第7話 流行遅れのツンデレフレンズ
喧嘩の翌日。
陰木は、橘を避けていた。
本人に聞けば、進路変更の必要があっただの急用を思い出しただの、少しだけ無理のある説明を並べるだろう。
だが実際には、露骨に、かつ音速で避けていた。
昼休みの渡り廊下で、陰木は橘と鉢合わせた。
橘も、陰木を見た。
その瞬間、陰木は百八十度方向転換した。
あまりに迷いのないUターンに、後ろを歩いていた学生二人が急停止し、一人は右へ、一人は左へ避けた。渡り廊下の人流が、陰木一人を起点に一瞬だけ割れる。
「おーい、はうす! 問七の続き聞くから待てって!」
橘がクシャクシャのルーズリーフを旗のように振って追いかける。
陰木の逃走速度が一段上がった。
「聞こえてるだろ! 逃げるな、リアルブロック男!」
橘が角を曲がると、陰木は既にスマホを耳へ当てていた。
「はい。……そうですね。その件につきましては、至急確認を──」
神妙な顔をしている。ただし耳に当てたスマホの画面は真っ暗だった。橘が顔を覗き込んでも、陰木は頑なに目を合わせない。
「なに、電話? 急用?」
「ええ、はい。……ですので、その、問七の途中式については──」
「問七、どこ見ればいい?」
「教科書の百四十二ページ。上から三つ目の例題」
即答だった。偽装電話は終了どころか、始まってすらいなかった。
「めっちゃ知ってんじゃん」
「独り言。俺は今、脳内の自分と高度な会議をしてんだよ。邪魔すんな」
「あんたの脳内って、わかんないところ私と同じなんだ。とりま放課後教えてよ」
「うるせぇ!」
陰木は偽装通話と機密情報をまとめて放棄し、非常階段の扉を開けた。そのまま一段飛ばしで駆け下りていく。
橘は扉の前で立ち止まった。一段飛ばしで消えていく男を、さらに追う気力までは残っていない。
「めるシー」
少し遅れてやってきたすみれが、橘の背後からひょこっと顔を出した。
「あの人、完全に避けてるのに試験範囲は即答してくれてるじゃんね」
「まあ、はうすだしね。でもDMだけじゃなくてリアルでもブロックされんのは新機能だな」
すみれはカフェオレのストローをくわえながら、にやにやと橘を見た。
「でもさ。それって、陰木くんがまた戻るって思ってるから笑えるんでしょ?」
「三年ずっとこれだし、今さら急に人間関係だけアプデとかしないでしょ」
その横で、つきのが閉じた非常扉を眺めていた。
「陰木くんが勝手に戻るからって、毎回雑にしていいわけじゃないと思うけどね」
「何それ。私がいじめてるみたいじゃん」
「昨日の部室だけ見ればわりと加害者だったよ、めるちゃん」
橘は答えず、スマホを鞄へ放り込んだ。
ブロックはまだ解除されていない。けれど百四十二ページの上から三つ目を開けば、たぶん問七は解ける。
それで充分なはずだった。
◇◇
その日の午後。
文芸部の机に一枚のルーズリーフが置かれた。運び手は鈴木だった。
「橘さん。匿名の情報提供です。内容はこちらです」
【問7、一行目の分母から間違ってる】
【途中式を継ぎ足すな。最初からやり直せ】
【これ以上アホなミスを増やすな】
差出人の名前がないだけで、字も内容も匿名ではなかった。
黒瀬が人力Wi-Fiなら、鈴木は感情まで配送する人力宅配便である。無響大学には、通信方式の違う人間型端末が二台いるらしい。
「絶交を業務連絡にすんなよ」
「私に言われましても。配送方法を指定したのは送り主ですから」
「着払い?」
「感情面については、既に橘さんが相応の負担を負っているかと」
鈴木は一度、手元のファイルを閉じた。それから今度は別の紙を取り出す。
「こちらは別件です。被害者の会から、規約更新のお知らせがあります」
「私、会員じゃないけど」
「はい。発生源側ですので」
鈴木は印刷された紙を読み上げた。
