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黒瀬によれば、これは純愛らしい。  作者: 柊ナツキ
第3章『友達って便利な言葉だね』

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第10話 管理人、有線LANで釣れる

 スピーカーの雑音を切り裂いて、衣擦れと小さな呼吸音が響き渡った。


 普段の低音加工を一枚も被っていない、生身の男の声。今より少し眠そうで、今よりずっと素直で、不機嫌の擬態だけが壊滅的に下手な、三年前のあの声だった。


『……就職してもこの辺なら、ルームシェアでよくね。お前一人だと家事と締切まとめて爆死すんだろ。家賃折半ならコスパいいし。……俺は別に、お前と住むの嫌じゃないから』


 ──会場から、音が消えた。


 すみれの笑顔が止まり、つきののスマホは動画撮影状態のまま宙で固まる。

 黒瀬の万年筆も、紙の上の一点で動きを止めた。


『……今の変な意味に取んなよ。フレンズとしての意味だからな。あと絶対──』


「それ以上流すなあああああああああああああ!!」


 右の壁が、管理人の匿名性より先に音を通した。


『──保存すんな。聞いたら即消せ』


 録音の中の陰木は、三年後の自分へ丁寧に追い打ちまでかけた。


 そしてきっかり二・一秒後。


『それ以上流すなあああああああああああああ!!』


 今度はスピーカーから、ガビガビに低音加工された同じ絶叫が遅れて爆ぜる。壁越しの生声で正体が割れ、加工音声が二・一秒遅れで本人確認まで済ませた。


「……すみません。音声加工には約二・一秒の遅延があります。先ほどの生声は、右隣の小教室から壁を経由して先に到達しました」


 烏丸は、謝罪の形で事故報告書を読み上げた。

 スクリーンの中央では、留守番の黒い犬が何も知らない顔で点滅している。


 すみれが素早く立ち上がり、椅子を蹴った。


「管理人、壁の向こうで自爆して鳴いた! 現場押さえて回収してくる!」


 長机二列の隙間を最短距離で抜け、右壁の隅にある細い接続扉へ突っ込む。つきのは止めずに、スマホを横画面へ変えた。


「正体バレの現場は、横画面の方が全身のパニック画角が入るよね」


「なんで横にした!? 狂気の撮影設計やめろ!」


 壁の向こうから、加工を完全に捨てた怒号が返ってきた。


 すみれが接続扉を引き開ける。

 そこは、「使われていない空き部屋」として誰も気に留めなかった隣の小教室だった。会場入りのときには確かに空だった部屋だ。


 折り畳み机。音声ミキサー。マイク。黒いノートPC。

 最後に、機材より逃げ支度の遅い管理人が一人。


 陰木はノートPCを脇に抱え、反対側の非常口へ逃げようとしていた。その逃走距離は八十センチで終わった。

 脇に抱えた端末から伸びるLANケーブルが、ぴん、と張っている。三年間の匿名運営を支えた有線接続が、最後の八十センチだけ管理人を裏切った。


「捕獲ー! 管理人、有線LANで釣れたよ!」


「有線なのは端末だろ! 人間をルーターみたいに扱うな!」


 陰木が端子へ手を伸ばすより先に、すみれが非常口を塞いだ。満面の笑顔で両腕を広げる。


「大丈夫、逃げても絶対に追いつくから。短距離だけなら陸上推薦を狙える速さだよ!」


「何も大丈夫じゃねぇんだよ!」


 十数秒後。

 非常口をすみれに塞がれ、接続扉には会員たちが殺到し、逃走経路を完全に失った陰木が、ノートPCを両腕で守りながら会場へ戻ってきた。

 機材は無傷だった。管理人の匿名性だけが、八十センチ先で回収不能になっていた。


「管理人って実在したんだ!?」


「普通に同じ大学の学生だったの!?」


「なんで管理人まで顔がいいんだよ。この会、被害者側の採用基準どうなってんだ」


「会員番号ゼロが、物理的にも壁の裏にいた……」


 鈴木だけは落ち着いたまま、やけに納得した顔をしていた。


「橘さんに関する案件だけ、管理人の応答が異様に早かった理由は理解できました」


「全案件なるべく早く処理してたわ! そこだけピックアップすんなよ!」


 大騒ぎする会員たちの横で、橘はスクリーンを見た。

 陰木を見る。

 もう一度、犬を見た。


「……あんた三年もの間、ずっとこの黒い犬の皮被って私の悪口裁いてたわけ?」


「皮被ってねぇよ! アイコンだよ! あと悪口じゃなくて、被害報告の整理と未然防止の危機管理だ!」


「隣の部屋に居座って壁越しに吠えながら会を牛耳ってたんでしょ? ここただの犬小屋だろ」


「わん」


 黒瀬だった。


「きっしょ、あんたは別口の犬だろ! 便乗すんな!」


「何で俺の正体暴露事故が犬の多頭飼育崩壊に繋がるんだよ!」


 陰木の絶叫で、固まっていた会員たちも遅れて一斉に再起動した。


「同棲!?」


「彼氏じゃないの!?」


「元同級生!?」


「被害者の会の管理人が、加害者との共同生活を予約してたの!?」


 理解の追いつかない者から順に、好き勝手な関係名を投げ始める。

 会員資格を剥奪されたばかりの三十一番も、恐る恐る手を挙げた。


「管理人ご本人へ申し上げるのは非常に怖いのですが……被害者の会を運営しながら、加害者本人との同居を画策されていたのであれば、これは著しい利益相反では……?」


「画策してねぇよ! 三年前、こいつを一人暮らしさせたら生活リズムと単位が同時に全滅すると思って、最終手段として選択肢を出しただけだ! お前らが思うような関係じゃねぇし、音声でも『フレンズとして』って念押ししたの聞こえなかったのか!」


