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黒瀬によれば、これは純愛らしい。  作者: 柊ナツキ
第4章『セフレ以上、その他未満』

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第1話 精算できないものがある

 中間試験の採点結果が公開された日の夜。


 橘(たちばな)めるは駅前の居酒屋の個室で、スマホを単位の御神体みたいに頭上へ掲げていた。

 画面に鎮座しているのは『六十二点/可』の文字。合格者の中ではかなり下層に近いが、生還は生還である。


「見て、単位が咲いた! 奇跡の六十二点。問七が満点だった!」


「ほぼ俺の脳みそからひねり出した十二点じゃねぇか」


「じゃあ共同名義にする? 持分は五分五分で」


「単位は不動産じゃねぇんだよ」


 陰木(かげぎ)はうすが、呆れ果てた顔で卓のメニュー表を叩いた。

 橘は笑い声をあげながら、陰木の皿に残っていた最後の唐揚げへ無断で箸を伸ばす。陰木は皿ごと唐揚げを避難させたが、一秒だけ苦々しい顔で考えたあと、その一個を橘の取り皿へ放り込んだ。


「問七の分だ。食え」


「え。教えたのそっちなのに、なんで教えてもらった私がもらえるの?」


「お前に変な貸しを残すと、あとで『あのとき助けてもらえなかった慰謝料』とか言ってMacBook持っていくだろ」


「そこまで裏社会すぎるやり方しねぇよ。私を何だと思ってんの?」


「他人の部屋を無料の備品倉庫だと思ってる女」


 橘は何か言いたげな顔のまま唐揚げを頬張り、陰木はなんでもない顔でカシスオレンジを飲んだ。


 互いに謝るべきことはもう数日前の犬小屋で済んでいる。ただし二人とも、それを友情の節目として額縁に入れる趣味はない。

 橘は問七を一行も飛ばさずに解き、陰木は最後の唐揚げを渡した。三年間、切れたり繋がったりしてきた回線が復旧している証拠としては、それで充分だった。


 橘の右隣から万年筆の走る音がした。

 黒瀬(くろせ)じぇにが、手帳に一行書き加えている。


【陰木はうす:関係復旧に要した費用──唐揚げ一個】


 上座に座った鈴木(すずき)なおとが、グラスの縁を指先で二度叩いた。


「では皆様、前回から継続している臨時清算会を再開いたします」


 居酒屋へ場所を移しても案内人だけは勤務中だった。卓上には『橘める未清算案件一覧』と印刷されたA4用紙が置かれている。


「本日の基本ルールを確認します。一杯目は橘さん負担。逃走は不可。録音および撮影は禁止。当事者全員の同意がない私信についても、議題への持ち込みを禁止します」


「居酒屋で読むコンプライアンスじゃない」


「なお橘さんの隣には黒瀬じぇに君が着席し、物理的な逃走を阻止する体制を整えております」


「逃亡犯扱いをやめろ、今日は鞄あるから逃げないって」


「鞄を置いて逃走した実績がありますので、担保としては無価値です」


 橘の右隣で、黒瀬は穏やかに微笑んでいた。指二本で橘のパーカーの裾をつまんでいるだけなのに、そこだけ万力で卓へ固定されているみたいに動かない。


「大丈夫。逃げないなら困らないよ」


「逃げない人間にも可動域は必要だろ、離せ」


「話がまとまりましたので始めます」


「まとまってねぇよ。進行で事実を圧殺すんな」


 鈴木は橘の抗議ごと一枚目をめくった。


「確認を兼ねて、軽微な案件から処理しましょう。受付番号十。誕生日祝い動画を二倍速で視聴し、感想を捏造した件」


「『感動した』とは言ったけど、動画の内容に感動したとは一言も言ってない。二十分の動画を十分で見終えられる、現代テクノロジーの目覚ましい進歩に対して言った」


「反省の色なし、と」


「感想の対象が違っただけだろ」


「では続いて受付番号六。白い充電ケーブル四本。所有者」


 橘が紙袋から取り出した瞬間、五人が手を挙げた。


「一本足りないじゃん」


「橘さんがご自身のものを混ぜた可能性は?」


「ある。じゃあ私も挙手」


「不足が二本になりました。所有権の競争率を自分で上げないでください」


 個室が笑いに包まれる。橘めるという人間が一人いるだけで、遺失物管理は市場経済へ発展するらしい。

 鈴木は周囲の熱気に参加せず、静かに次のページをめくった。


「続いて、受付番号十一。私の案件です」


 橘が紙袋の底を探り、黒い金属製のモバイルバッテリーを取り出した。裏面には油性ペンで『鈴木』と書かれている。


「あ。これ、なおとの?」


「二年前から私のものです」


「私の部屋に二年いたならもうこっちの永住権取ってない?」


「所有権に居住年数を持ち込まないでください。二年前、橘さんが私宅へ宿泊された翌朝、このモバイルバッテリーが消失した件です」


「あー、あれか。なおとがパンツと一緒に探してたやつ」


 ──個室から、音だけが先に退店した。


 黒瀬のジンジャーエールが、口元へ届く数センチ手前で止まる。

 烏丸(からすま)れいぶんは何も言わず、膝のノートPCを静かに閉じた。周囲の箸も、皿と口の中間で一斉に停止する。


 橘は、発言の事故を二秒遅れで理解した。


「……やべ、服を着せ忘れた」


「私の尊厳にですか?」


 鈴木の声は店の冷水より温度が低かった。


 向かい側に座る陰木は笑わなかった。正確には、口元だけがものすごく嫌な形に上がりかけたものの、周囲の視線を確認すると、何事もなかったようにカシスオレンジへ口をつけた。

