第8話 友達に仕様書はない
「……怒りという障害が発生しているのに、なぜサービスだけ継続しているんだ」
翌朝、一限開始前。
眠そうな学生がまばらに散る講義室の最前列で、黒瀬は分厚いバインダーを開いていた。表紙には整いすぎた字でこう記されている。
『対・橘める専用フレンドシップ動作仕様書』
そこに並んでいるのは、昨日までの陰木の行動記録だった。
【ブロック中でも必要物は届ける】
【罵倒の直後にも次の予定が存在する】
【関係終了の宣言が終了として処理されない】
契約としては欠陥しかない。解約手続きは形骸化し、所有権も責任範囲も曖昧。それでも切断のたびに、試験や飯などのどうでもいい予定ひとつで復旧する。
性能が低いのに、耐障害性だけが異常に高い。
黒瀬は最後にひとつの仮説を書き加えた。
【仮説:友達とは、品質を捨てて復旧に全振りした関係である】
【目標:橘める専用友人関係の構築──黒瀬理論】
「朝から他人の友情を障害試験にかけんなよ」
橘が隣の席へ鞄を落とした。黒瀬はバインダーを閉じて、何事もなかったように顔を上げる。
「再現実験だよ。一度の失敗で仮説を捨てるのは、検証ではなく逃避だからね」
「友達判定に追試があると思うな。落ちたら嫌われて終わり」
橘は呆れながら椅子へ座り、机の上に置かれていた一枚の紙に気づいた。
基礎統計の試験対策プリント。
表には問七、裏には橘の誤答傾向から逆算した類題が並んでいる。説明は簡潔で、数式も整理されていた。奇跡的に、ポエム、観測、将来の同居計画といった学習に必要のない概念は見当たらない。
「え、なにこれ普通に分かりやすい! いつもの愛とか最適化とか監禁予定表は?」
「友情仕様で変更した。友達は相手が困っていたら必要なものだけを渡す。過剰に説明せず見返りも要求しない」
「言い方は相変わらずヤバいけどサンキュー、じぇに。今回はマジで助かる」
黒瀬の口元が緩んだ。十年越しの研究が国際的に評価された学者みたいな顔をしていた。
「では放課後に理解度の確認をする。基準に達していなければ試験終了まで毎日補習するよ」
「きっしょ、補習のふりした囲い込みだろ! 友情の下から監視カメラ出てきてんぞ」
「君が単位を取るまで必要な位置にいるだけだよ。ちなみに資料の機能に問題は?」
「資料は神。友達としては失敗」
黒瀬の動きが止まった。顔がよすぎるせいで、展示中の彫刻が処理落ちしたようにしか見えない。
「……成功条件は満たしたはず。何か不備があった?」
「その『完璧な友達の処理実行しましたけど? 採点お願いします』みたいなドヤ顔」
黒瀬はしばらく橘を見たあと、無言でバインダーを開いた。
【学習支援:有用】
【関係分類:変更なし】
【原因:顔面圧】
「顔のせいにしてる時点で次も落ちるからな!」
開始三分。
黒瀬の友情再現実験は、既に補講へ突入していた。
その後、黒瀬は講義中も休み時間も友達らしい行動を試そうとしたが、橘から返ってきた評価は一貫して「きっしょ」だった。
◇◇
同日の放課後。
西日の入り始めた空き講義室で、橘は黒瀬に監視されながら問七を最初からやり直していた。
廊下側の窓は開いており、遠くからサークルの声が時々風に混じって入ってくる。
机の右側には、黒瀬が作った整然とした解説。左側には、陰木が鈴木経由で寄越した字の荒いルーズリーフ。
内容だけなら黒瀬の方が詳しい。それでも橘は陰木の紙を教科書の上へ置き、黒瀬の資料を補助として右側へ並べている。
黒瀬はその配置をしばらく見たあと、ポケットから小型のノギスを取り出した。橘の右手と二枚の資料との距離を測る。
陰木の紙まで3.4cm。黒瀬の紙まで7.1cm。
「なんでノギスなんか持ってんだよ! 嫉妬をミリ単位で可視化する気か」
「優先順位を修正するだけだよ」
黒瀬は自分の資料を、橘の右手から3.3cmの位置へ移した。
本人としては1mmでも勝てば意味があるのだろう。橘が元の位置に戻す。黒瀬がまた前へ出す。
三度目で橘はノギスを取り上げた。
「これであんたのバグった距離感も測ってみろ」
「測定上限を超えると思う」
そのとき、教室後方の廊下側にある引き違い窓が勢いよく開いた。
「おい橘! 鈴木から聞いたぞ! 分子に星書いて遊ぶのやめろ! 次も落単してぇのか!」
陰木が窓枠から上半身を乗り出していた。用件だけが先に到着し、本人の社会性は廊下へ置いてきたらしい。
橘が振り返る。陰木も橘を見る。
そこでようやく、二人とも昨日から喧嘩中だったことを思い出した。
「……」
分子に生えた星だけを残し、空気が一度止まる。
黒瀬は沈黙の流れる二人を見て、静かにバインダーを開いた。
「観測結果。友達は通信遮断中でも試験前には物理的に介入する」
「違う!」
「違う!」
綺麗に重なった。
陰木は先に目を逸らし、窓から身を引いた。その数秒後、今度は普通に扉から入ってくる。
「二回目の登場おつ」