「本人の許可を得ていない私信の転載、上映、作品化を禁止する。違反した場合、該当投稿の削除および会の利用停止処分を行う場合がある。以上です」
「タイミングよすぎ。私への苦情だけ解像度高いんだけど、管理人誰だよ」
「そのご意見も、必要であれば管理人へ提出しますが」
「いやいい。余計な火種が増えそう」
鈴木は小さく頭を下げ、部室を出ていった。
つきのが、何事もなかったようにつぶやく。
「絶交してもアフターサービスは手厚い友達か。耐久性はそこそこ高そう」
「家電系フレンズ?」
「保証期間は三年みたいだね」
橘は、それ以上の反論を諦めてルーズリーフを持ち上げた。
問七の途中から計算式が書き直されている。
【割合は、途中で全体を変えるな】
その下に、小さな字で続いていた。
【分からなかったら142ページに戻れ】
【試験前日だけは返信しろ。落ちた報告を後から聞く方がだるい】
「えー。なにこれ仲良しじゃん」
すみれが横から覗き込み、遠慮のない感想を漏らした。
「ブロック中だけどな」
「ブロックしながら補修するとか、流行遅れのツンデレ幼馴染として完成度が高いんよ」
「幼馴染じゃないっつの」
橘は笑いながら紙を二つに折る。ゴミ箱へ向けかけた手を戻し、スマホケースの裏へその紙を差し込んだ。
三年前にも、ブロックされた翌朝、机に試験範囲だけ置かれていたことがある。青い付箋に『ここだけはやれ』と書かれていた。
橘は理由を聞かなかったし、陰木も説明しなかった。
そういうものだと思っていた。
◇◇
一方その頃、黒瀬は図書館の一番奥で、自分のノートパソコンから被害者の会の過去ログを遡っていた。
規則そのものではなく、規則が増えた時刻を見ていた。
橘が私信を文芸部へ見せた翌日に、管理人アカウント『留守番』は私信の転載を禁止した。
規則が増えるときには、いつもその直前に橘がいる。
三年前のログも同じだった。当時の名称は、まだ『橘める被害者の会』ではなかった。
『橘める連絡網』。
高校時代、橘と連絡が取れなくなったときのために作られた、小さな連絡用サーバーだった。
三年前の午前九時十二分。
『橘、今日の一限来てない』
三分後。
【最後に連絡を取った人間は時刻を報告】
昼を過ぎても、橘から返事はなかった。
『電話は鳴る』
『昨日最後に会ったやつ、何時に別れた』
【未確認情報の拡散は禁止】
【勝手に家へ行くな。行く場合は先に報告】
規則の文面だけは冷静だった。
だが、更新間隔は少しずつ短くなっている。
十三時六分。
『誰か橘の家の近くにいる?』
その投稿は、一分も経たずに削除された。代わりに新しい規則が追加される。
【本人確認まで勝手に帰るな】
心配した、と書いた記録は一つもない。
それでも、画面の中では留守番だけが誰より帰れずにいた。
夕方、十六時四十八分。
橘本人から、ようやく一行だけ投稿された。
『ごめん、電池死んでた』
二分後。
『お前が死ね』
安否確認の成功を祝う文面としては、かなり治安が悪い。
管理人のその投稿の直後、橘は退会させられた。さらに十分後、『橘める連絡網』は『橘める被害者の会』へ名称を変えていた。
高校時代に作られた小さな連絡用サーバーは、悪口の看板を掲げたまま大学まで生き延びた。参加者は増えたが、管理人だけは最初から変わっていない。
黒瀬は、最後の規約更新時刻と、昼に鈴木が届けたルーズリーフの時刻を並べた。
「……言葉は違っても、変換の順番が同じだ」
黒瀬は被害者の会へ、一つのファイルを投稿した。
『橘める・非公開音声』
【提供者の希望により出所非公開】
【本人許可:未確認】
中身は三秒間の無音だった。数秒後、黒瀬の画面にだけ処理結果が表示される。
【留守番が投稿を却下しました】
続けて通達が出る。
【投稿者を一時利用停止とします】
黒瀬は画面を閉じて静かに笑った。