「え、待って。私、あんたと住む計画あったの!? 今この場所で初めて知ったんだけど!!」


「拡散した張本人が初耳にリセットすんな!」


 橘は笑いすぎて腹を抱えて崩れ落ちる。


 しかし黒瀬は一切笑っていなかった。万年筆の先から滲んだインクが、整然と並んだ文字を一つ潰す。

 録音の中には、卒業後も、家事も、家賃もあった。黒瀬がこれから手に入れるつもりだったものを、陰木は三年前に「友達」のまま口にしていた。


「僕がこれから埋めるつもりだった未来に、君は三年前から席を置いていた。それでも関係名は『友達』。……友達って、本当に便利な名前だね」


「便利じゃねぇよ」


 陰木は迷わずに即答した。


「便利なら三年もこんな面倒くさい関係を続けてねぇし、今ごろ有線LANで釣られて晒し首にもなってねぇ」


 橘は床にしゃがみ込んだまま、机の脚を叩いた。


「じぇに、あんた管理人の正体知ってたの?」


「三日前から」


「あんたら、私に黙っていつから秘密共有の共犯者になってんだよ!?」


「共犯じゃねぇ。こいつは俺の正体を握って観察を楽しんでいた脅迫者だ」


「観測者だよ。君が匿名性と、めるの私信のどちらを守るか見ていた。壁が先に回答したのは想定外だけど」


「どっちも選ぶ前に壁が俺を売ったけどな!」


「はうすが壁一枚でフルリモート名乗ってたの凄まじくウケるんだけど。あんた大学まで来て在宅勤務ごっこしてたのかよ」


「家じゃねぇし勤務でもねぇよ! お前らが余計な内部告発に踊らされて会場に雪崩れ込まなければ、全部平和に終わってたわ!」


 橘は笑いすぎて浮いた涙を親指で拭い、スクリーンに残ったファイル名を読んだ。


「てかさ、これ誰が持ってたの? ファイル名めちゃくちゃ私っぽいけど」


「お前が三年前に悪ノリでバラ撒いたからだろ! 『保存禁止』って付ければ誰も保存しないと本気で思ってた、お前の壊滅的なネットリテラシーに聞け!」


 会員番号三十一番が、律儀に手を挙げた。


「自分は橘さんから直接受領したわけではないです。友人から友人へ、たぶん三人ほど経由して受領しました」


「三次感染してんじゃねえか!」


「あー……高校のグループチャットに一回だけ投げたかも。あんたが急に彼氏みたいなこと言い出して腹抱えて笑えたから」


「その一回が、三年後の今ここで流れてんだよ」


 陰木はスクリーンを見なかった。


「この前、文芸部で笑ってたときも同じだ。お前は投げたら忘れる。投げられた側だけずっと先まで持たされるんだよ」


 つきのはそこで初めて、録画していたスマホを下げた。

 橘は録音のファイル名を見て、それから陰木を見る。


「……勝手に音声を回したのも、あんたを勝手にネタにしたのも、私が悪かった。今度から外に出す前にあんたに聞く。……ごめん」


 陰木の口が、次の怒号を吐く形のまま止まった。


「……なんで急にちゃんと謝るんだよ。こっちはブチ切れる用の怒鳴り声しか準備してねぇんだよ」


「知らん。私の真面目な謝罪にそっちの台本を合わせろ」


「謝る側が演出の指示まで出すな」


「でもさ、あんたも大概だろ。私の被害報告を三年分集めて、正体隠して黒い犬の後ろから上から目線で判決を下してたの、普通にダサいわ」


「この会は、被害を受けた奴が一回吐き出して正気に戻るための避難所だ。全部が俺の私怨ってわけじゃねぇ」


