ寄り、カラオケで喉を潰し、気づけば午後八時。佐伯の「昼飯だけ」は、午後一時の時点でとっくに死んでいた。
佐伯はウーロンハイを一口飲み、さりげなく店内を見回した。テーブル席。カウンター。暖簾の隙間。黒瀬なし。
「……ちなみに今日って猫男は来てないよね? 先に入店して壁と同化してたりしない?」
「猫男って誰だよ。……あぁ、じぇに? いくらあの顔でも迷彩柄にはならないでしょ。GPS無かったらあいつが私の居場所なんて知るわけないし」
「よかった。安心してレモン搾れる」
佐伯は念のためもう一度だけ周囲を確認した。数取器を構えた男も、レモンの不可逆性を人生に接続してくる顔もいない。
安心してレモンを搾ると、レモン汁は何の思想も背負わずただ唐揚げに落ちた。
三杯目が半分を切った頃、橘はウーロンハイのグラスを蛍光灯へ透かした。
「つーかこのウーロンハイ薄くね? ほぼ井戸水なんだけど」
「お前の舌が三杯目で退勤したんじゃない? まぁ薄めた麦茶みたいな味するけどさ」
「ほらやっぱり薄めてんじゃん。証拠隠滅される前に私が飲み干してやる。とりあえず店長呼べ」
「呼ばない。唐揚げ食っとけ」
橘は少し黙り、佐伯の皿から唐揚げを一個奪った。
「まさきのそういうとこ楽でいいわー」
「人の唐揚げ取っても怒られないとこ?」
「関係がカルピス百倍希釈くらい薄いとこ」
「褒め方独特すぎない? カルピスとしてはほぼ水じゃんそれ」
「原液みたいな男、最近胃にもたれるから」
「誰とは聞かないでおくね」
橘はグラスの氷をストローで底へ沈めた。
「……関係に名前つくとさ、一回断っただけでそいつごと拒否したみたいな顔されんのだるいんだよ。あんたなら昨日ダメでも今日また誘うじゃん」
「明日ダメならまた別の日に誘うよ」
「百倍希釈のくせにそこだけは味すんだな」
「褒めた?」
「水にしては」
橘はクスクス笑ったあと、ふと顔を上げた。
「そういや今日の昼、じぇにが四十八ページ分の書類渡してきたんだけど、付録にあんた三ページいたよ。『宿泊可能性あり』とだけ書かれてて、他はほぼ白紙」
「なにそれ怖っ。自治体より細かいのに三ページ使って情報それだけ?」
「これから観測して埋める予定の場所なんじゃね」
「俺エントリーした記憶ないんだけどな」
「向こうが勝手に大会開いた」
「主催者が選手兼審判とかどんなクソゲーだよ」
◇◇
二時間後。
焼き鳥屋を出た二人は、夜風に当たりながら繁華街を歩いていた。
「橘はこのあとどうする? もう一軒行ってもいいし、適当に泊まってもいいし、眠くなったら帰ってもいいし」
「軽っ。中身発泡スチロール?」
「持ち運びには便利だよ」
「じゃあホテルまで自走しろ、梱包材として」
それで決まった。告白も駆け引きも関係確認もないまま、二人はホテル街の方角へ曲がる。
ピコン。橘のスマホが鳴ると、橘より先に佐伯が反応した。
「今の、黒瀬くんから?」
「え? 大学からだけど。明日のディベートのテーマ、『浮気は許されるか否か』だって」
「明日休むか、遺書書いてから行くか迷うな」
「付き合ってもないんだから無罪だろ普通に」
ホテル街に近づくにつれ、通りが赤や紫に染まっていく。
佐伯の手が橘の肩へ軽く回った、そのとき。
──佐伯まさき。
声は鼓膜ではなく脳の内側から聞こえた。
(触ってません! まだ肩に手を回しただけです!)
