第9話 被害者の会・精算会
被害者の会には、橘める本人を入れてはいけない。
昨日、わざわざ追加された切実な規約である。制定から二十四時間も経っていない。
そして本日、午後六時四分。
規約違反そのものが、会場の引き戸へ耳を張り付けていた。
『では次。会員番号十二番。貸借物について』
「傘です。橘さんに貸しました」
『返却の有無は』
「三か月後、知らない女子中学生から」
「は? 返してんだろ、冤罪おつ」
橘が異議を申し立てると、右隣のすみれが口を抑えて震えた。
「めるシー、まだ入室すらしてないのに廊下から弁明始めないで。普通に聞こえるって」
「いや返却済みなら私100%悪くなくね? ただの物流事故じゃん」
「事故起こしたなら補償拒否しちゃダメなんよ」
左で、つきのが無表情のままスマホに入力した。
【被告、入廷前から第一件目を否認】
「被告じゃねぇって」
三人とも声量だけは潜入者なのに、内容は完全に公開裁判だった。
夕方のサークル棟三階。薄暗い廊下には、遠くの軽音部が叩くドラムと、文化系サークル特有の用途不明な奇声が時々流れてくる。
その中で、この扉だけが物々しい。
ドアノブの少し下には茶トラ猫のシール。その上には、本日のためだけにわざわざ印刷されたらしい紙。
【橘める被害者の会・臨時被害棚卸し及び精算会】
【関係者以外立入禁止】
【橘める本人への会場共有を厳禁とする】
橘は最後の一行を指で叩いた。
「私、まだドア開けてないのに存在だけで違反してんだけど」
「概念犯罪者だね。人間卒業おめでとう」
そもそも、三人がここにいる理由はもっとひどい。
──三十分前。
無響文芸部のグループチャットへ、一通の匿名メッセージが届いた。
『本人抜きで本人の私信について審査するの、普通に考えて不公平じゃないですか?』
続けて、
『変更後の会場、サークル棟三階。猫シールの部屋』
マーカーで書かれた雑な手書き地図まで添付されていた。
鈴木が会場を変更し、場所を伏せ、橘へ「絶対に来ないでください」と念まで押した努力は、匿名会員リークであっさり死んだ。
「内部統制、紙屑以下じゃん」
「突撃ー!」
橘の冷ややかな感想に、すみれは一秒で決意した。
「めるシー被害者イベントとか絶対おもろいじゃんね。本人降臨はスペシャルゲストとして胸熱すぎるって!」
つきのもノートPCをパタンと閉じた。
「なら私も行こうかな。本人参加禁止の会に本人を入れたら、議事録がどこから崩れるか見てみたい」
「私が混ぜるな危険の洗剤みたいでウケる」
──そして現在に至る。
扉の向こうでは、二件目の被害報告が過熱していた。
『会員番号二十七番。予定変更について』
「はい。橘さんから『明日空いてる?』って連絡が来たんで、バイト代わってもらって、勝負服買って、店予約して、駅まで行きました」
橘が小声で「あー」と嫌な顔をした。すみれが目ざとく振り向く。
「めるシー、その顔すでにギルティじゃん」
「待て。続きを聞かないと私かどうか確証持てない。全国に橘はたくさんいる」
「待ち合わせ十五分前に、『ごめん今日無理。寿司食ったら眠くなった。また今度ねー』って言われました」
「それ私だわ!」
「自首はやっ!」
『その後、次回の予定は』
「一年三か月ありません」
「あ、長期じゃなくて死亡案件だった」
「死んでるよ! 相手の心も期待も全部死んでるよ!」
今度は声量を間違えた。
扉の向こうが、ぴたりと止まる。廊下には、軽音部のシンバルだけが虚しく鳴った。
「……今、廊下から声しませんでした?」
『気のせいです』
加工された低い音声が即答した。
管理人・留守番。
『続けてください。精算会を進めます』
橘の眉間に露骨にしわがよった。
「……この管理人さぁ、なんか無性に腹立つ」
「匿名加工されてるのに、粘着質な湿度が部屋干しの生乾きバスタオルって感じだよね」
「『続けてください』の中に『頼むから静かに消えてくれ』っていう祈りが漏れ出してるんよ」
「私に会ったことあんのかな」
「向こうはめるちゃんのことかなり知ってそうだけど」
『次、服飾品』
「俺の家に置いていったパーカー、三か月後に別の男が着てました」
「循環してんじゃん。SDGsだろ」
すみれがとうとう限界を迎えた。
「もう入ろーよ。外から本人が逐一最高裁の判決覆そうとしてる方が絶対カオスだって!」
「それな」
橘は即決した。
つきのがスマホのカメラを構える。
「現場の動画撮影開始。歴史的初逮捕の瞬間かもしれない」
「私が自分の悪口部屋に入るだけだろ!」
「『本人参加禁止』のね」
橘は引き戸の枠に手をかけた。
中ではまだ管理人が淡々と読み上げている。
『なお本日の清算対象には、貸借物、予定変更、未返信、私信晒し、および──』
ガラッ。
「ここが私の悪口オフ会会場ですかー!?」
全員が止まった。
長机。パイプ椅子。黒い犬アイコンが表示されたプロジェクター。壁には『被害金額:プライスレス』『既読は返事ではない』など、大学公認とは思えない怪文書が並んでいる。
会員たちは、抜き打ちテストを告げられた学生のように硬直した。
橘は彼らの視線を浴びながら、満面の笑顔で片手を挙げる。
「どーも、災害本体でーす。避難訓練お疲れさま! 本人差し置いて盛り上がってるとこ悪いけど、そのまま続けて?」
