第3話 ただの友達、学食で就活する
そして三日後。
黒瀬が被害者の会を出た、その日の昼休み。
陰木は、約束の十二時十五分より七分早く学食へ着いていた。
筋金入りの内弁慶である彼にとって昼休みの学食は、単独で踏み込むには相応の覚悟がいる。
それでも入口から窓際までを一度見渡し、呼ぶなと念を押した男の不在を確認してから、二人分の席を確保した。
机の上には基礎統計の教科書、レジュメ、ノート三冊。さらに、試験範囲を単元ごとに色分けした付箋と、橘が間違えそうな箇所だけを抜き出した確認問題まで並んでいた。
少し教えるだけの人間が持参する物量ではない。
本人によれば、すべて大学の治安維持に必要な装備だった。ピスタチオプリンとの因果関係だけは、断固として否定している。
ノートの隣には、先に買っておいた唐揚げ定食が避難させてある。
十二時十七分。
大盛りポテトとカフェオレと紙袋を載せたトレーが、悪びれる様子もなく隣の席へ置かれた。
「遅い。十二時十五分集合。しかも教科書より先にポテトを持ってくるな。試験勉強を何だと思ってんだ」
「まだ十七分じゃん。誤差二分」
「お前みたいなやつが統計を触ると円グラフの合計が100%超えるんだよ。で、どこまで分かってる」
「試験範囲が出たこと」
「ゼロじゃねぇか」
陰木は油の染みたレジュメを前にして、自分がここへ来た判断そのものを悔やんでいた。
橘は約束のポテトを陰木の側へ押しやり、カフェオレだけを自分の前に残した。そして悪びれもせず、陰木が持ってきたノートを自分の方へ引き寄せる。
陰木の書き込みは細かい。数式の横に短い説明があり、そのさらに横へ、橘向けらしい雑な注釈までついている。
【二乗するのは符号を消すため】
【最後にルート。忘れたら再履修】
「脅迫分みたいな補足ついてる」
「お前には危機感の方が届くからな」
「で、なんで最後にルートつけんの。二乗してルートって、行って帰ってきただけじゃん。無駄足じゃね」
「分散のままだと元のデータと単位が変わるから戻してんだよ。数学に無駄足とか言うな」
「じゃあ最初から散らばらなきゃよくない?」
「集合時間に遅れるやつに協調性を語る資格はない」
陰木は橘のノートへ式を書き足しながら、ペン先で順序を示していく。
説明は早かったが、橘のペンが止まれば必ず少し戻った。二度目までは普通に、三度目からは人格への軽い攻撃を添えるのが陰木の教え方だった。
「全体の平均を出して、そこからの差を算出する。そいつを全員漏れなく二乗」
「暴力だ」
「計算だ。あとその箸を自国に戻せ」
暴力を非難しながら、橘の箸はすでに陰木の唐揚げへ実力行使に出ていた。狙いは、最も衣の立った一個である。
「勉強代」
「教えてんの俺なのに払う側なの意味わかんねぇんだけど。お前の経済圏では盗賊が中央銀行やってんのか」
「じゃあ出張費」
「俺が呼び出されてんだよ」
口では防衛していたが、陰木は箸で唐揚げを守ろうとはしなかった。
橘は唐揚げを奪い、代わりに最も細いポテトを一本、空いた場所へ置いた。補償ではなく、橘が一方的に決めた和解金だった。
「レート合ってねぇ。最低十本。あと今度寿司奢れ」
「請求膨らみすぎでしょ。遅延損害金つくんだ」
「七日と十三時間も未読にした客へ無利息で貸す義理はねぇんだよ。とりあえず手動かせ。次また平均との差で止まったら、お前自身を外れ値として処理するからなクソビッチ」
「はいはい。とりま、約束のピスタチオプリン食って落ち着け」
橘が紙袋を差し出すと、陰木は一秒だけ黙った。
「……最初から持ってたなら出せよ」
「唐揚げの代金」
「約束の品を弁済に流用すんな。しかもまだ赤字だ」
橘が笑った。声を上げるほどではない。ただ、何度も繰り返してきた会話の延長で、勝手に漏れたような笑いだった。
陰木も口元だけをわずかに緩め、すぐにノートへ視線を戻す。
昼休みの学食は騒がしかった。
食券機の電子音。トレーを置く音。席を探す学生の声。唐揚げ定食の残数をめぐる、局地的な情報戦。
