第2話 仕様書の存在しない関係
前夜の清算会では、七点の所有物が持ち主へ返された。
黒瀬だけが分類不能の関係を一件持ち帰った。
そして翌日。購買前のテラス席。
橘は前夜のダメージをそのまま引きずり、テラス席のテーブルの上に突っ伏していた。頬の横には、一口だけ齧った焼きそばパンが転がっている。
「……死ぬ。昨日の清算会で脳のMPが尽きた。私物七点返しただけで、尊厳まで棚卸しされた」
「自業自得じゃんね」
向かいに座る鯉塚すみれは、季節限定のキャラメル味のフラッペをストローで吸い上げながら爆笑した。
「でもウケたわー! 過去の男とモバイルバッテリーが同時に発掘されるとかさ。鈴木くんとの関係自体は一晩で終わってんのに、バッテリーだけ二年居座ってたんでしょ? 本体より充電器の方が長持ちしてんの最高に意味分かんなくて腹痛い」
「鈴木くんにとっては、一夜は合意済みの過去ログで、バッテリーだけが未解決だったんだね。公私が異様に明確だよ」
隣で自作の二段弁当の卵焼きを綺麗に箸でつまみながら、吉田つきのが冷静に補足する。
「まぁ。その明確さのせいで、横にいた黒瀬くんがエラー吐いたわけだけど」
「あー……」
橘は重い頭を持ち上げ、ため息をついた。
「ちなみに、めるシー。昨日のあと、結局佐伯くんの家行ったの?」
「行ってない。清算会が泥沼化して終電ギリギリだったし、まさきも『ねむーい、また今度ね』ってメッセージ送ってきたから、そのまま自分の家に帰って寝た」
「へー。佐伯くんって本当、そのへん軽くて助かるよね。断っても『りょ』の一言で終わるし」
「僕を選んだの?」
木漏れ日の中から、顔だけなら大学案内の表紙である黒瀬が現れた。目だけが事情聴取である。
「家を選んだよ」
「誰の家?」
「私んちだよ。尋問の仕方が捜査官だろ」
黒瀬は「佐伯宅への宿泊なし」と脳内へ記録したようだったが、勝利の顔はしなかった。家に負けた自覚はあるらしい。
「それで、本題なんだけど」
黒瀬は手にしていた分厚いバインダーをテーブルの中央に置いた。ドスッと鈍い音が響く。
「何これ。鈍器?」
「仕様書だよ」
黒瀬は当然のように橘の隣へ座り、バインダーを開いた。表紙には几帳面な明朝体でこう印字されている。
『橘めるとの関係更新に関する暫定仕様書 第一版』
作成者:黒瀬じぇに
承認者:橘める
「……なにこれ」
「全四十八ページ、本文三十二項目。目次、用語定義、付則、改訂履歴つき。午前六時にPDFを送信したけど未読だったから、現物を刷ってきた」
「午前六時は人間が契約を結ぶ時間じゃない」
「だから昼まで待った」
「印刷して追撃することを待つとは言わないだろ」
「重っ! 四十八ページ!? 昼休みに持ち込む人間関係の量じゃないでしょ! めるシーとの関係より仕様書の方が重いよ?」
「関係が軽いから、文書で補強したんだ」
黒瀬は至極真面目な顔で即答した。
「昨夜、鈴木君は『二年前に一度寝た人』、陰木君は『友達』、佐伯まさきは『飲み友達』に分類された。でも僕とめるの関係だけが未定義のまま残っている。君からの暫定評価は、『選考会場に勝手に住み着いた不審者』だ」
「妥当な評価じゃんね」
「原因は、僕たちの関係を成立させる条件が事前に定義されていないことにある。ならば、関係名、連絡頻度、権利範囲、更新条件、終了手続きを明文化すればいい」
「一緒に決めるんじゃなくて、あんたが四十八ページ全部決めたあと、私に判子だけ押させる方式なんだ?」
「本文末の承認欄は空白にしてある。君の意思を尊重しているからね」
橘は引きつった顔で一応、ページをめくってみた。
本文三十二項目。目次、用語定義、付則、改訂履歴。人間関係へ持ち込むには充分な重量と狂気が備わっていた。
『第三条:関係の呼称』
候補:
一、恋人
二、友達
三、セフレ
四、暫定交際相手
五、特別関係者
六、分類保留
「『恋人』が露骨に一番上にあるんだけど。誘導尋問?」
「現在地は『分類保留』だ。君がチェックを入れた項目が、僕たちの正式な関係名になる」
「じゃあ、この『第六条:連絡頻度』は何? 一日の最低連絡回数、返信期限、既読放置の扱い、再通知までの時間……ノルマか?」
