第1話 精算できないものがある
中間試験の採点結果が公開された日の夜。
橘めるは駅前の居酒屋の個室で、スマホを単位の御神体みたいに頭上へ掲げていた。
画面に鎮座しているのは『六十二点/可』の文字。合格者の中ではかなり下層に近いが、生還は生還である。
「見て、単位が咲いた! 奇跡の六十二点。問七が満点だった!」
「ほぼ俺の脳みそからひねり出した十二点じゃねぇか」
「じゃあ共同名義にする? 持分は五分五分で」
「単位は不動産じゃねぇんだよ」
陰木はうすが、呆れ果てた顔で卓のメニュー表を叩いた。
橘は笑い声をあげながら、陰木の皿に残っていた最後の唐揚げへ無断で箸を伸ばす。陰木は皿ごと唐揚げを避難させたが、一秒だけ苦々しい顔で考えたあと、その一個を橘の取り皿へ放り込んだ。
「問七の分だ。食え」
「え。教えたのそっちなのに、なんで教えてもらった私がもらえるの?」
「お前に変な貸しを残すと、あとで『あのとき助けてもらえなかった慰謝料』とか言ってMacBook持っていくだろ」
「そこまで裏社会すぎるやり方しねぇよ。私を何だと思ってんの?」
「他人の部屋を無料の備品倉庫だと思ってる女」
橘は何か言いたげな顔のまま唐揚げを頬張り、陰木はなんでもない顔でカシスオレンジを飲んだ。
互いに謝るべきことはもう数日前の犬小屋で済んでいる。ただし二人とも、それを友情の節目として額縁に入れる趣味はない。
橘は問七を一行も飛ばさずに解き、陰木は最後の唐揚げを渡した。三年間、切れたり繋がったりしてきた回線が復旧している証拠としては、それで充分だった。
橘の右隣から万年筆の走る音がした。
黒瀬じぇにが、手帳に一行書き加えている。
【陰木はうす:関係復旧に要した費用──唐揚げ一個】
上座に座った鈴木なおとが、グラスの縁を指先で二度叩いた。
「では皆様、前回から継続している臨時清算会を再開いたします」
居酒屋へ場所を移しても案内人だけは勤務中だった。卓上には『橘める未清算案件一覧』と印刷されたA4用紙が置かれている。
「本日の基本ルールを確認します。一杯目は橘さん負担。逃走は不可。録音および撮影は禁止。当事者全員の同意がない私信についても、議題への持ち込みを禁止します」
「居酒屋で読むコンプライアンスじゃない」
「なお橘さんの隣には黒瀬じぇに君が着席し、物理的な逃走を阻止する体制を整えております」
「逃亡犯扱いをやめろ、今日は鞄あるから逃げないって」
「鞄を置いて逃走した実績がありますので、担保としては無価値です」
橘の右隣で、黒瀬は穏やかに微笑んでいた。指二本で橘のパーカーの裾をつまんでいるだけなのに、そこだけ万力で卓へ固定されているみたいに動かない。
「大丈夫。逃げないなら困らないよ」
「逃げない人間にも可動域は必要だろ、離せ」
「話がまとまりましたので始めます」
「まとまってねぇよ。進行で事実を圧殺すんな」
鈴木は橘の抗議ごと一枚目をめくった。
「確認を兼ねて、軽微な案件から処理しましょう。受付番号十。誕生日祝い動画を二倍速で視聴し、感想を捏造した件」
「『感動した』とは言ったけど、動画の内容に感動したとは一言も言ってない。二十分の動画を十分で見終えられる、現代テクノロジーの目覚ましい進歩に対して言った」
「反省の色なし、と」
「感想の対象が違っただけだろ」
「では続いて受付番号六。白い充電ケーブル四本。所有者」
橘が紙袋から取り出した瞬間、五人が手を挙げた。
「一本足りないじゃん」
「橘さんがご自身のものを混ぜた可能性は?」
「ある。じゃあ私も挙手」
「不足が二本になりました。所有権の競争率を自分で上げないでください」
個室が笑いに包まれる。橘めるという人間が一人いるだけで、遺失物管理は市場経済へ発展するらしい。
鈴木は周囲の熱気に参加せず、静かに次のページをめくった。
「続いて、受付番号十一。私の案件です」
橘が紙袋の底を探り、黒い金属製のモバイルバッテリーを取り出した。裏面には油性ペンで『鈴木』と書かれている。
「あ。これ、なおとの?」
「二年前から私のものです」
「私の部屋に二年いたならもうこっちの永住権取ってない?」
「所有権に居住年数を持ち込まないでください。二年前、橘さんが私宅へ宿泊された翌朝、このモバイルバッテリーが消失した件です」
「あー、あれか。なおとがパンツと一緒に探してたやつ」
──個室から、音だけが先に退店した。
黒瀬のジンジャーエールが、口元へ届く数センチ手前で止まる。
烏丸れいぶんは何も言わず、膝のノートPCを静かに閉じた。周囲の箸も、皿と口の中間で一斉に停止する。
橘は、発言の事故を二秒遅れで理解した。
「……やべ、服を着せ忘れた」
「私の尊厳にですか?」
鈴木の声は店の冷水より温度が低かった。
向かい側に座る陰木は笑わなかった。正確には、口元だけがものすごく嫌な形に上がりかけたものの、周囲の視線を確認すると、何事もなかったようにカシスオレンジへ口をつけた。