「全部じゃないなら一部は確実に私怨じゃん」


 陰木はぐうの音も出ず固まった。スクリーンの黒い犬も、今だけは気まずさで目を逸らしているように見える。


「……この前、お前にブチ切れた勢いで臨時清算会に私怨を混ぜた。そこは俺が悪かった」


「じゃあ、お互い無断転載、勝手な作品化は永久禁止。笑うときも先に許可を取るってことで」


「笑う前提を今すぐ外せ」


「善処しまーす」


 すみれが両手で口元を覆いながら、つきのの耳元で震える声で囁いた。


「ねえ、これ歴史的な公開仲直りの現場?」


「たぶん。管理人の社会的死亡と完全同時進行してるから、感動していいのか判定がバグる」


 橘はポケットからスマホを取り出し、陰木との個チャ画面を開いた。

 画面の表示は変わらない。


【このユーザーにはメッセージを送信できません】


「で、このブロックは?」


「腹が立ったから一時的に切っただけだ。三年分の履歴は消してねぇし、問七の解説とお前の単位は完全に別件。ブロック一つで全部終わったみたいな顔すんな」


 陰木はポケットからスマホを引っぱり出し、親指を素早く二度滑らせた。橘の画面から、送信不能の赤い表示が消える。


「解除したけど、どうでもいい猫の画像を一秒おきに送ってきたら戻すからな」


 黒瀬の万年筆が、再び動き始めた。


【友達:切断しても、次の用件で復旧する】


「三年分の人間関係を一行の障害報告にまとめてわかった気になるなよ」


 陰木は黒瀬に冷たい一瞥を投げかけ、ノートPCを机に戻した。


 Enterキーが叩かれる。


 ぷつ、とスクリーンから会の表題が消えた。黒い犬だけが画面の右下へ退き、残った黒地に白い文字が浮かび上がる。


 陰木は会場を見渡して、一度だけ息を整えた。


「管理通達──『私信封鎖』」


【対象:当事者全員の許可を欠く私信】

【発効:即時(管理人裁定)】


 今度は加工も二・一秒の遅延もない、自分の声で告げた。


「管理人『留守番』による匿名運営は、本日をもって終了。以後、対象となる私信は審議へ上げない。管理人権限による例外も認めない」


 もう一度、Enterキーが鳴った。


 《橘める被害者の会 臨時清算会》


「今回の緊急案件は以上。案内人、本来の清算を再開してください」


「承知しました」


 そこで案内人はようやく、本来の職務を思い出したらしい。議事録の書類を手に持ち直した。


「それでは皆様、改めて橘さん本人へ確認したい事項がある方は──」


 鈴木が言い終えるより先に、左端の椅子が床を引っ掻いた。


「去年貸したモバイルバッテリー、まだ返してもらってません」


 その向かいでも、一脚。


「一回だけ貸した限定リップ、二週間後に別の女経由で返したよね。しかも一言目が『私の方が似合ってた』って言った件、終わってないから」


「俺が三時間かけて作った誕生日動画、開始六秒で二倍速にしたよな」


「一緒に観るって約束した映画、別の人と先に観て、夜中に犯人だけ送ってきた」


 四脚目が立ったところで、残りを数える意味はなくなった。

 椅子の脚が次々と床を削り、十数人分の未清算案件がようやく正しい宛先を向いた。


 橘が一歩下がる。

 会員たちは、打ち合わせもなく一歩進んだ。


