第6話 笑い話は一回で十分
翌日の五限目。
一般学生にとってはまだ講義中だが、無響文芸部にとってはすでに放課後である。
部室は少し狭い元準備室だった。
壁際には歴代部誌と没原稿を詰めた本棚。中央には、種類の違う長机を無理やり繋げた作業台。窓際には電気ケトルと、誰のものか分からない茶葉が増殖している。
その日の在室者は四人だった。
机を囲んで笑う鯉塚すみれ。
共有ドキュメントを開き、会話をネタ用にメモしている書記もどきの吉田つきの。
紅茶を飲みながら、見せかけの品位だけは守ろうとしている部長の篠原ともき。
そして、そのすべてへ今日の燃料を投下している橘だった。
話題は昨夜の勉強会について。
幸い、中心人物の一人である黒瀬は五限の必修講義に出ている。大学という制度が珍しく人類の役に立った。
「でさ、散々下ネタ吐いて『本人の前でも余裕』とかイキってたはうすが、じぇにが目の前に来た瞬間、急にこれよ」
橘はパイプ椅子の上で背筋を不自然なくらい伸ばし、両手を膝に置いた。
「……あ、はい。すみません」
昨日の陰木を再現した、無駄に低姿勢な声だった。
すみれが机を叩いて笑う。
「あははっ、無理! ネット弁慶なのに、対面だと就活中のチワワ! ひと世代前のツンデレ幼馴染に、社会性の着脱機能まで積んでんの属性過多なんだが!」
「めるちゃんたちは幼馴染じゃなくて高校からの腐れ縁でしょ」
つきのは淡々と言いながら、開いていたノートパソコンの共有ドキュメントへ打ち込んだ。
『仮題・面接会場にサメが来た日』
「サメ要素どこ?」
「陰木くんが黒瀬くんを水族館のサメに例えてたところ」
篠原だけは笑わず、紅茶のカップをソーサーに置いた。
「念のため伺いますが、陰木さんはご自身の私信が、本人不在の品評会へ無償出品されることを了承しているのでしょうか」
「してないけど、名前変えればよくね?」
「なるほど。盗品のラベルを貼り替えれば贈答品になるという理論ですね。非常に橘さんらしい」
篠原の正論には金持ち特有の嫌な高級感があった。橘は眩しかったので、聞こえなかったことにした。
「でもさ、めるシー。その人、口悪いけど勉強は教えてくれるんでしょ? 友達って言っとけば、ブロックした当日に補修しても合法なんだ」
すみれがにやにやしながら言った、そのとき。
部室の扉が、遠慮がちに二度叩かれた。
「失礼します。こちら、無響文芸部で合っていますか」
入ってきた男は、大学構内なら自動的に背景へ溶ける種類の顔をしていた。よれたシャツに黒いパーカー。存在感だけが、綺麗に履修登録から漏れている。
ただし、手に持っている紙だけは背景へ溶ける気がない。
【橘める被害者の会 臨時被害棚卸し会】
昨日、黒瀬へ一枚の紙を差し出し、サークル棟の奥へ連れていった案内人──鈴木なおとである。
最初に反応したのはつきのだった。
「合ってるけど、部員の誰かが何か壊した?」
「物品ではなく、主に予定と人間関係です」
「へぇ、なら多分ここにいる人だね」
鈴木は反論せず、室内へ一歩入った。
続いて、橘が振り向く。そこで鈴木と橘の視線が合った。数秒、どちらも黙った。
「あ。なおとじゃん。久しぶり」
「……橘さん」
鈴木の声には、再会の感動よりも、保留していた案件に直面したような人間の疲労があった。
「知り合いなんだ!」
すみれの声が一段明るくなる。面白い履歴を嗅ぎつけた声だった。
「まあ。なおととは一回、朝まで一緒にいただけ」
「『だけ』で圧縮してよい情報量ではありません」
鈴木が即座に訂正したが、遅かった。
つきのの指がキーボードの上で止まり、すみれは椅子ごと半歩前へ乗り出してくる。
「朝まで何してたんよ。被害者の会って、活動内容そこまで広いの!?」
「確かそんときは、普通に飲み行ったあとラ」
「橘さん」
「はいはい、議事録非公開ね」