直後、橘のスマホにDMが届く。陰木からだった。
『本体も急速充電済み?』
「ぶっ!」
橘が盛大にむせた。
「橘さん、大丈夫ですか」
陰木がよそ行きの穏やかな声で水を差し出してくる。顔には一切の下心も悪意もない。大学のオープンキャンパスで保護者対応すら任せられそうな外面だった。
またスマホが震える。
『口には出してねぇから規約遵守』
橘は笑いを堪えながら卓の下で返信した。
『死ね』
『私信につき転載は禁止』
「……あとで覚えてろよ」
「何のことでしょうか、橘さん」
陰木は他人の前でだけ搭載される完璧な敬語を崩さず、カシスオレンジの氷を回した。
橘はメッセージを公開できない。今、自分で確認した規約に自分の首を絞められている。
鈴木は二人の水面下を察していたが、証拠が議題に提出されていないため、処理しないことにしたらしい。
「話を戻しますが、私が問題にしているのは寝たことではなく未返却物です。寝たのはお互いの合意ですが、こちらは二年間返却されていませんでした」
鈴木がそう言って、橘の手からモバイルバッテリーを回収する。
「今、重要なのは備品の管理ですので」
公私を分離しすぎた結果、一夜よりモバイルバッテリーが上位議題になっていた。
「……める。五点だけ確認したい」
その横で、黒瀬がグラスを置いた。全く笑っていなかった。
「二年前の何月、場所、どちらが誘ったのか、回数、現在の関係を答えて」
「知らん、なおとの家、多分ノリ、一回、今は何もない。以上」
黒瀬は何も書かなかった。書かなくても、今の五項目は二度と消えない顔をしていた。
「鈴木なおとは、君の何?」
「二年前に一回寝た人」
橘は枝豆を口に放り込みながら即答した。
「では陰木はうすは?」
「友達」
こちらは鈴木への回答よりも早かった。
「即答はいいけど一回こっち見ろよ。枝豆の殻を見ながら俺との三年分を処理すんな」
黒瀬の万年筆が、手帳の上で止まる。
「……では、僕は」
ピコン。
黒瀬の質問が最後まで届くより先に、卓上へ伏せられていた橘のスマホが鳴る。
『佐伯まさき:まだ清算してる? 終わったら二軒目どう? 終電なくなったらうち来てもいいし』
画面を確認した橘は、食べかけのポテトを口へ入れながら片手で返信する。
『いけたら行く。今、他人の人生返してる』
「今の誰」
質問を中断された黒瀬の声だけが、通知より低い場所から届いた。
「まさき。これ終わったら飲むかも」
「その後は」
「流れで泊まるかも」
「既存の未返却物を処理してる席で、新しい未帰宅予定を作るな!」
陰木が、今度は管理人ではなく友達の声で怒鳴った。黒瀬はそちらを見もしない。
「佐伯まさきとはどういう関係なの」
「ただの飲み友達。この前メシ奢ってくれた人」
「今夜泊まったらセフレ?」
「一回で定期契約扱いにはならないだろ。何回か続いたらそう呼ぶかもしれないけど、まだ飲み友達」
「……一回寝ただけでは関係名は変わらない?」
「変わるときもあるし、変わらないときもある。その日のノリ」
「……なら」
中断された質問を、黒瀬はもう一度拾い直した。
「僕は、君の何?」
橘は初めて手を止め、枝豆を持ったまま首をかしげた。
「……さあ?」
「鈴木なおとも陰木はうすも即答できたのに、どうして僕だけ分からないの」
「セフレと言うには手間かかりすぎだし、友達と呼べるほど無害な執着でもないし、彼氏にした覚えもないからな。選考会場に勝手に住み着いた不審者ってとこ?」
黒瀬の手から万年筆が落ちた。枝豆の空き殻を入れた小鉢へ、からんと軽い音を立てて着地する。高級万年筆の墜落先としてはあまりにも塩茹でだった。
「応募した覚えはあるよ」
「採用した覚えはねぇんだよ」
「僕は君との一晩を、関係の不可逆な更新として保存している」
「こっちは『ノリ』で保存してる」
「保存形式が違いすぎる」
「知らんがな。互換性まで私に求めんな」
黒瀬は小鉢から万年筆を拾い、付着した塩をナプキンで丁寧に拭き取った。それから手帳の新しいページを開く。
【現在の関係:分類不能】
【橘めるによる暫定評価:不審者】
【比較対象:佐伯まさき/現状:飲み友達】
【状態変動の可能性:今夜】
【要確認:継続条件/排他性/終了条件】
「なにそれ、仕様書の表紙?」
「明日、関係定義案を渡す。今月の予定と交友関係を提出して」
「やめろ、今害虫駆除業者の顔してるぞ」
「関係終了の宣言と関係終了は一致しないんだろ」
陰木が両手で顔を覆った。
「俺の三年分から最悪の一行だけ継承しやがった」
鈴木がグラスの縁を二度叩いた。
「個人的な管理交渉は店外で行ってください。続いて、受付番号十二」
黒瀬の人生にとっては重大な方針転換だったが、清算会にとっては私語らしい。
その夜の清算会は、七点の所有物を元の持ち主へ返した。
黒瀬だけが、名前のつかない関係を一件持ち帰った。
関係の返品窓口は、最初から存在しなかった。




