第5話 次があると思うなよ(夜、勉強会開始)
ピスタチオプリンだけを神速で回収し、陰木は学食の雑踏へ消えた。
テーブルには、食べかけのポテトと、使い古された青いキャンパスノートが残された。
橘はポテトの中から、塩の結晶がいちばん贅沢に張りついた一本を選び、何食わぬ顔で口へ放り込む。
「あーあ、いっちゃった。相変わらず逃げ足だけはレベチだな」
そのまま残された青いノートを取り上げ、スマホを開いた。
『ノート忘れてる』
送信を押す。だがメッセージの吹き出しの代わりに、短いエラーが返ってきた。
【このユーザーにはメッセージを送信できません】
「あ、またブロられた」
「彼が退席してから43秒だよ。あれで関係は終了したの?」
「はうすのブロックは『今お前にムカついてます』の札。気が済むか、用事できたら外れる」
「戻ってくる保証は?」
「ないよ。でも今日の夜にはまた通話するんじゃね? はうすだし」
「説明になっていないよ」
「三年これで毎回戻ってるし、今さら仕様変わんないでしょ」
橘はスマホを伏せ、代わりに陰木の青いノートを開いた。
そこに並んでいたのは精緻な講義録ではなく、統計学の皮をかぶった橘専用の取扱説明書だった。
【相対度数は全体が下。毎回逆にするな】
【平均は顔面SSR一人で盛られる。中央値も見ろ。倫理Nは別集計】
【お前は40分で寝る。35分で顔洗え。戻ったら問5までやれ】
「説明が雑だね」
「でも分かるんだよな、これが。しかも倫理Nってのが誰のデータか心当たりあるし」
橘が笑うのを見て、黒瀬は確認も取らずノートを手に取り、手元のペンで余白へ定義と数式を書き加えた。
「僕にも説明できるよ。君を」
「主語でか。あ、余白なら勝手に書いていいよ。はうすのだけど」
所有者不在のまま、所有者以外の二人だけでノートへの再開発許可が下りた。
「記述の厳密性を補正した。こっちの方が正しい」
「他人のノートで正しさ競うな。うわ、字こまかっ。呪いの魔導書みたいになってるぞ」
橘は青いノートを取り上げ、当然のように鞄へ放り込んだ。
「今夜、彼から連絡は来るの?」
「二十三時前には来るよ。『問5までやれ』って書いてあるし」
「それは課題であって、通話の約束ではない」
「はうすなら来る、たぶん」
黒瀬の視線は、陰木が座っていた席に向けられていた。
見ていたのは、きっと空いた椅子ではない。
ブロックしても失われない、陰木の席だ。
◇◇
二十二時五十九分。
ピコン。
『問五。途中式送れ』
橘はベッドの上で、その業務連絡めいた一文を見た。
「ほら来た。次あったじゃん。私のこと大好きじゃん」
橘は誰に言うでもなく呟き、いつもの通話ルームへ入ると、陰木はもういた。
数十秒もしないうちに橘は、黒瀬にも通話招待を飛ばした。
一分もせずに黒瀬も通話ルームに入ってきた。
『なんで増えてんだよ!』
開幕一秒で陰木の怒りの声が響いた。
しかも三人のうち、黒瀬だけが、頼まれてもいないのにカメラをつけている。
「教育資源の追加。昼に私を説明できるって言ってたから、実技」
『僕は構わないよ。めるに使われるなら用途に異論はない』
『人の勉強通話を採用会場にすんな。資源側の同意で突破できるわけねぇだろ。ていうかなんで勉強通話でも顔だけ4Kなんだよ。背景真っ黒だし、呪いのビデオか』
『めるに見られる可能性があるから、画質を落とす理由がない』
「部屋の電気つけろ」
呪いのビデオを画面端に移し、橘は青いノートの上へ皺だらけのルーズリーフを広げた。橘がスマホで撮った写真は、右上に指が映り込み、左下は照明を反射して白飛びしている。
『橘、撮り直せ。必要なデータより指の占有率が高い』
『読めるよ。問題ない』
黒瀬は数秒で写真の傾きと明度を補正し、数式だけを打ち直す。
橘の途中式が、本人の筆跡からは考えられないほど美しく整列して共有画面へ映る。ついでに、ルーズリーフの端から覗いていた青いノートの余白まで鮮明になっていた。
陰木が数秒、沈黙した。
『……待て。この書き込み、誰の字だ』
『僕だよ』
式の下には、頼まれていない備考までついていた。
【備考:陰木式は暫定運用。僕への移行完了後、順次廃止する】
