第11話 終わった相手は追ってこない
非常階段に、十数人分の足音と怒号が反響していた。
事情を何一つ知らない茶トラは最初の角で右へ曲がり、そのまま追走集団から離脱した。この場において、最も状況判断の速い生物だった。
「じぇに、次!」
「右。階段を二つ下りて搬入口へ」
踊り場へ入る直前、黒瀬が橘の袖を放した。
「この先は一人で逃げて。僕が止める」
「今の、今日イチ彼氏っぽい!」
「『っぽい』は聞かなかったことにするよ」
「勝手な改竄やめろ! 非常時の比喩だから!」
橘が階段の下へ消えた直後、陰木を先頭に十数人が踊り場へなだれ込んできた。
「橘はどっち行った!」
「本人の許可なく逃走経路を第三者へ渡すことはできないよ」
「さっきまで本人に全力で提供してただろ!」
その日、橘は本当に逃げ切った。
代わりに黒瀬がその場で捕まり、十三件分の伝言を預かった。うち五件は返却要求、七件は苦情、一件は呪詛である。
「……『いつものとこ集合』って言われて五箇所回らされた件、次からは住所で送れって」
「酔って一時間電話した翌日に『昨日なんか話した?』って言われた件、次会ったら奢れって」
「あとこれは呪詛です」
次々に叩きつけられる伝言を手帳に書き留めながら、黒瀬はふと首を傾げた。
「……なぜ全員、『今度』がある前提なの?」
隣で冷ややかに書類を開いていた鈴木が、淡々とした声で言った。
「終わった相手は、そもそも夕方にここまで追いかけてきませんよ」
黒瀬は十三件目まで記録を終え、しばらくその一覧を眺めた。
五件が「返せ」。七件が「次会ったら言う」。一件が「末代まで呪う」。
「……呪詛まで次回持ち越しなんだね」
黒瀬は手帳の余白へ、静かにペンを走らせた。
【暫定:関係終了の宣言と、関係終了は一致しない】
「つまり、僕も終了しなければいいんだ」
「お前はまず開始位置を確認しろ」
二人のやり取りを無視し、鈴木は手元の一覧表へ静かに一本の線を引いた。
「対象者が逃亡したため、本日の精算会は中止です。なお逃走中、会員三名の飲料が倒れ、一名が靴紐を切り、陰木さんの逃走に伴い、会議室のLANケーブル一本が要点検です」
「俺それ被害者側だろ!」
陰木の怒号が、やたら綺麗に階段室へ反響した。
しばらくして、陰木が思い出したように黒瀬を見る。
「……おい。あいつ、明日の問七マジで解けんのか」
「本人の学習精度までは保証できないよ」
「途中式飛ばすんだよ。前の数字を途中で捨てるから、後ろ全部死ぬ。俺が何回言ったと思ってんだ」
黒瀬は少し考え、手帳を閉じた。
「君の教えまではブロックしていないと思う」
「……誰が上手いこと言えっつった」
結局その日の清算会は、案件を一つも減らせないどころか四件増やし、後日へ持ち越された。
◇◇
翌朝。
巨大な講義室には、問題用紙をめくる音と、シャープペンの乾いた音だけが響いていた。
試験開始の合図とともに問題用紙をめくった橘は、問七で手を止めた。
見覚えがある。
数字も文章も違う。だが前提条件を一つ飛ばすと途中式が惨殺され、なぜか答えだけは奇跡的に合ってしまう悪魔の構造は同じだった。
『ここ。前の数字を途中で捨てるから、後ろ全部死んでる。あと三に星の足を生やすな。別の数字になるだろ』
赤ペンで二行目を乱暴に囲みながら説明していた陰木の声が蘇る。
橘は反射的に一行飛ばしかけ、手を止めた。
前提条件から書く。前の数字も途中で捨てない。危うく分子に星を書きかけたが、それも消した。
一行ずつ順番に式を進める。
最後に残った式は、あの日、陰木の赤ペンの下にあったものとよく似ていた。
橘は小さく口元を緩めた。
今度は、何も飛ばさなかった。
第三章『友達って便利な言葉だね』完