「窓から全部入ったら不審者だろ」
「上半身だけなら正常という判断?」
「お前は黙ってろ」
陰木は赤ペンを握ったまま橘の机へやってきて、ルーズリーフの二行目を乱暴に囲んだ。
「ここ。前の数字を途中で捨てるから、後ろ全部死んでる。あと三に星の足を生やすな。別の数字になるだろ」
「でも可愛くね?」
「答案用紙はデコ帳じゃねぇんだよ。可愛さで単位が出るならお前は今ごろ首席だわ」
「じぇにも同じこと言ってたな」
「じゃあそいつに聞けよ」
問七を間に挟んだだけで、二人の会話は少しずつ元の速度へ戻っていく。
黒瀬は陰木の赤ペンの動きを見ながら尋ねた。
「ブロックしているのに、どうして直しに来たの?」
「ムカついてても、こいつが落ちたら──」
「落ちたら?」
橘が顔を上げる。陰木は一瞬詰まり、赤ペンで問七を強く叩いた。
「翌日から愚痴が長ぇんだよ。大学の治安維持だ」
黒瀬は無言でペンを走らせた。
【関係障害:継続中】
【支援経路:稼働中】
【本音:入力後、即時削除】
「書いたやつ消せ!」
陰木がバインダーへ手を伸ばす。黒瀬は寸前で閉じ、紙一枚ぶんだけ引いた。
「非公開データだよ。めるには見せるけど」
「俺も当事者だろ。何で記録されてる本人に閲覧権限ないんだよ。独裁国家の公文書か!」
黒瀬は答えず、机の下から小さな紙袋を出した。
「それと、これを返す」
袋の中には、四限終了後に学食で購入しておいた唐揚げが一個だけ入っていた。表面には小さなラベルまで貼られている。
【前回取得分への返却】
【重量差:1.2g以内】
【感情的補償:含まず】
陰木はラベルを読み、唐揚げを見て、最後に黒瀬を見た。
「なんで唐揚げ一個に検品表がついてんだ。感情的補償なんか誰が請求したんだよ」
「この前、君の所有物を不可逆に処理した分の補填。僕は君と友達ではないから、貸借を曖昧にする理由がない」
黒瀬と陰木が押し問答してる間に、橘が紙袋へ手を伸ばした。
「じゃ、私が食おうかな」
黒瀬と陰木が、ほぼ同時に袋を遠ざけた。
「お前のじゃねぇ」
「めるへの返却物ではないよ」
「急に共同防衛してて草。あんたらやっぱコンビ組めば?」
「解散前提でも嫌だ」
「共同運用上の利益がない」
黒瀬は少し考えて、バインダーを開いた。
【陰木はうすとの結論一致率:上昇】
「今すぐ下げろ。お前と俺エンドは世界線を何個潰しても発生しねぇから!」
陰木が手を伸ばすと、黒瀬は体をほとんど動かさずに紙一枚の差でかわした。
「反射神経まで腹立つな!」
橘は机を叩いて笑った。原因は陰木の怒声か、黒瀬の記録か、その二つが妙に噛み合ったことか。今回は黒瀬にも切り分けられない。
陰木は赤ペンを机へ置いた。
「問七、最初からやれ。星は消せ。あと途中式だけ鈴木に渡して送れ」
「人力Wi-Fi二号機まだ続いてんじゃん」
「お前が経路壊したんだろ」
そこだけ言い残し、陰木は教室を出ていった。
黒瀬は閉じた扉を見たあと、橘の笑いが残る机へ視線を戻した。
正確さも、説明の網羅性も、橘への執着も黒瀬は負けていない。
それでも橘の手は、考える前に陰木の紙へ戻る。性能差ではない。三年という時間は、知識ではなく癖になっていた。
過去は、最適化できない。
「……三年分の過去は今から取り戻せない。でも、未来ならまだ拾える」
友情の理解としては完全に間違っていた。
黒瀬理論としては満点に近い。
「意味のない会話も、必要のない貸し借りも、怒った翌日に戻る場所も。これから先のめるの履歴は、僕が先に埋めるよ。君が忘れてしまう時間まで全部覚えておく」
「急にヤンデレポエム吐き出してどうした? あんたの侵略計画、怖すぎてホラー映画の予告編だぞ」
陰木はまだブロックを解除していない。橘も、昨日のことをまだ謝っていない。
それでも、問七の二行目には赤い丸が残り、明日へ続く用件だけは置いていかれた。
黒瀬はその事実をバインダーへ書かなかった。書かなくても残るものがあると理解したからではない。
あとで一字一句、時系列順に復元するつもりだったからである。
◇◇
その夜。
橘める被害者の会へ、管理人・留守番から新しい通達が出た。
【橘めるに関する臨時清算会を開催します】
【議題:貸借、未返信、予定変更、私信】
【橘める本人の入場は禁止】
【黒瀬じぇにの参加も禁止】
【当事者への会場共有を禁止します。以上】
投稿から一秒後。
【黒瀬:傍聴申請】
三秒後。
【留守番が申請を却下しました】
さらに二秒後。
【黒瀬:却下を確認しました。参加予定に変更はありません】
【留守番:参加禁止の文字を百回読め】
【黒瀬:百回読んでも規約上の拘束力は増えないよ。参加させないなら会員全員に聞き取りを行う予定】
そこから三十秒、管理人は何も投稿しなかった。
画面の向こうで陰木が、規約を改訂するか黒瀬を物理的に改訂するか迷っている時間だった。
清算会は、開催前から一件、新しい被害を増やしていた。