『なんでサービス終了予告を書いてんだよ! つーか俺のノートだろ、人の土地を勝手に再開発すんな』
『記述の厳密性を補正しただけだよ』
『違法建築のくせに完成度を誇るな!』
所有者の帰還により、昼間成立した再開発計画は即日差し止めとなった。
文句を呟く陰木を無視して、橘はルーズリーフを見直す。
「で、問五。結局どこ間違ってんの?」
『一行目』
『三行目』
陰木と黒瀬の声が重なった。
『一行目。同じ五時間が二日あったからって、一件にまとめて四で割ってる』
『三行目。負の偏差を一つだけ二乗していない。計算が破綻したのはそこだよ』
「患者の前で診断割るのやめてくれる? こっちは単位が危篤なんだけど」
橘がペンの尻でノートを叩くと、陰木が呆れた声で説明し始めた。
『双子が同じ顔だからって、一人分で出席させるか? 同じ数字でも二件は二件。平均との差出したら全員二乗。以上』
『理由の説明が省略されている』
「あ、でも分かりやすい。じぇにの説明って最短ルートだけど私の脳みそが途中で置いてかれるから、はうすのいつもの雑な翻訳機がいいわ』
『僕の指摘でも答案は修正できた』
『お前は定義をそのまま投げてんだよ。正しくても、こいつに届いてなきゃ説明としてはゼロだろ』
「こいつ呼ばわりだけは一発で届いたけどな」
橘は文句を言いながら、二つの項を丸で囲む。
黒瀬は正解した数式ではなく、陰木の緑色のアイコンを見ていた。
『僕の説明の方が正確だ。君より丁寧で、罵倒もない。それでも、めるに届く順番は君の方が知っている。……それが気に入らない』
『人の単位で恋愛ポエム完成させんな。自己陶酔のゴミは自分のノートに捨てろ』
「じぇに、最後に韻踏んで」
『踏まないよ』
橘の注文は、黒瀬に即答で拒否された。
「じゃあ次、問六。割合のやつ」
『抽象的な例より、実測値の方が理解しやすいはずだよ』
黒瀬が共有画面を切り替えた。
【観測開始後:63日】
【橘めるの借用品:11点】
【返却済み:7点】
『返却率を求めて』
「100%、返してって言われた七個は全部返したし。てかこれ数字盛ってるだろ」
『分母を勝手に変えないで。11点中7点だから答えは63.6%だよ。観測記録を見せようか』
「見せんな。怖いから」
黒瀬が次の欄を表示しようとする。
『では、借用品の最頻値は』
『──充電器』
陰木が内訳を見るより先に答えた。
『……まだ表示していないのになぜ』
『三年で五本持ってかれてる。数えるまでもねぇ』
黒瀬が数えられるのは、観測を始めてからの六十三日分だけだった。
その前の三年は、陰木の中にだけ記録した覚えもなく残っている。
それからしばらく、通話には紙を擦る音だけが続いた。
会話が途切れても、橘も陰木も通話を切ろうとはしない。画面に映る黒瀬だけが、その何も起きない時間をじっと見ている。
ふいに、陰木が沈黙を破った。
『ちょっと水取ってくる』
直後、陰木のアイコンにミュートを示す斜線が入った。
それから七秒後。共有画面の隅に、小さな通知が一件だけ滑り込んだ。
【管理人・留守番:出欠条件を更新しました】
その五秒後、陰木のミュートが解除された。
「はうす戻るのはっや。絶対取りに行ってないだろ」
『細けぇな、手元にあったんだよ。問六さっさと終わらせろ』
「『次があると思うなよ』って言った人、まだ喋ってるじゃん」
『これは次じゃなくて残務だ。問六が終わったら切る。単位落とされた方が迷惑だからフレンズとして協力してやってんだよ』
『友達は、「次があると思うなよ」と言っても、再接続が発生するんだね』
『観測対象が俺一人しかいねぇじゃん。偏った標本で友達全体に一般化すんな。今日何を教えたと思ってんだ』
『ただし観測回数は6回。24時間以内の再接続率は100%だよ』
「私より統計吸収してんじゃん」
『お前も頭脳だけ見習え』
黒瀬は、画面の隅に残る管理人・留守番の通知と、陰木のアイコンをもう一度だけ見比べる。それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
問六はまだ途中だ。
それなのに黒瀬だけは、もう別の答えへ辿り着いた顔をしていた。