「やっぱり君だった」
◇◇
放課後。
橘は図書館のコピー機で、提出用の課題を複写していた。
その間、黒瀬は一番奥の席に座り、陰木を待っていた。二人の会話が終わる頃に、コピーを終えた橘が必ず戻ってくる席をあえて選んだのである。
陰木への連絡は、鈴木を経由した。
「黒瀬じぇに君が、『留守番』について確認したいそうです。放課後、図書館で奥の席でお待ちになるとのことです」
陰木は最初、行かないと答えた。
だが、その五分後には来た。
罠だとは分かっている。それでも、『留守番』の名前を出した黒瀬を自由に喋らせておく方が危険だった。
「……何の用」
椅子へ座るより先に、陰木が聞いた。黒瀬は開いていたノートパソコンから目を上げる。
「僕は被害者の会のサーバーに一件、投稿した。君の画面にも出ていた?」
「知らねぇよ。一般会員に、他人の投稿がどう処理されたかなんて分かるわけないだろ」
「そうだね」
黒瀬があっさり頷いたため、陰木の眉がわずかに動く。
「じゃあ話は終わりだな」
「僕は君の画面に出たかと聞いただけだよ。公開されたのか、保留されたのか、管理人に止められたのかは何も言っていない」
「は?」
「それなのに君は今、『会員に見えない処理段階へ進んだもの』として話したね」
ほんの一瞬だった。
陰木の椅子を引こうとしていた手も、鞄の肩紐を直しかけた指も、そのままの位置で止まる。
黒瀬は何も言わずに、その一瞬だけを見ていた。陰木が、自分で落とした言葉を拾い直そうとする時間まで観測するために。
「ただの揚げ足取りだろ。一般会員に分からないって意味で言っただけだ」
「そうかもしれない。でも、君は否定の順番を間違えた」
「探偵ごっこならよそでやれ」
「まだ推理だよ。確認はこれからする」
黒瀬はノートパソコンの画面を陰木へ向けた。
そこには、投稿内容ではなく、黒瀬本人にだけ表示される送信履歴が表示されていた。
【投稿形式:管理者承認制】
【公開状況:未公開】
【閲覧可能者:投稿者/管理人】
「投稿は公開前に止められた。題名も本文も、一般会員の画面には存在したことすら表示されていない」
「だから何だよ。お前がこんな呼び出し方してる時点で、何か仕掛けて管理人に止められたくらい予想できるだろ。投稿に失敗したからって俺にアタリつけんな」
陰木にまだ逃げ道は残っている。しかし黒瀬は、逃げ道の全てに監視カメラを設置している顔をしていた。
「投稿の題名は『橘める・非公開音声』。提供者は非公開。本人の許可は未確認」
「その条件なら、公開されなくても不思議じゃねぇよ。規約が更新されたならなおさらだ」
「題名だけなら音声が私信かどうかは分からない。そもそも中身は無音だ」
「橘の名前をつけて、提供者を隠して、本人許可未確認まで書いてんなら中身は関係ないだろうが」
「未確認は許可がないという意味ではないよ」
「お前が橘からそんな許可取ってるわけないだろ」
言い切った陰木。
今度こそ、空気が止まった。
図書館の奥でページをめくる音や、コピー機の音がやけに響く。この卓だけが、陰木の失言を中心に静かに沈んでいた。
黒瀬の口元が緩む。
「ずいぶん自信があるんだね。めるが僕に何を許可するか、君に分かる?」
「三年見てればそのくらい──」
黒瀬はそこでノートパソコンを閉じた。ここから先、画面はもう必要なかった。
「やっぱり、その時間を使うんだね」
「今は管理人の話だろ」
「同じ話だよ。三年前、めるが連絡を絶った日、君は誰より細かく安否確認をしていた。めるが戻ったあと、『お前が死ね』と書いて会の名前を変えた」
「公開ログを見れば誰でも分かる」
「公開ログだけならね」
黒瀬は、机の端に置かれた橘のルーズリーフへ指を置いた。
「昨日、君はめるからノートを回収した。でも試験資料は残した。今日は本人を避けながら、鈴木なおと経由で続きを届けた」
