第4話 ポテトと唐揚げと不審者
黒瀬の姿が学食中央の太い柱の向こうへ完全に消える。その瞬間、陰木は肺の中に残っていた空気をまとめて吐き出し、テーブルへ勢いよく突っ伏した。
「はぁぁ──ッ!?」
絶叫だった。ただし、黒瀬に届かないよう極限まで絞った小声の絶叫である。感情は爆発、声帯は近隣配慮。内弁慶にも守るべき生活環境があった。
「死ぬ! 共感性羞恥で死ぬ! なんで画面の中の呪物が急に三次元化して、ネギ抜きうどん持って歩いてくるんだよ。実物の圧、事前に聞いてた情報の三倍あるじゃねぇか!」
「はうす顔赤っ。茹でたカニみたい」
橘は面白そうに笑いながら、陰木の皿からポテトを一本取った。
「誰のせいだと思ってんだ、この脂質強盗!」
陰木は跳ね起きると、奪われたポテトを取り返すことも忘れ、橘を指さした。
「俺、あれだけ呼ぶなって言ったよな!? しかも一回じゃねぇぞ。自販機の横。帰りの階段。ブロック解除した直後のメッセージ。三系統から同じ警告出したのに何で全部召喚コマンドに変換されてんだよ!」
「来るか聞いただけじゃん。実物激メロだったんならよくね?」
「良くねぇよバカ! 顔が良い男は画面の中で無言で存在するからいいのであって、現実で目の前に座って『君がめるの何?』とか聞いてきたらただの最高級ストーカーなんだよ! 通報対象が職務質問してくんなよ!」
近くの女子学生が一瞬こちらを見たため、陰木は反射的に背中を丸める。しかし橘が二本目のポテトに手を伸ばしたことで、わずかに戻りかけた羞恥心は再び怒りへ焼却される。
「つーかさ、お前マジであれと寝たんだよな?」
恐怖と憤怒が一周した結果、陰木の感情は最も品のない好奇心へ着地した。
「正気か? サメと混浴どころか自ら餌になりに行ってんじゃねぇか、この自主的生贄系クソビッチがよ。で、どうだった?」
「星4。意外と大人しかったよ」
「きんも!」
即座に罵倒したくせに、口角だけは隠す気もなく上がっている。陰木はポテトを噛み砕きながら、いかにも他人の性生活を娯楽として消費する顔になった。
「あいつ絶対ヤバいって。電気消した瞬間に『暗闇でも君を捕捉できるように』とか言って、暗視ゴーグル装着しながら腰振ってそう。顔面は少女漫画なのに、やってること完全にオカルトピストンだろ」
橘は盛大に吹き出し、危うく食べかけのポテトまで射出しかけた。
「待って、無理! じぇになら言いそうなのやめろ」
「しかも終わったあと抱き締めるんじゃなくて改善点を報告してくるタイプ。『次は呼吸周期に合わせて最適化する』って。寝室が恋愛じゃなくて実証実験だろ」
陰木は完全に調子に乗っていた。先ほどまで縮こまっていた陰キャの羽が、今や学食の天井へ突き刺さる寸前である。
橘の視線が、ふと陰木の肩越しで止まった。
近くの席にいた学生が一人だけ、先に箸を止める。陰木以外にはもうオチが見えていた。
「はうす」
「なんだよ」
「それ本人の前でも同じこと言えんの?」
「は? 余裕だろ。本人の前ならもっと簡潔に『寝室では人体実験を始める変態です』って真正面から──」
「──暗視ゴーグルは使わない」
背後から、低い声が落ちた。
陰木の肩が、ぴきりと固まる。
すぐには振り返らなかった。先ほどまで机を叩いていた手を静かに膝へ下ろし、逃走経路が存在しないことを確かめるように、数秒かけて首だけをゆっくりと回す。
常温水のコップを二つ持った黒瀬が、真後ろに立っていた。
「めるの表情が見えなくなるから、検討段階で却下した」
内容はもう陰木の耳には届いていなかった。最速で白旗を掲げ、床へ額を埋設する勢いで頭を下げる。
「……あ、はい。すみません。失礼しました」
「変わり身はやっ、忍者かよ。真正面から言うんじゃなかったの?」
「実物を前にして計画を変更しました。臨機応変な判断です」
「ただの命乞いじゃん」
黒瀬は陰木の謝罪には反応せず、橘の前へコップを置いた。
先ほど箸を止めた学生は、今度はそっと目を逸らした。見届けるには気の毒な段階へ入ったらしい。
「今の話、続けていいよ」
「いえ、結構です! 今の話はすでに全工程を終了し、有害廃棄物として適切に処理されました。復元予定は一切ございません!」
「僕の記録には残っているよ。顔面は少女漫画で、やっていることはオカルトピストン」
「全部聞こえてるなら再現させる意味ないだろ!」
限界を超えた素の怒声が飛び出す。
黒瀬が静かに視線を落とす。
「……失礼いたしました。今のは独り言です」
橘は耐えきれずに、机を叩いて笑い始める。
「あはははっ! はうすの被ってる猫、じぇにの顔見た瞬間に音速でケージに戻った。出入り激しすぎだろ!」
「笑うな芋泥棒! お前、こいつが戻ってきたの気づいてただろ。何で俺が墓穴を掘り切るまで黙って見てたんだよ」
「本人の前でも余裕って言ってたから、実行結果を観測しようかなって」
「お前ら同じ危険物研究所から出荷されてんのか? 加害のベクトルが違うだけで、根っこの邪悪さは完全に一致してんだよ!」
橘は机へ突っ伏したまま、涙が滲むほど笑っている。陰木が睨めば睨むほど、その赤い顔がさらにツボへ入るらしい。