鈴木は何かを諦めたような目で続けた。
「飲酒後の経緯については本日の議題ではありませんので、回答を控えます。ただ、朝に持っていかれたモバイルバッテリーは返していただきたいですね」
「え、あれ私のじゃなくて? 今も普通に使ってるんだけど」
「裏面に油性ペンで『鈴木』と書いてあります」
「鈴木多いじゃん」
「所有権を全国の鈴木へ分散させないでください。二年間、返却を待っています」
「二年現役なら当たり機種じゃん。よかったね」
「私の所有物として使いたかったという話です」
すみれが両手で口元を覆った。隠しているのは驚きではなく、あふれそうな笑いだった。
つきのは、二人の会話を聞きながら面白そうな顔でキーボードを打つ。
『貸借期間二年。朝まで。詳細非開示』
鈴木は何かを説明しようとしたが、すみれとつきのの目を見て静かに口を閉じた。
人間には、説明すべき瞬間と、説明によって被害が拡大する瞬間がある。鈴木は後者をよく知っていた。
篠原が場を収めるように、穏やかに告げた。
「鈴木さん、まずはお座りください。立ったまま過去の被害を供述されると、当部が品のない事情聴取を行っているように見えます」
「既にかなり近いことをされていると思いますが」
「見え方だけでも整えましょう。内実まで品良くしろとは申しません」
鈴木は少し迷ってから、空いていたパイプ椅子へ座った。
すみれが小声で橘へささやく。
「おすわりできる被害者、黒瀬くんより社会性高いね。夜通し躾でもした感じ?」
「比較対象は犬のおすわりだったけどな」
橘は椅子の背へ体を預けた。自分と鈴木の一夜へ野次馬の視線が集まり始めると、さすがにやや面倒だった。
ならばもっと鮮度が高くて、本人不在で、笑いへ変えやすいものを投げればいい。
「てか、そんな二年前の話よりはうすの個チャ見てよ。こっちの方がウケるから」
話題の避難先として、友達を一人差し出した。
橘はスマホを取り出し、昨日より少し前のトーク履歴を開く。
「これ、この前の待ち合わせで、私が駅で乗り換え失敗して遅れたのやつ」
画面には、陰木からの怒涛のメッセージが何段にも重なっていた。
『は?』
『家何時に出た? ちゃんと事前に調べてから行けよ。もたもたしてっから乗り遅れるんだろうが』
『馬鹿なの? ホント人の話聞いてないんだな』
『一回声に出して読み返してこい』
すみれが吹き出した。つきのは笑いながらも入力を止めない。
「乗り換え案内に人格攻撃ついてる! 駅員でもそこまで利用者の知能に踏み込まないんよ」
「感情の急行列車って感じだね陰木くん。途中駅に配慮がない。罵倒九割の文章で対話の重要性を説いてる説ある」
「いやマジでさ、自分は『馬鹿』『アホ』『人の話聞け』で全車両埋めてんのに、私には丁寧な意思表示を要求してくんの」
橘が更にスクロールすると、次々と陰木のメッセージが映る。
『あと十分もないけど、ずっと連絡無視して何してんの?』
『嫌なら嫌って正直に言え』
『態度じゃなくて言葉で言えよ。分かんねぇから』
すみれは机を叩いて笑った。
「てか、めるシーの返信待って十分もずっと見てたってことでしょ? キレ方は反社、要求は彼氏!」
「で、この後私が急いで謝ろうとしたら──」
「へえ、そこまで見せたのか」
扉の方から、平坦な声が落ちた。
橘の指が止まる。
開いたままの扉の前に、陰木が立っていた。
黒いパーカー。少し乱れた髪。片手にはスマホ。もう片方は空いている。机の端にある青いノートを回収するには、十分だった。
視線は橘の顔ではなく、開かれたトーク画面へ落ちていた。
「俺との個チャって、文芸部の共有資料だったんだ」
すみれが、さっきまで机を叩いていた手を静かに膝へ下ろした。つきのも入力を止める。篠原は何も言わず、共有ドキュメントの画面を伏せた。