「単位を落とされたら、あとで愚痴を聞かされるからだよ」
「留守番も同じ言い方をする。感情の変換の仕方が同じなんだ」
陰木の表情から、他人へ向ける丁寧さが消えていく。
黒瀬は、証拠をひとつずつ列挙するようなことはしなかった。言い訳を潰すように、陰木と留守番を同じ一本の線で結ぶ。
「君は心配したとは言わない。代わりに予定確認をする。傷ついたとも言わない。代わりに規則を増やす。もう関わらないと言いながら、本当に困る部分だけは放置しない」
「……何が言いたい」
「僕は、もう知っている」
短い言葉だが、それで十分だった。
ここで否定を続ければ、黒瀬は次の証拠を出す。それを否定すればまた次が来る。この男に「疑いの余地」を残すことは、尋問の継続を許可するのと同じだ。
陰木は匿名性より先に精神衛生を諦めた。
「……橘に言うのか」
その一言で、口では認めていないはずの勝負が終わった。
「言わないよ。君が匿名性とめるの境界を、同時に守れなくなったとき、どちらを選ぶのか見たいから」
「それ観測じゃなくて脅しだろ」
「脅しなら要求と期限を決めるよ。僕は君が選ぶまで待つだけだ」
「言い換える度に犯罪濃度が上がってんの気づけ」
「安心して、まだ言わないから」
「お前に安心を供給される段階まで落ちてねぇ」
陰木は吐き捨てたが、まだ帰ろうとはしない。
すると黒瀬は、先ほどとは別の質問を投げる。
「三年間、君は何度ブロックして、何度戻った?」
「数えてねぇよ。お前みたいに人間関係に通算ログつけてないんで」
「そう」
黒瀬の声から、ほんの一瞬だけ計算が消えた。
「僕には、その回数すらない」
黒瀬が欲しがっているのは管理権限でも三年前の情報でもなく、何度切れても次があったという履歴。
陰木はそれを持っているにも関わらず、黒瀬に勝った気は少しもしなかった。
そのとき、図書館の奥から足音が近づいてくる。
「じぇに、コピー終わったー。……って、はうす戻ってんじゃん」
橘が、完成した課題を抱えて戻ってきた。
陰木の顔から、正体を見破られた男の疲労が消えた。代わりに、社会で使える就活用の表情が瞬時に貼り付く。
「戻ってません。黒瀬さんから、鈴木さん経由の資料について確認事項があっただけです」
「私の問七で本人不在のまま密会してんじゃん」
「密会ではありません。もう帰りますので」
「昨日ブロックしたのに、今日もう私の机来てんのウケる。やっぱ私のこと大好きだろ」
「違う! 単位の残務整理だ!」
就活は三秒で終了した。
橘はスマホを取り出し、陰木とのトーク画面へ短く打ってみる。
しかし。
【このユーザーにはメッセージを送信できません】
「まだ解除してないのかよ。ブロック中にずっと資料届けてたの余計におもろい」
「めるが落単した場合、陰木はうすに愚痴という二次被害が発生するからだね」
「勝手に俺の言い訳を補強すんな」
「なんで二人とも私が落ちる前提なんだよ」
「実績」
「統計」
陰木と黒瀬の声が重なった。橘は吹き出して、楽しそうに笑った。
「はうすとじぇに、最近ウマ合ってんじゃん。いっそ友達になれば?」
「事故だ」
「設計外だ」
「息ぴったりじゃねぇか」
橘の笑い声を挟んで、陰木と黒瀬の視線が一瞬だけぶつかる。
黒瀬は知っている。陰木は、黒瀬が知っていることを知っている。橘だけが知らない。
三人の間に新しい秘密が生まれた。誰も共有を許可していない。
「じぇに、また勝手に何か完成させた顔してない?」
「まだ途中だよ」
「何が?」
黒瀬は陰木を見ると、陰木は露骨に顔をしかめる。
「友達の仕組み」
「あんたは学ぶな。絶対ろくな使い方しないから」
黒瀬は静かに笑った。
管理人は特定できた。
友達の方は、まだ何一つ分からないらしい。