「じぇに見て。こいつ、ネットだと大型犬なのに、実物と対面したらチワワになった」
「ビビってねぇよ! 危険物から距離とってるだけだ!」
反論のたびに橘の肩が揺れる。一週間未読にした末、ブロックまでされた相手へ向ける笑い方としては、あまりにも無防備だった。
黒瀬は向かい側の席へ戻り、コップを静かに置く。
「君は、めるに随分好き勝手なことを言うんだね」
「こいつも俺に同じくらい好き勝手してくるんで、お互い様ですよ」
「それでも、関係は切れないんだ」
「何回か切れてますよ。勝手に再接続されるだけです」
陰木は黒瀬の表情をうかがい、わずかに眉を寄せた。
橘は笑いながら、陰木の皿から三本目のポテトを取る。
今度の笑いは先ほどまでより静かだった。声を抑えながら肩を揺らし、何の警戒もなく陰木へ顔を向けている。
黒瀬の顔面は平常運転を続けていたが、内側だけは、かなり大きな事故を起こしている。
「……君の言葉で、本当によく笑うね」
陰木の口から、今度はすぐに軽口が出なかった。
「お前、橘が笑うたびに原因解析して、自分の寄与率とか算出してんのか?」
「しているよ。秒単位で」
「脳みそハッピーセットのくせに処理能力だけ高ぇな」
「じぇにの場合、私が笑った言い方だけ残して似た台詞三パターン試してくるよ。一番反応よかったやつ、翌週もう一回そのまま言われた」
「笑顔の品質管理やめろ」
黒瀬は一度だけ瞬きをした。顔面は美しいまま、思考だけが一段地下へ降りる。
「嫌なら、接触経路を減らせばいい」
「そんなことしたって聞かねぇだろ、この暴走ギャルは。お前みたいにクーポンごと握りつぶす発想は普通の人間には出てきません」
橘の口元がまた緩む。
陰木の皿には、唐揚げがあと一つだけ残っている。
「それ食べないの?」
橘の視線は、完全にそこへ固定されていた。
「食べる。お前の箸が国境付近で不審な動きしてるから警戒中」
「唐揚げ一個に国境作るなよ」
「三本越境した侵略者が言うな」
陰木は皿を自分の側へ引き寄せ、唐揚げの手前へ箸を横たえた。簡易国境線の完成である。
橘と陰木は、一個の唐揚げをめぐるいつもの小競り合いへ戻っていた。
黒瀬だけが、別の所有権を脳内で審理している。
最後の唐揚げへ向いていたのは、橘と陰木の箸。黒瀬の視線だけは、橘の顔から動かなかった。
「……それ、僕のものだろ」
何の前触れもなく伸びた箸が、陰木の防衛線を越えた。
「は?」
橘より先に、最後の唐揚げが持ち上がる。
唐揚げの話にしては、視線の位置がおかしい。
橘の笑顔の話にしては、箸の先が具体的すぎた。
陰木の顔から完全に表情が消える。
「……何が?」
黒瀬は答えず、奪った唐揚げを口へ運んだ。
静かに咀嚼し、きちんと飲み込む。人の昼食を強奪した直後とは思えないほど行儀よく箸を置いてから、まだ橘を見たまま口を開いた。
「分からない。でも君の言葉で笑っているのを見たら、そう思った」
一瞬だけ、学食の騒音が遠のく。黒瀬の声はいつものように平坦だった。
「キモすぎるだろ普通に」
今度の陰木の声に、怯えはなかった。
「気になるのと、持ち物にするのは別だろ。嫉妬で管理者権限が生えると思ってんのお前だけだよ。人間関係乗っ取る気か」
「君は本当にそう思っているの? 気になるのに?」
「一回そのセリフ録音して、夜中に暗い部屋でイヤホンで聞いてみろ。普通に怪談だから」
「じぇに」
橘は構わず割って入った。
「それ、私の唐揚げ。勝手に取るな」
「いや最初から俺のだから! お前が勝手に食おうとしてただけだろ!」
橘は陰木を無視し、机の下で黒瀬の革靴をスニーカーの先で一度だけ軽くつついた。
「返せ」
叱責というより、会話のついでに投げた弱い抗議だった。
黒瀬は一度だけ足元へ目を落とす。
「もう食べたから返せないね」
「不可逆やめろ」
「うん。不可逆でよかった」
黒瀬の足は、橘の靴先が離れるまで動かなかった。陰木は空になった皿と、他人の唐揚げを媒体にして謎の波長を合わせ始めた二人を交互に見た。
「俺の唐揚げでイチャつくな!」
学食中へ響いた絶叫に、近くの席から笑いが漏れる。それを合図にしたように、周囲の肩まで次々と揺れ始めた。
橘は露骨に眉を寄せる。
「てか、マジでいい加減にしろ。キモいし目立つ。私まで頭おかしいと思われるんだけど」
「めるになら、どう思われても構わないよ」
黒瀬は迷わなかった。
「世界中に正常だと思われるより、君一人に異常だと覚えられていたい。嫌われても君の中に残れるなら、それは僕にとって十分な純愛だからね」
「いや、日本語喋って? 俺の唐揚げはお前のポエムの錬成素材じゃねぇんだよ」
周囲からまた笑いが漏れる。
陰木は耳の裏まで赤くしながら、ノートと筆箱を鞄へ乱暴に押し込んだ。
「もう帰る。今日の分の全社会性を使い切った。俺は通訳でも、緩衝材でも、唐揚げの生贄係でもねぇ!」
「またねー」
「次があると思うなよ!」
陰木は背中に嫌な汗を流し、敵の捨て台詞めいたものを残して人混みへ消えていく。
今日一日分の社会性は学食へ置き去りにしたが、机の端に残っていた約束のピスタチオプリンだけは、退場速度を一切落とさず正確に回収していった。




