第2話 季節のブロック
──黒瀬が被害者の会に参加する三日前のこと。
唐揚げクーポン事件が学内の共通語として定着しかけた頃、大学にはもっと普遍的な災害──中間試験が近づいていた。
講義棟一階の自販機前で、橘めるは自分の友人関係が一度電子的に終了していることを知った。
二限の終了から数分。廊下には次の講義へ向かう学生と、昼食を求めて学食へ流れる学生が入り混じり、自販機の低い駆動音さえ、人の声と靴音の底へ半分沈んでいる。
橘はその流れから外れ、炭酸にするかカフェオレにするかを考えながらスマホを開いた。
今朝、大学のポータルに掲載された条件は三つ。
基礎統計。資料持ち込み不可。中間試験まであと七日。
ここまで揃えば、橘が取るべき行動は一つしかない。
自分で勉強する、ではない。
高校時代から試験前になるたび、何だかんだでノートを見せ、分からない箇所を教え、最後には「次こそ自分でやれ」と捨て台詞を残していく男へ連絡することである。
彼とのトーク画面には、一週間前から届いていたメッセージが並んでいた。
『生きてる?』
『今度の試験範囲出るらしいけど』
『見てるなら返せ』
そして最後のメッセージ。
『楽しそうでよかったね』
この一文だけは、他の三通より温度が低かった。
だからこそ橘は、通知欄で見ていても開かなかった。
橘が送信欄を押そうとすると、画面には簡潔な事実だけが表示された。
【このユーザーにはメッセージを送信できません】
「あ、ブロックされてる」
驚きはなかった。
怒るとブロックし、しばらくすると戻ってくる。そういう男だった。
春に桜が咲き、夏に蝉が鳴き、秋に葉が落ち、彼は橘をブロックする。季節より頻度が高いだけで、自然現象としては似たようなものである。
「まあ、そうなるか」
橘がスマホを閉じ、自販機へ小銭を入れた、そのとき。
「──おい」
右側の暗がりから、低い声がした。
橘は驚いて自販機を見上げる。
「……え、自販機に会話機能ついた?」
「ついてねぇよ。横見ろ、アホ」
自販機の側面と壁の間、正面からは広告パネルの陰になる場所に、黒いパーカーの男が立っていた。
少し長めの黒髪。整った顔立ち。黙っていれば人目を引きそうなのに、本人の纏っている不機嫌さが、外見の有効活用を全力で妨害している。
片手には缶コーヒー。缶の表面には、もうほとんど結露が残っていなかった。
「ブロックした人が、現実では自販機の横から出てくる仕様なんだ」
目の前の男、陰木はうすと顔を合わせるのはしばらくぶりだった。それでも第一声に、久しぶりの成分は一切ない。
「通りかかっただけだわ。お前今、俺に連絡しようとしてただろ。試験範囲が出た瞬間だけ俺を呼び出すのそろそろやめろ。俺はお前の脳のしわ代行サービスじゃねぇんだよ」
「無料プラン終わった?」
「七日と十三時間も未読放置した客は強制解約だろ。『生きてる?』に『生きてる』の四文字返すだけなのに、何を一週間も熟成させてんだ」
「でも今、現地サポート来てるじゃん。対面で生存確認できたんだから結果オーライっしょ」
「通り道だっつってんだろ、自惚れんな」
橘は、彼が立っていた自販機と壁の隙間を見た。現地サポートが通れそうな道は見当たらない。通行には、かなり高度なカニ歩きが要求される。
それから、陰木の手元へ視線を落とした。
「その缶、もうぬるいでしょ」
陰木は軽く舌打ちし、缶を持った手を背中へ隠した。
答え合わせとしては十分だった。
本人が認めないなら、橘もわざわざ認めさせるつもりはない。これ以上突けば、面倒くささが防御形態へ移行して余計に缶がぬるくなるだけである。
そのとき、背後から遠慮がちな声がした。
「あの、すみません。お水、買ってもいいですか」
二人が自販機の正面を塞いでいた。
振り返った陰木の表情から、苛立ちが一瞬で消える。
「あ、すみません。どうぞ」
先ほどまで橘の未読時間を管理していた人間とは思えない、柔らかく角のない声だった。
陰木はすぐに脇へ退き、女子学生が商品を取り出すまで邪魔にならない距離を空ける。