そのざわめきの中で、窓際の二人だけは、自分たちの会話の速度で時間を使っていた。
ノートの所有者がどちらなのかは曖昧だった。
橘は勝手にページをめくり、陰木のペンを借り、返す場所を間違える。陰木はそのたびに文句を言いながら、自分で元の位置へ戻す。
皿の境界も、言葉の境界も、沈黙の扱いも雑だった。
どちらも許可を求めない。
どちらも、それで関係が終わるとは考えていない。
勉強を始めてから十分ほど経った頃、学食の視線が一方向へ傾いた。
「え、あの人ってかけうどんとか食べるんだ」
驚く場所がそこなのか、と陰木もつられて振り返った。
昼食を乗せたトレーを持つ男が、こちらへ歩いてくる。
清潔感のある黒い服。首元には鎖を模したチョーカー。顔だけなら、撮影現場を間違えて大学へ迷い込んだ男だった。
それなのに、手にしているのは290円のかけうどん、ネギ抜き。
顔面が先に最高級ホテルへチェックインし、昼食だけが学生食堂へ取り残されている。
黒瀬は、その一帯の小さな騒ぎを完全に環境音として処理していた。
見ているのは橘だけである。
彼の進行方向が自分たちの卓だと気づいた瞬間、陰木は数日前の自分に殺意を抱いた。
『激メロ、抱かれてぇ』
画面越しに投げた軽率な一文が、実体と異常な執着を伴ってこちらへ歩いてきていた。
「あ、じぇに。来た」
橘は、宅配便でも受け取るような軽さで片手を上げた。
陰木の顔に、露骨に「呼んだのか」と書かれる。
「三日前、俺言ったよな」
「聞いてたよ」
「聞いた上で?」
「うん」
「お前、未読の方がまだマシだったわ」
黒瀬は二人の卓へ近づくと、橘の隣へ一度視線を落とした。
そこには、すでに陰木が座っている。
椅子と椅子の間は狭く、中央には開かれたノート。橘の飲み物と陰木の筆箱が、同じ範囲へ雑に混ざっていた。
黒瀬が見ていたのは男の顔ではない。
距離だった。
陰木はその視線に気づき、わずかに背筋を伸ばす。
さっきまで橘へ「クソビッチ」と吐いていた口元に、社会で使用可能な笑みを貼りつける。
「どうも。初めまして。陰木はうすといいます。橘とは高校からの友人で、今日は試験勉強をしています」
声まで変わっていた。落ち着いていて柔らかい。企業説明会の受付から一次面接まで、そのまま通過できそうな就活用の音声だった。
「声違いすぎて草」
「初対面の人にまで、お前と同じ治安で話すほど社会性捨ててねぇんだよ」
陰木は咳払いを一つし、黒瀬へ向き直った。
「……すみません。こいつが全く勉強しないもので、少し口調が荒れました」
「今の声でさっきの『クソビッチ』も言ってみて」
「誰が就活ボイスでハラスメント再演すんだよ」
黒瀬は橘の笑い声を聞きながら、向かい側へトレーを置いた。
橘の隣ではなく、向かいに。隣を空けさせるための正当な理由がなかった。
「陰木はうす。君が、めるの何?」
挨拶の形をした尋問だった。
陰木の笑顔が、ほんの少しだけ固まる。
「……友達です」
「ただの友達。高校からのやつ」
橘が補足すると、陰木が眉を寄せた。
「『ただの』は要らねぇだろ」
「じゃあ古参の友達」
「ソシャゲみたいに分類すんな。普通に友達でいい」
「……高校から」
黒瀬は、最後の一言だけを拾った。
かけうどんの横へ箸を揃えながら、静かに問いを重ねる。
「どのくらい?」
「長さを測って何に使うのか知りませんけど……三年くらいです」
「三年」
「そこはそんなに何度も確認するところですか?」
「僕の知らない時間だから」
あまりにも隠す気のない返答に、陰木は一瞬、次の言葉を失った。どの程度ドン引きすれば社会人として適切なのか、就活マニュアルの中を探している顔になる。
橘は気づかず、陰木の皿から二本目のポテトを奪った。
黒瀬の視線が、開かれたノートへ落ちる。
「試験勉強なら、僕が教えるよ」
「今日はいいや。はうすの方が説明分かりやすいし」
橘はほとんど考えずに答えた。
短い言葉だったが、黒瀬は箸へ伸ばしかけた手を止めた。