「連絡の遅延による精神的摩擦を防止するための規定だよ」
「最低連絡回数は気分、返信期限はなし、更新日は知らん。はい、二ページ目で仕様書が死にました」
「回答者に運用意思がない」
「人間関係を運用できると思うなよ」
橘が仕様書を伏せるより先に、すみれが別のページを開いた。
「待って、これ何!? 『第十一条:宿泊後の関係』だって!」
橘が見出しの下へ視線を落とす。
『身体的接触が発生した場合においても、関係名の自動更新は行わない。ただし翌朝、一方の当事者が前夜の合意を「ノリ」その他の理由によって一方的に無効化する再定義権限を制限する』
「……翌朝の私に、前日の私を『ノリ』で無効にさせないための条項?」
「同一人物による事後改変を防止する事前規定だよ」
「そこだけ言葉が固いの逆に分かりやすっ!」
すみれが笑ったが、黒瀬は反応しなかった。橘は一度だけ黒瀬の横顔を見て、すぐに次のページをめくった。
『第十六条:他男性との接触』
食事、飲酒、二人きりの外出、宿泊、身体関係。対象者の氏名、関係、解散予定時刻、事前通知期限。
宿泊を伴う場合は二十四時間前までに通知。緊急時は発生後三十分以内に報告。
「災害速報より早く私の宿泊情報を共有させようとしてて草」
「僕は彼氏ではない。だからこそ、権利の境界を明文化する必要がある」
「論理がバックギアに入ったまま爆走してない?」
「あ、これ見て。第二十六条の脚注に陰木くんの名前あるよ」
すみれが『参考事例A:橘める・陰木はうす間の友人関係』という項目を指さした。
「『ブロック、喧嘩、連絡断絶後も復旧実績あり。終了条件未設定のため永久ループの危険性あり』……陰木くん、勝手に参考文献にされてんだけど!」
黒瀬は手続きなしで戻った三年間から、手続きが必要だという真逆の結論だけを持ち帰っていた。
「はー……もう頭痛い」
橘は黒瀬の胸ポケットからボールペンを抜き、本文末の承認欄を開く。そして空白の承認欄に二文字を大書した。
【却下】
「はい提出。私の意思を書面で提出しました」
「了解。改訂要求として受領するね。承認欄への直接記入を確認した以上、これは交渉の開始を意味する。第二版の作成に入るよ」
「話が通じなさすぎる……」
橘は四十八ページの文字の山に、開始三分で飽きた。
そしてスマホを取り出すと、隣に座る黒瀬の左手首を掴み、その掌を上に向けさせる。指の間へスマホを横向きに挟み、画面を見やすい角度へ傾けた。
「手そのまま固定して。アニメ見るから」
「……僕の手は、書類を押さえるためにあるんだけど」
「今はスマホ押さえて」
黒瀬は不満そうな顔のまま、画面が一ミリも傾かない角度に指先を調整した。
「画角はこれでいい?」
「正式採用」
仕様書は却下されたが、作成者はスマホスタンドとして採用された。顔面は国宝、業務内容は備品である。
すみれがフラッペを吸いながらげらげら笑った。
「黒瀬くんの扱いが家電以上、人間未満でしょ。あ、ねえねえ、巻末の付録、もっとヤバいのあるくない?」
すみれが仕様書の最後のページを指さした。
『付録:橘める関係者一覧・精度E』
陰木はうす──友達。継続三年、復旧実績あり、優先度・高。
鈴木なおと──過去に一度寝た人。継続性なし、脅威度・低。
佐伯まさき──飲み友達。宿泊可能性あり、情報不足。
烏丸れいぶん──元彼。調査中。
氏名不明の筋肉質な男性──調査中。
「待って、なんであたしとつきの氏の名前がないわけ!? 差別でしょ!」
「現時点で、めると身体関係や交際に発展する競合リスクは低いと判断したからだよ」
「それはそうだけど言い方!」
「これ、めるちゃんの交友録じゃなくて黒瀬くんの嫉妬に人名を割り当てたデータベースだよね」
つきのが言った瞬間、黒瀬の指先が止まった。スマホの画面が初めてわずかに傾く。
「あ、図星による手ブレ」
「揺れていない」
橘は動画を止め、巻末を覗き込んだ。佐伯の項目だけは三ページに及び、その大半が不気味なほど白い。
「なんで情報不足のまさきに三ページ使ってんの?」
「情報が不足しているから空欄が多い」
「一ページを埋めてから増やせよ!」
「じゃあ、めるシー。あたしは何枠?」
「すみれ」
「固有名詞だけで通った!」