女子学生が小さく頭を下げて去り、十分に声の届かない場所まで離れたところで、ようやく橘へ向き直った。瞬間、外面のメッキがベリベリと剥がれ落ちる。
「で、お前はいつまで公共設備を占拠してんだよ」
「何今の就活ボイス。私にも使ってよ」
「あれは社会用。お前はフレンズだから対象外。気を許してる証拠だと思え」
「一番嬉しくないフレンズ割で加害性を自己申告すんなし」
外面の終了は早かったが、先ほどの女子学生がまだ廊下の先に見えているせいか、声量だけはきちんと抑えられている。口は悪いが周囲の目は気にするらしい。陰木の社会性は、内容ではなく音量を管理する方式だ。
橘は自販機のボタンを押し、落ちてきたカフェオレを取り出した。
「で、はうすは三日後ひま? 社会常識が欠如してる私に試験勉強教えて。フレンズのよしみで」
「未読無視の分際で都合良すぎんだよ。俺のボランティア精神はとっくに死んだ」
「ポテト大盛りと期間限定プリンつける」
「……今出てるピスタチオのやつか?」
陰木の視線が、一瞬だけ学食のある方向へ動いた。
「そうそれ、私ちょうど割引クーポンあるし」
「三日後なら二限終わり」
陰木はいつの間にかスマホを取り出していた。予定表を二度確認し、すでに来る人間の手つきで時刻を指定した。
「十二時十五分、学食。教科書とレジュメと筆記用具、全部持ってこい。俺のノートに油つけたら絶交。プリン忘れたら即帰るから」
「死んだボランティア精神の蘇生早いな」
怒っている。文句も多い。
それでも、三日後の時間と場所は決まった。
「どうせ基礎統計だろ。資料持ち込み不可、範囲は四章から七章。お前、一章の時点で分かってないだろうけど」
まだ試験範囲を口にしていないのに、陰木は橘よりも正確に把握していた。
陰木は高校時代から、いつもこうだった。
橘が頼む。陰木が断る。散々断ったあと、必要な持ち物と集合時間だけが具体的になる。
それを承諾と呼ぶかどうかは、本人の面子のためにも曖昧にしておいた方がいい。
「あ、そうだ。あの変な男は呼ぶなよ」
陰木が不意に思い出したように釘を刺した。橘がカフェオレの蓋を開ける手を止める。
「どれ? 変な男が多すぎてわかんないんだけど」
「猫に告って、人力Wi-Fiになって、唐揚げクーポンを殺した、顔面だけはやたら良い不審者だよ」
「めっちゃ詳しいじゃん。ボロクソ言うわりにはファンアートとか漁るタイプ?」
陰木も止まった。ほんの一瞬だったが、分かりやすい停止だった。
「お前が最近そいつの話ばっかしてるからだろ。嬉々として奇行の報告しやがって」
「で、猫ポエム動画は見たの?」
「字幕のタイミングがズレてて、途中から詩よりそっちが気になった」
「しっかり全部見てて草」
陰木は誤魔化すように、ぬるくなった缶コーヒーを一口飲んだ。
「お前マジで趣味悪っ。あれに追っかけられてまあまあ楽しそうなの普通にキモい」
「楽しそうでよかったね」
「俺の送った文面を音読すんな。殺すぞ」
「でもじぇにの写真見せたとき『激メロ、抱かれてぇ』って言ってたじゃん」
陰木は周囲を確認し、誰もこちらを見ていないことを確かめてから、声をさらに落とした。
「画面越しに見る静止画の話な。同じ卓を囲みたいとは言ってねぇだろ。水族館でサメ見て格好いいと思っても、同じ風呂に入りたいとはならねぇじゃん」
「はうす、サメに抱かれたいんだ」
「要約の仕方が頭悪すぎるから落単確定だろ」
「じゃあ実物は水槽無しでもメロいか確認しよ」
「サメを陸にあげるな。呼ぶな」
陰木は念を押すようにもう一度「呼ぶなよ」と言い残し、人の流れへ紛れていった。
その背中が廊下の角を曲がった直後、橘のスマホが震える。
陰木からだった。
『三日後、12時15分に学食。1分でも遅れたら帰る。教科書持ってこい。あの男は呼ぶな』
ブロックは解除されていた。
橘は返信する。
『おけまる』
すぐに既読がつき、返事が来た。
『最後の一文の理解度を証明しろ』
橘は画面を閉じた。
忠告は、三日後まできちんと覚えていた。もっとも、「覚えていること」と「それを守ること」の間に因果関係はない。




