第1話 あなたも橘めるの被害者ですか
唐揚げクーポン事件から数日が経った。
大学は意外と早く平常に戻った。
義援肉だのクーポンだの騒いでいた学生たちはまた、講義に遅れ、課題に追われ、食券機の前で財布の残高と人生について考える日々を送っている。
ただし、黒瀬じぇにだけは平常ではなかった。
もともと平常ではない、という根本的な問題はある。
だが、そこに新しい異名が増えた。
猫ポエム男。Wi-Fiの人。唐揚げクーポンの仇。顔面SSR倫理N。
そして、最近ではこうも呼ばれている。
橘める周辺災害指定人物。
黒瀬はその噂を特に訂正しなかった。訂正する必要を感じていなかったからだ。
彼にとって重要なのは、橘が自分をどう分類しているかだけである。その他の学生が自分をどう呼ぼうと、基本的には環境音だった。
ただ、環境音にも種類がある。
耳に入っても処理しない音。処理する必要のない音。処理すべきではない音。
そしてまれに、処理せざるを得ない音。
「黒瀬じぇに君ですね」
二限の講義が予定より七分早く終わった、その帰り道。黒瀬は声をかけられた。
声の主は見覚えのない学生だった。
よれたシャツに、黒いパーカー。顔立ちは地味で、普通に廊下ですれ違えば十秒後には忘れる程度の存在感である。
ただ、目だけは真剣だった。手には折りたたまれた紙を持っている。
黒瀬は足を止めた。
「今、お時間ありますか」
「ない」
「では、重要な質問だけします」
「答えるとは言っていない」
相手は一歩近づき、声を落とした。
「あなたも、橘めるの被害者ですか」
宗教勧誘にしては、切り口が具体的すぎた。
「……僕が、めるの被害者?」
「はい」
黒瀬は相手の顔を無言で見た。
敵意はない。好奇心も薄い。勧誘特有の異様な明るさもない。
ただ、深刻だった。この質問をふざけずに言っている顔だった。
「被害者ではない。関係者だ。あるいは観測者。もしくは彼女の生活インフラ」
相手は一歩引いた。
「重症ですね」
「君の認識を訂正する。僕はめるに害されたわけじゃない」
「──最近、眠れていますか」
黒瀬は一瞬黙った。
「……質問を変えたね。睡眠は、めるの稼働時間に合わせて調整している」
「急に予定を狂わされた経験は?」
「めるの予定は、観測対象として常に変動する。予測ではなく適応するものだ」
「DMのやり取りで、既読だけがついて返事が来ないことは?」
「既読は接続の証拠だ」
「食べ物を奪われたことは?」
「君の言う奪うがどの範囲かによる」
「唐揚げ」
黒瀬は黙った。
学食で、橘が唐揚げを咀嚼しながら「勝てる倫理があるなら持ってきて」と言い放ったときの横顔が鮮明に蘇る。
圧倒的に不遜で、軽薄で、美しかった。
「橘めるという名前に、心当たりは?」
「ある」
黒瀬が答えると、相手は深く頷いた。
「ではこちらへ」
「行かない」
「今ならまだ、引き返せます」
「どこから」
「橘めるから」
黒瀬の目が、ほんのわずかに冷えた。
相手はそれに気づいたらしく、すぐに両手を上げた。
「敵意はありません。勧誘でもありません。救済です」
「宗教の語彙だね」
「宗教ではありません。こちらをどうぞ」
相手は持っていた紙を差し出した。
黒瀬は受け取らなかったので、相手は仕方なく紙を開いて見せた。
そこには、手書きのような雑なフォントでこう書かれていた。
【橘める被害者の会 臨時説明会】
黒瀬は数秒、文字を見た。
「潰すよ」
「みんな最初はそう言います。ですが、被害者は一人ではありません」
「めるを被害の中心に置くな」
「中心に置いているのではありません。結果として、中心にいます」
黒瀬は紙を見たまま、低く言った。
「会場は」
「サークル棟です」
「行くとは言っていない」
「でも、もう足がサークル棟に向かっているようですが」
「ただの経路確認だ」
「目が査察の目になっています」
黒瀬が視線を向けると、相手はほんの少しだけ震えた。
「すみません。調子に乗りました」
変わり身が早かった。
黒瀬は紙を受け取った。
◇◇
サークル棟の三階には、使われているのか使われていないのか分からない空き教室がいくつかある。
黒瀬が案内されたのは、そのうちの一室だった。
扉には何も貼られていない。ただ、ドアノブの下に小さく、猫のシールが貼ってあった。
橘とよく一緒にいるあの茶トラだ。