鈴木だけが状況を完全には把握できず、座ったまま陰木と橘を見比べている。
「おー、本人来た。今日、素材の自主搬入多くね?」
橘はいつもの調子で笑いかけた。
だが、陰木は笑わなかった。
「消せ」
「まだ共有には入れてないって。みんなに見せただけ」
「事実なら何でも見せていいのか?」
「ごめんて、普通に面白かったからさ」
「俺はお前に送ったんだよ」
陰木の声が、さらに一段だけ強くなった。
「お前が返信しないから腹立って、お前に言った。知らない奴らを笑わせるために打ったんじゃねぇ」
部室が一瞬だけ静まった。
言った本人が一番先に後悔したらしい。陰木は目を逸らし、机の青いノートへ手を伸ばした。
「……ノート返せ」
「ごめん、陰木くん。あたしたちも勝手に──」
「鯉塚さんたちは悪くないです。見せたの、こいつなんで」
すみれに向けられた丁寧な言葉は、橘へ向く直前に荒く戻る。
「何キレてんだよ。はうすだって私に馬鹿とかアホとか言うじゃん」
「だから、お前に言ったんだろ」
「同じじゃん」
「違う。分かんねぇならもういい」
陰木はそれ以上は言い返さなかった。代わりに、橘が机の端に置いていた青いノートへ手を伸ばす。
「ノート取りに来たんならDMすればよかったじゃん」
「した。お前が見てないだけだろ」
「二時間くらい待ちなよ」
「平気で翌日に繰り越すくせに二時間とか言うな」
そこだけはいつもの会話だったが、陰木の声にはいつもの温度がない。
橘はさらに何かを言い返そうとしたが、先に篠原が口を開いた。
「橘さん。今回はあなたの負けです」
「裁判始めんな」
「始める前に結審しました」
橘は危うく舌打ちしかけた。
「じゃあ聞くけど、はうすは私の話を他で一回もしてないって言えんの?」
陰木の手が一瞬だけ止まる。
だが何も言わず、そのまま橘の手から青いノートを取った。
強く引いたわけではない。橘も抵抗しなかった。ただ、普段ならどちらのものか曖昧なまま机に転がっている物が、その瞬間だけ、きれいに持ち主の側へ戻った。
陰木がノートを鞄へ入れようとした拍子に、一枚のルーズリーフが床へ落ちる。
【問七まで。割合は全体を勝手に変えるな】
【試験前日だけは返信しろ。落ちた報告を後から聞く方がだるい】
橘が紙を持ち上げる。陰木は一瞬だけそれを見た。
「これ、落としたけど」
「それはお前の」
「今キレてんのに?」
「単位は私怨の対象外。問七までやれ」
陰木はそれだけ言い残し、足早に部室を出ていった。
橘はスマホを取り出し、陰木とのトーク画面を開いた。試しに一文字だけ送ってみる。
『あ』
【このユーザーにはメッセージを送信できません】
「ブロックだけは仕事はやっ」
いつもならすみれが一番先に笑う。けれど今度は、誰も笑わなかった。
鈴木が耐えかねたように咳払いをする。
「……本来の来訪目的へ戻ってもよろしいでしょうか」
空気を読んだのか読まなかったのか分からない声だった。
「なおと、まだいたんだ」
「お座りを命じられていましたので」
鈴木は膝の上に置いていた紙を橘へ見せた。
【橘める被害者の会 臨時被害棚卸し会】
【開催予定地:二号館・多目的演習室B】
その下に、赤字で一行。
【橘める本人の入場は禁止】
「先ほどの件も含め、会の議題が一件増える可能性があります。ですので橘さんは、当日は絶対に来ないでください」
「そこまで言われると行きたくなるな」
「想定済みです。橘さんが興味を示した時点で、会場変更となります」
「もう興味示したけど、変更先どこ?」
「変更する前から聞かないでください。変更先は管理人だけが決めますので、私もまだ知りません」
鈴木は紙を丁寧に折り直した。
机の上にはルーズリーフだけが残っている。
被害者の会は開催前から会場を一つ失った。
橘の方には、問七までが残った。