「待って。バッテリーはたぶん家。リップは物流事故だし、あんたにも似合ってる。動画は気持ちまで倍速で受け取った。映画は二周目でも面白い。実質、未解決一件じゃない?」


「全部、一件ずつ未解決だ。逃げんなよ」


「清算会って普通、座って平和的にやるもんじゃないの?」


「お前が座って最後まで話を聞くならな」


「これ、今日中に終わる?」


「それは橘さん次第です。三年間分ですので」


 陰木と鈴木に釘を刺され、橘はさらに半歩、右側の接続扉へ寄った。


「逃げてはない。偶然、いま接続扉の近くに立ちたくなっただけ」


「偶然の発生位置を廊下側に調整する?」


「じぇに、今だけ話早い。頼む」


 黒瀬は万年筆を置き、接続扉の前を塞いでいた椅子を静かに引いた。

 橘から廊下まで、一本の逃走経路が開通する。


「じゃ、会場変更で!」


 椅子が完全に道を空けた瞬間、橘は接続扉へ飛び込んだ。


「やっぱり逃げたじゃねぇか! 待てこら!」


「逃亡じゃない、会場変更! 続きは居酒屋でお願い! 一杯目だけ私が奢るから!」


「一杯目で十数件まとめて示談になると思ってんのか!」


 橘は、陰木が三年間守ってきた犬小屋を最短距離で横切り、そのまま反対側の非常口へ向かう。


 陰木が追った。


「戻れ! このまま逃げたら問七の続き教えねぇぞ!」


 橘の足が、半歩ぶんだけ本気で止まった。


「さっき単位は別件って言っただろ!」


「逃走は今発生した新規案件だ!」


 すみれは、いつの間にか虫取り網を持っていた。


「待てー! 未清算の女王! 今清算したら楽になるよー!」


 十数人の会員たちも、それぞれの未清算案件を抱えたまま雪崩れ込んだ。


「バッテリー!」


「リップ!」


「動画!」


 追及は、とうとう被害品目だけを叫ぶ段階へ入った。


「当会は、加害者本人を集団で追跡する行為を推奨しておりません!」


 鈴木もそう叫びながら、最後尾でしっかり走っていた。


 黒瀬は最後に立ち上がり、橘が置き忘れた鞄を拾い上げる。だが廊下へ出た時点では、もう橘の隣を走っていた。


「める、右の方が空いてる。全員からは逃がせるよ。鞄も僕が持つ」


「助かる! 持つべきものは荷物持ち!」


 黒瀬は右を指し、その手で橘の袖口を掴んだ。


「僕から逃げる経路はないけど」


「今それ、敵側の性能だから!」


 非常口が勢いよく開く。

 扉の外で丸くなっていた茶トラが十数人分の足音に跳ね起き、橘と同じ方向へ全力で駆け出した。


 猫は橘より速かった。

 以前、黒瀬をラブホに誘導した茶トラが、今は事情を何一つ知らないまま一行の先頭を翔けていく。

 その後ろを橘と、その袖を掴んだままの黒瀬、陰木、虫取り網を掲げたすみれ、つきの、被害者十数人、そして追跡を推奨していない案内人が走っていく。


「見た目だけなら、大学祭の新競技だね」


 つきのが走りながら評した。


 烏丸も一度は立ち上がった。

 だが、開きっぱなしのノートPCと、点いたままのプロジェクター、床に置き去りにされた数人分の鞄を見回し、静かに椅子へ座り直す。


「……すみません。では、私は機材と荷物を見ておきます。皆さん、気をつけて」


 返事の代わりに、廊下の向こうから「映画!」という怒号だけが届いた。

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