何の弁明にもなっていなかった。そもそも誰も聞いていない。
佐伯は無言で手を戻した。
「……何してんの?」
「なんでもない。今日はちょっと酒が回ってるだけ」
佐伯は何事もなかったように歩き出した。だが今度は橘の肩に手は回さなかった。
雑居ビルの窓。駐車場。店のガラス。黒瀬はいない。佐伯は三十秒後、もう一度同じガラスを確認した。
「……おい。まさき、さっきから後ろ見すぎじゃね? 首取れるぞ」
「え? ああ、いや、なんでも。……ん?」
夜風が、佐伯の首筋だけを撫でた。
「待って、今の風おかしくなかった?」
「風くらい吹くだろ。地球なんだから」
「いや、首筋だけ正確に通った。確か黒瀬くんが背後に立つときこういう空気になるんだよな」
「んなわけねぇだろ、気象現象じゃあるまいし」
「……なぁ、橘。念の為聞くけどさ、今日は本当に黒瀬くんいないんだよな?」
「いないってば。仕様書と一緒に大学に置いてきた」
「だよねー。ははっ、だよね!」
昼休みのテラス席で、追いもせず、完璧な動線で自分を見送った黒瀬の姿が蘇る。
『今日は、めるをよろしく』
『現時点では、そうだね』
(あの「現時点」って有効期限いつまでなんだよ……!)
二人はそのまま歩き続け、目当てのホテルへ着いた。入口脇には部屋写真の並ぶ空室パネル。
「どれにする? 私は風呂広いとこがいいー」
橘が呑気にパネルを指差した、その時だった。カツン、と路地の奥から不自然に整った足音が響いた。
ホテルの自動ドアのガラスに、暗闇から姿を現した背の高い黒服の男の影が映り込んだ。
(出た────ッ! やっぱり張ってるじゃねぇか黒瀬じぇに────ッ!!)
その人影は、白紙だった三ページを埋めに来たようにしか見えなかった。
佐伯は内心で絶叫しつつ、外側では静かにパネルから指を離した。
「……ごめん橘。今日やっぱやめるわ」
「は……?」
「なんか今日、集中できない」
「何に集中するつもりだったんだよ!」
パネルからすっと一歩下がった佐伯は、引きつった笑顔で言った。
「黒瀬くんがいる」
「いねぇって言ってんだろ! なんなんだよさっきから!」
「分かってる。でも今ここに『いない黒瀬』と『いる黒瀬』が重なってるんだよ! 俺がこの空室パネルを押した瞬間、観測結果が黒瀬で確定する!」
「シュレーディンガーをラブホの空室確認に使うな!」
「このまま入ったら絶対、目閉じた瞬間あの顔出てくる。顔はいいけど今夜見る用途の美形じゃない。無理! 帰る!」
「顔面を用途別に仕分けすんな! 待てこら!」
佐伯はくるりと反転した。
「悪い、橘。俺まだ二十代楽しみたいから!」
「誰も殺すとは一言も言ってねぇだろ!」
「本人がいないから否定も取れない! リスク管理ってやつ!」
佐伯は走った。チャラ男の誇りも、下心も、今日使うはずだったホテル代も置き去りにして走った。
十秒後には、もう信号二つ先にいた。
「待て! 脚力だけ急に少年漫画になるな!」
佐伯が消えた直後、黒い人影がホテル前を通過した。
黒瀬ではない。ただ姿勢がよかっただけで、知らない男女の性夜を一つ潰した会社員だった。
会社員が闇に消えた後も、佐伯が戻ってくる気配はない。
「……は? なにあいつ、マジで意味わかんないんだけど。何しにここまで来たんだよ」
ネオンが虚しく光るラブホテル前で、橘めるは一人、ポツンと取り残された。
「じぇにの幻影が怖いならレモン搾ってる時点で言えよ。こっちは風呂の広さまで指定したんだけど! 明日絶対タクシー代請求するからな、クソ発泡スチロール男!」
橘は盛大に悪態をついたあと、ため息をついて周囲を見渡した。
ビルの陰、細い路地、煙草屋の角。
「……じぇに?」
返事はない。
風がゴミ袋を転がした。黒瀬より先にゴミが出てきた。
「……本人いない方がキモいって、どういう怪奇現象だよ」