「なぜ猫のマークがある。めるのプライバシーに対する不当なアプローチだ」
「識別用です。被害発生源に関連する意匠として」
「剥がして」
「できません。会の規約ですので」
黒瀬が無言になったので、案内役は慌てて扉を開けた。
中は薄暗かった。
蛍光灯は点いているが、一本だけ微妙にちらついている。窓のカーテンは半分閉まっていて、長机がいくつか並べられていた。
空き教室の前方には、古いスクリーン。その横にはホワイトボード。
そして壁には張り紙が並んでいた。
【橘めるを信用しすぎない】
【「今度返す」は返ってこない】
【飯代は返済ではなく供物】
【「あと五分」を時間単位として信用しない】
【既読は返事ではない】
黒瀬はゆっくりと視線を動かした。そして最後の一枚で、目が止まる。
【黒瀬じぇにの持ち込みは禁止】
「僕の名前がある」
案内役は気まずそうに視線を逸らした。
「最近、追加されました。これも管理人の意向でして、剥がすことはできません」
「その管理人を剥がす」
「物理的にですか?」
案内役が一歩下がったところで、教室の奥から別の声がした。
「え、黒瀬じぇに本人?」
長机の向こうに、数人の学生が座っていた。
知らない顔ばかりだった。だが、全員どこか疲れている。
唐揚げを一個取られた顔。既読だけついて返事が来なかった顔。奢ったのに「徳高いね」で流された顔。
そういう顔だった。
「本物だ」
「顔がよすぎて逆に怖い」
「Wi-Fiの人だ」
「唐揚げクーポンの仇じゃん」
「猫ポエムの……」
黒瀬の視線が一人に止まると、その学生はすぐに口を閉じた。
見渡すと、中には女子学生まで混ざっていた。
髪を後ろで雑に結び、膝の上にトートバッグを抱えている。顔は整っているが、表情だけは乾いていた。
黒瀬が視線を向けると、彼女は疲れたように言った。
「女も被害に遭うよ。貸したリップが三週間後、別の女のバッグから出てきた」
「管理が雑だね」
「そう。だから会が必要なの」
「必要ではない」
黒瀬が言うと、教室の端から、別の男の静かな声が返ってきた。
「必要かどうかは、私にもまだ判断できません」
黒瀬はそちらを見る。
壁際の席に、烏丸れいぶんが座っていた。
アッシュグレーの髪。膝の上には薄いノートPC。表情はいつも通り穏やかで、周囲の奇妙な空気から一歩だけ距離を取っているように見える。
なぜか机の上には【会員番号:0】と書かれた紙が置かれていた。
「烏丸れいぶん。君も被害者?」
「……私は、たぶん違います。勝手に入会扱いにされているだけで、私自身は、める様に被害を受けたとは思っていません」
案内役が小さく手を上げた。
「最古参の被害者の方です。元彼枠です」
「……元彼」
黒瀬が低い声で言うと、烏丸は困ったように紙を伏せた。
「……すみません。退会申請はしたのですが、『現役で振り回されているため不可』とのことで」
案内人が資料をめくった。
「烏丸れいぶんさんの被害報告です。橘めるに『今日空いてる?』と聞かれ、候補日、移動時間、天気、混雑予想、予算をまとめて返信。橘めるからの返事は翌日に『ごめん、寝てた』」
「寝るのは大事ですから」
「低反発マットレス枠ですね。踏まれても戻るタイプです」
「違います」
黒瀬が黙って見ていると、烏丸は申し訳なさそうな顔をした。
「過去形ではないんだね」
「……すみません。それは少し、難しいです」
「終わらせる気、ないだろ」
「退いた方がいいとは思っています。……黒瀬さんも」
会員たちは彼らのやり取りを見て、「これが被害者ランキング上位勢の空中戦か……」という顔で息を呑んでいた。
案内役が咳払いをする。
「えー、本日は、新規対象者として黒瀬じぇにさんをお連れしました」
「対象者ではない」
「失礼しました。自覚症状なしの方です」
「訂正が悪化している。健康状態は良好だ。心拍数も、めるの登校時刻に合わせて自動で最適化されている」
「訂正文が不審者情報なんだよなぁ……」
案内役は小さく頭を抱えたあと、無理やり資料へ視線を落とした。
「では改めて説明します。この会は、橘めるによって、生活リズム、精神衛生、財布、学内での評判などを雑に破壊された者の集まりです」
「めるを加害者のように言うな」
「加害者とは言っていません。自然災害に近いです」
「訂正して」
「では局所的な気象現象です」
別の学生が、待ってましたと言わんばかりに資料を広げた。