「……僕では、だめなの」
声は静かだった。責めても拗ねてもいない。ただ、選ばれなかった理由を正確に知ろうとしている。その真剣さが昼の学食には少し重い。
「だめっていうか、あんたの説明って途中から数学に愛とか観測とか混ぜてくるだろ」
「めるが理解するために必要なときだけだよ」
「ほら、もう混ざった」
橘が笑う。
黒瀬は納得していない顔で黙り込んだ。
その様子を見ていた陰木の口元が、わずかに上がる。
「まあ、橘向けの説明には慣れてるんで。分からないところより、分かったふりして流すところの方が分かります」
「余計な個人情報まで出すな」
「三年分あるからな」
言ってから、陰木は黒瀬を見た。一瞬遅れて、就活用の笑顔が戻る。
「……言い方がよくありませんでした。失礼しました」
「今、絶対ちょっと勝った顔したじゃん」
「してねぇよ。お前は黙って分母見ろ」
黒瀬は、陰木の口調が橘へ向いた瞬間だけ崩れ、自分へ戻ると再び整う様子を見ていた。
「友達なら、そういう言い方をしても続くの」
「切るつもりで言ってないの、向こうも分かってるんで」
「どこまでなら絶交しない?」
「知りませんよ。普通、友達に耐用年数とか破損限界値とか設定しなくないですか」
「決めていないのに続くんだね」
黒瀬は至って真剣だった。真剣な分だけ、会話の出口が見えない。
陰木の眉間に少しずつ皺が寄る。
「普通の質問から始まったはずなのに、気づいたら黒瀬さんの私有地で事情聴取されてるんですよね」
「何か言った?」
「いえ。友人関係について独創的な観点をお持ちだと思いまして」
「敬語へ変換しただけで、内容は変わってないよ。陰木はうす」
「言葉を一個ずつ保存すんなよ。マジでキモ……いと思います。失礼しました」
黒瀬は答えず、二人の間に転がっていたシャープペンを見た。
「それ、誰の?」
「私の」
「俺の」
二人の声が重なる。
橘と陰木はそろってペンを見た。
「どっちだっけ」
「知らん。お前がずっと使ってた」
「じゃあ私のじゃん」
「使用実績で所有権を移すな」
黒瀬はペンではなく、その所有者すら曖昧なまま続いていく二人の会話を見ていた。
恋愛らしい甘さも、色気もない。陰木は橘へ口が悪く、橘は陰木の唐揚げを勝手に食べ、互いを丁寧に扱っているようには見えない。
それでも、隣にいる。
黒瀬がどれだけ愛を説明しても得られなかった距離へ、陰木は「友達」の一言だけで座っていた。
黒瀬はようやく箸を取り、麺を一口だけ食べた。しかし視線は、まだ陰木の前にあるノートへ残っている。
「この試験範囲なら、僕も確認できる」
「別に三人でやってもいいけど」
橘の返事に、陰木が即座に横を向く。
「よくねぇよ。お前一人に教育資源を過剰投入したら大学全体の配分がおかしくなるんだよ」
「僕は資源ではない。めるの理解を補助するためにいる」
「言い換えた結果、資源より怖くなってます」
橘は笑いながらカフェオレを飲み切った。
黒瀬はしばらく二人を見ていたが、やがて空になった橘の紙パックへ視線を落とす。
「める。今日は朝からほとんど水分を取っていないだろ」
「カフェオレ飲んだ」
「水分補給としては不十分だよ」
「始まった」
陰木が小さく漏らした。
「何が?」
「いえ。画面越しでも相当でしたけど、実物は口から常温水が湧くんだなと思って」
黒瀬の視線が向く。陰木は即座に微笑んだ。
「……健康への配慮が行き届いていますね」
黒瀬は何かを考えるように数秒黙り、それから席を立った。
「水を取ってくる。選択肢として持ってくるだけだから、飲むかどうかは君が決めて」
「この前の学びを水で再履修してんじゃん。さすが胃のSP」
黒瀬はトレーを残したまま、ウォーターサーバーの方へ向かった。
人混みの中へ消えていく背中を、陰木はしばらく無言で見送る。
距離が充分に開いたことを確かめてから、貼りつけていた笑顔をゆっくり剥がした。
「……何なんだよ、あれ」
就活は、終了した。