 直後、橘のスマホにDMが届く。陰木からだった。


『本体も急速充電済み?』


「ぶっ!」


 橘が盛大にむせた。


「橘さん、大丈夫ですか」


 陰木がよそ行きの穏やかな声で水を差し出してくる。顔には一切の下心も悪意もない。大学のオープンキャンパスで保護者対応すら任せられそうな外面だった。

 またスマホが震える。


『口には出してねぇから規約遵守』


 橘は笑いを堪えながら卓の下で返信した。


『死ね』


『私信につき転載は禁止』


「……あとで覚えてろよ」


「何のことでしょうか、橘さん」


 陰木は他人の前でだけ搭載される完璧な敬語を崩さず、カシスオレンジの氷を回した。

 橘はメッセージを公開できない。今、自分で確認した規約に自分の首を絞められている。


 鈴木は二人の水面下を察していたが、証拠が議題に提出されていないため、処理しないことにしたらしい。


「話を戻しますが、私が問題にしているのは寝たことではなく未返却物です。寝たのはお互いの合意ですが、こちらは二年間返却されていませんでした」


 鈴木がそう言って、橘の手からモバイルバッテリーを回収する。


「今、重要なのは備品の管理ですので」


 公私を分離しすぎた結果、一夜よりモバイルバッテリーが上位議題になっていた。


「……める。五点だけ確認したい」


 その横で、黒瀬がグラスを置いた。全く笑っていなかった。


「二年前の何月、場所、どちらが誘ったのか、回数、現在の関係を答えて」


「知らん、なおとの家、多分ノリ、一回、今は何もない。以上」


 黒瀬は何も書かなかった。書かなくても、今の五項目は二度と消えない顔をしていた。


「鈴木なおとは、君の何?」


「二年前に一回寝た人」


 橘は枝豆を口に放り込みながら即答した。


「では陰木はうすは?」


「友達」


 こちらは鈴木への回答よりも早かった。


「即答はいいけど一回こっち見ろよ。枝豆の殻を見ながら俺との三年分を処理すんな」


 黒瀬の万年筆が、手帳の上で止まる。


「……では、僕は」


 ピコン。

 黒瀬の質問が最後まで届くより先に、卓上へ伏せられていた橘のスマホが鳴る。


『佐伯まさき:まだ清算してる? 終わったら二軒目どう? 終電なくなったらうち来てもいいし』


 画面を確認した橘は、食べかけのポテトを口へ入れながら片手で返信する。


『いけたら行く。今、他人の人生返してる』


「今の誰」


 質問を中断された黒瀬の声だけが、通知より低い場所から届いた。


「まさき。これ終わったら飲むかも」


「その後は」


「流れで泊まるかも」


「既存の未返却物を処理してる席で、新しい未帰宅予定を作るな!」


 陰木が、今度は管理人ではなく友達の声で怒鳴った。黒瀬はそちらを見もしない。


「佐伯まさきとはどういう関係なの」


「ただの飲み友達。この前メシ奢ってくれた人」


「今夜泊まったらセフレ?」


「一回で定期契約扱いにはならないだろ。何回か続いたらそう呼ぶかもしれないけど、まだ飲み友達」


「……一回寝ただけでは関係名は変わらない?」


「変わるときもあるし、変わらないときもある。その日のノリ」


「……なら」


 中断された質問を、黒瀬はもう一度拾い直した。


「僕は、君の何?」


 橘は初めて手を止め、枝豆を持ったまま首をかしげた。


「……さあ?」


「鈴木なおとも陰木はうすも即答できたのに、どうして僕だけ分からないの」


「セフレと言うには手間かかりすぎだし、友達と呼べるほど無害な執着でもないし、彼氏にした覚えもないからな。選考会場に勝手に住み着いた不審者ってとこ?」


 黒瀬の手から万年筆が落ちた。枝豆の空き殻を入れた小鉢へ、からんと軽い音を立てて着地する。高級万年筆の墜落先としてはあまりにも塩茹でだった。


「応募した覚えはあるよ」


「採用した覚えはねぇんだよ」


「僕は君との一晩を、関係の不可逆な更新として保存している」


「こっちは『ノリ』で保存してる」


「保存形式が違いすぎる」


「知らんがな。互換性まで私に求めんな」


 黒瀬は小鉢から万年筆を拾い、付着した塩をナプキンで丁寧に拭き取った。それから手帳の新しいページを開く。


【現在の関係:分類不能】

【橘めるによる暫定評価:不審者】

【比較対象:佐伯まさき/現状:飲み友達】

【状態変動の可能性:今夜】

【要確認:継続条件/排他性/終了条件】


「なにそれ、仕様書の表紙?」


「明日、関係定義案を渡す。今月の予定と交友関係を提出して」


「やめろ、今害虫駆除業者の顔してるぞ」


「関係終了の宣言と関係終了は一致しないんだろ」


 陰木が両手で顔を覆った。


「俺の三年分から最悪の一行だけ継承しやがった」


 鈴木がグラスの縁を二度叩いた。


「個人的な管理交渉は店外で行ってください。続いて、受付番号十二」


 黒瀬の人生にとっては重大な方針転換だったが、清算会にとっては私語らしい。


 その夜の清算会は、七点の所有物を元の持ち主へ返した。

 黒瀬だけが、名前のつかない関係を一件持ち帰った。


 関係の返品窓口は、最初から存在しなかった。

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