誰も続けなかった。
本人参加禁止の精算会へ、本人が来た。
規約としては事故。
会場は避難訓練から本番へ移行した。
「なに? 本人来た途端に全員鯖落ち? 回線弱すぎて草」
最初に顔が死んだのは、入口側にいた案内人の鈴木だった。
「……来ないでくださいと、この間わざわざ申し上げましたよね」
「聞いた上でだよ」
「そうですか。私の説明能力に問題がなかったことだけ確認できました」
鈴木は目を閉じ、案内人としての役割を静かに放棄した。ここから先は災害保険の管轄である。
その少し奥の壁際では、烏丸が膝の上のノートPCを静かに閉じた。
「……める様。来てしまったんですね」
「れいぶんまでいるじゃん。何これ、元彼も被害者枠?」
「……私は被害者ではないと思っているのですが」
困ったように笑っただけで、「帰ってください」とは言わなかった。経験上、言うだけ無駄と知っている顔である。
そして最後に。
「通信環境は極めて正常だよ」
教室の一番奥から、聞き慣れすぎた低温の声がした。
橘の笑顔が一瞬だけ止まる。
一番後ろの壁際。
黒瀬が、窓際のパイプ椅子に当然のように座っていた。膝にはレザーのノート、手には万年筆。出禁対象とは思えないほど態度が主催者側である。
「める。君の特等席、空けておいたよ」
黒瀬は隣の椅子を引いた。
「……何であんたが一番馴染んでんだよ! 昨日、参加禁止されてただろ、どうやって着席まで行った?」
「移動した」
『物理の話はしてねぇんだよ!』
その瞬間、スクリーン横のスピーカーが盛大にハウリングした。
『黒瀬じぇには傍聴のみです。橘める本人は入場禁止。全員、勝手に規約を拡張しないでください!』
加工されているはずの声から、管理人の苛立ちだけが生声で漏れていた。
すみれが吹き出して腹を抱える。
「禁止物二種類、普通に隣同士で座ろうとしてんじゃん!」
「あーあ、危険物の分類に失敗したね。ゴミの日ならアウトだよ」
つきのがスマホのキーボードを打ち込みながら乾いた独り言を漏らす。
橘は堂々と黒瀬の隣の椅子に座ると、スクリーンの黒い犬アイコンを睨んだ。
「管理人さぁ。主役抜きで勝手に私の決算市やってんの普通にずるくね?」
『出ていってください。会の可用性が崩壊します』
「嫌でーす。私の被害なのに私だけ閲覧権限ないのおかしいだろ」
『規約違反です』
「私、会員じゃないから規約の適用外でーす!」
数秒。管理人が墓穴を掘って沈黙した。
黒瀬の万年筆だけが紙の上でさらさらと動いている。
ただし視線はスクリーンではない。右側の壁に向いている。管理人の正体を知っている人間だけができる、非常に性格の悪い見方だった。
壁の向こうで陰木が頭を抱えている姿まで、黒瀬にはほぼ見えている。
橘は机に肘をついて笑った。
「ほら、次の被害者誰? 三年分まとめて精算してやるから来いよ」
会員たちは困惑したように顔を見合わせる。管理人は沈黙したままだ。
「本人いる方が話が早くて最高じゃん。逃げないからどうぞ」
橘の煽りに、最前列の男がゆっくり手を挙げた。
「……じゃあ、本人いるなら本人に確認すればよくないですか」
なんとなく聞き覚えのある理屈に、つきのが男の顔を見る。それからスマホへ視線を落として、三十分前に届いた匿名メッセージを開き直した。
「……あ」
男がこちらを見ると、つきのは何かを察したように薄く笑った。
「猫シールの部屋、地図分かりやすかったよ」
鈴木が勢いよく振り返った。スクリーンの犬アイコンも当然ながら動かない。
しかし、スピーカーから流れていた微かなノイズだけが不自然に途切れた。
『…………会員番号三十一番』
加工音声なのに、呼び捨て寸前の圧だけは加工できていない。会場の空気が一瞬だけ別方向へ死んだ。
『会終了後、残ってください』
「まだ何も聞かれてないんですけど」
『次に進みます』
「番号で居残り命令とかほぼ死刑宣告なんだが!」
すみれの笑い声が響く中、三十一番は怒られている自覚があるのかないのか、まだスマホを操作していた。
「それで、私信なんですけど。これ確認しちゃっていいですよね」
『その議題は後です』
返答が早かった。今まで規約だの議事順だのを盾にしていた管理人の、素早い拒絶。
三十一番が顔を上げる。
「まだ何のファイルか言ってませんけど」
三十一番は構わずスマホを机へ置く。スクリーンに、とても頭の悪いファイル名が表示された。
【激重男おもろすぎ_保存禁止.m4a】
黒瀬の万年筆が止まり、烏丸もほぼ同時に顔を上げる。
『……そのファイルは、議題から除外します』
「うわ、私が付けそうな名前。『保存禁止』なのに保存されてんじゃん」
『再生しないでください』
返答が速すぎた。
三十一番が眉を上げる。
「橘さん、これ知ってます?」
「知らん。流してみ」
『私信の無断再生は、先日追加した規約で禁止しています』
「私がいいって言ってるけど」
『駄目です。あなたの許可だけでは足りません』
「……誰の許可が要るの?」
そのとき。
ガタッ。
右の壁の向こうで何かが落ちた。
二秒後、スピーカーから同じ音がした。
橘がゆっくり壁を見る。
「……そこに誰かいんの?」
『…………』
「じゃあ、とりあえず中身流してみます」
三十一番の指が、再生ボタンへ落ちる。
『待っ──』
タップ。