「じゃあ私は?」
「つきの」
「私も名札だけで滞在許可が出たみたい」
「……なら僕も『黒瀬じぇに』だけで足りるはずだ。なぜ僕だけ名前では足りないの?」
「名前の横に勝手に『権限』『観測』『将来計画』を増築するからだよ。あんたが名前だけで収まってくれないからでしょ」
「必要項目を追加しているだけだ」
「それ違法建築だろ。爆破するぞ」
つきのが弁当箱の蓋を閉め、仕様書の一項目を指した。
「これ、『第二十一条:拒否後の関係』だけど」
『橘めるが身体的接触その他の提案を拒否した場合においても、現行の関係性を維持する。拒否を理由とする無視、脅迫、排斥等の不利益を与えない』
「拒否を理由に不利益は与えない。めるの意思を尊重している」
「じゃあ、めるちゃんが明日も断ったらどうするの?」
「もう一度提案する」
「明後日も断ったら?」
「修正案を提出する」
つきのは静かに黒瀬を見つめた。
「それ……断れたことになってる?」
黒瀬の口が、わずかに結ばれた。
「選べるってさ、断ったあとも関係が壊れないことでしょ。一つの提案を断っただけで、その人全部を拒否したことにされないこと」
黒瀬は数秒黙り、左手でスマホを支えたまま右手のボールペンを走らせた。
【拒否は、関係終了の意思表示を意味しない】
【同一条件による再提案:可】
【再提案回数の上限:未設定】
「最後の一行で全部台無しなんだが!」
すみれがテーブルを叩いて爆笑した。
「拒否後も関係が継続するなら、選択肢を提供し続けることが誠意だと判断した」
「閉じるボタンのない悪質広告かよ! 画面いっぱいにポップアップし続けてんだよ、あんたは」
ピコン。
抗議に合わせたように、黒瀬の指の上でスマホが震えた。
佐伯まさき:『昨日会えなかったし、今日メシ行かない? 今、購買の近く。奢るよー』
「あ、まさき」
橘は黒瀬の手からスマホを回収し、即座に返信した。
『行く。奢りなら今すぐ行く』
一口だけ齧られた焼きそばパンは、昼食から前菜へ降格した。橘はそれを袋へ戻し、鞄を肩にかける。
「じゃ、まさきと飯行ってくる」
「待って、めるシー。あたしも──」
「すみれちゃん。次の講義、出席取るよ」
つきのの一言で、すみれの腰が椅子へ戻った。
「つきの氏、今日だけ代理お願い!」
「前回もそれ聞いた」
「大学があたしの交友関係を妨害してくるよー!」
橘が立ち上がったところで、テラスの向こうから佐伯が現れた。片手だけを軽く上げ、昨夜の宿泊予定など最初から存在しなかったような、気の抜けた笑顔を向ける。
「おつかれ。何食う?」
「奢りなら肉」
「奢られる側の第一声じゃないね」
黒瀬は橘の腕を掴まなかった。代わりに椅子を引き、彼女が通れるだけの幅を空けた。
しかし二人が歩き出す直前、黒瀬は横を通過しかけた佐伯に声をかけた。
「佐伯まさき」
「……何?」
佐伯の軽い足取りが半歩だけ止まる。
「今日は、めるをよろしく」
「昼飯だけだけど」
「現時点では、そうだね」
黒瀬はそれ以上何も言わなかった。
「何その保護者面。あんたに預けられた覚えないんだけど」
橘は黒瀬を一度だけ睨み、佐伯の背中を押して歩いていく。
佐伯は振り返らずに、ガラス扉の反射だけで黒瀬の位置を確認した。
すみれが首をかしげる。
「追いかけないの?」
「追いかけても、めるが僕を選んだことにはならない」
つきのが少しだけ目を見開いた。
「分かってるじゃない」
「だから、選ばれる条件を特定する」
「危うく感心しかけたのに一行で前言撤回したね」
黒瀬はバインダーを引き寄せ、佐伯のページへ赤い付箋を貼った。
【拒否された場合の即時撤退】
【非追及性】
【結果を要求しない】
【比較情報:不足】
「佐伯君は、断られても『りょ』で終わるから楽なんだよ。追及もしないし結果も要求しない。その方がめるちゃんは楽なんでしょ」
「……結果を要求しない関係に何の意味があるの」
「それが分からないうちは、その四十八ページは一生承認されないと思う」
黒瀬はペンを止めた。
「一生か。改訂期間としては充分だね」
つきのは額を抑えた。
四十八ページの仕様書は一項目も承認されなかった。
代わりに佐伯の白紙三ページだけが、赤い付箋を得た。