「たとえば、橘めるに『明日返す』言われた百五十円の返済率は、現在のところ──」
「統計を取るな。めるの『明日』は、暦と一致しない」
「は?」
「空腹度と気分で変動する。返済されないのではなく、返済条件がまだ世界に発生していないだけだ」
「借りパクを量子化しないでください」
「集計する意味がない。めるに消費された資本は、すべてインフラ維持費として処理している」
「貯金をインフラ維持費と呼ぶのはやめましょう。あなたも、唐揚げクーポン事件で学んだはずです」
黒瀬は黙り込んだ。
唐揚げクーポン事件。その言葉は学内でなぜか定着している。
黒瀬としては「外部刺激の整理に伴う副作用」程度の認識だったが、橘は今でも時々、低い声で「クーポン殺害」と言う。
それは、黒瀬にとって少しだけ痛い。橘が本気で怒っていたからだ。
会員の一人が言った。
「いいか、黒瀬。橘めるは、やめとけ」
教室が少し静かになった。その声にはふざけた響きがなかった。
黒瀬はゆっくりとそちらを向く。
「それは忠告?」
「経験則です」
「なら、参考にしない」
「でしょうね。ここに来た時点で、だいたい手遅れなので」
そのとき、前方のスクリーンが突然、ぷつんと音を立てて起動した。
古いプロジェクター特有のざらついた光が薄暗い教室の壁に広がる。画面の中央には、黒い犬のようなアイコン。
その下に、文字が表示された。
【管理人:留守番】
会員たちが自然と姿勢を正した。
宗教ではないと言っていたが、だいぶ宗教っぽかった。
画面にさらに文字が打ち込まれていく。
【新規参加者:黒瀬じぇに】
「参加していない。不正ログインだ」
次の文字。
【備考:末期の重症】
「勝手に診断しないで。僕の健康状態は、めるの機嫌と同期している」
さらに文字。
【要観察】
「観察するのは僕だ」
『──その発言が一番やべぇんだよな』
教室が静まり返る。
数秒の沈黙のあと、スピーカーから加工された低い声が再び流れた。
『噂には聞いてたけど、実物見ると輪をかけて呪物じゃん。脳みそにハーブティー詰まってんの?』
教室の端で誰かが吹き出した。
黒瀬の視線がスクリーンに固定される。
「君は誰」
『管理人です。画面に「留守番」って出てるでしょう。文字読めないの?』
「本名ではない。声も変えている」
『匿名性による治安維持です。そんな睨んでも無駄ですよ。画面越しなんで、顔面の圧に当たり判定ありませんから』
黒瀬がカメラのレンズに視線を向けると、スピーカーの向こうが一瞬だけ黙った。
『……今のはボイチェンの不具合です』
教室の隅で誰かが吹き出しかけて、すぐに口元を抑えた。
黒瀬は笑わずに、しばらくスクリーンを見ていた。
加工された声。黒い犬のアイコン。そして口調の端に、少しだけ荒さがある。
まだ情報は足りない。だが、他の会員とは明らかに温度が違った。
『黒瀬じぇに。あなたに一つだけ、先輩として言っておきます。──橘めるは、やめとけ』
またそれか、と黒瀬は思った。
同じ言葉。同じ警告。
だが、スクリーン越しの声には、他の会員たちの「雑に扱われた悲哀」とは違う、もっと濃くて、面倒なものが混ざっていた。
「君も、経験則の保有者?」
『そうだよ。でも言っても無駄だろ。お前、自分だけは特別だと思ってる顔してる』
教室が静まった。
黒瀬は表情を変えなかった。ただ、声だけが少し低くなる。
「お前?」
スピーカーの向こうが、また一瞬だけ黙った。
『……あなた。失礼しました。音声加工の不具合です』
「便利な不具合だね」
『便利なのは、友達って言葉の方です』
黒瀬の眉がわずかに動いた。
管理人、留守番は、少しだけ間を置いてから言った。
『あいつは、それでだいたいの距離を雑に処理する』
その言葉だけが、黒瀬の思考へ冷たい異物として入り込んだ。
友達。軽い。曖昧。範囲が広い。権限が見えない。
それなのに、橘の隣にいることを許す名前。
黒瀬の中で何かが静かに引っかかる。
『お前、自分が一番近いと思ってるだろ。でもあいつの周りには、お前が知らない距離で残ってる奴がいるんだよ』
黒瀬は黙っていた。
『恋人でもない。告白もしていない。ただの友達って顔で隣にいる。付き合ってないから浅い、って認識なら雑すぎる』
「君はめるの何」
スクリーンの向こうが黙った。
『……被害者だよ』
「被害者がなぜ管理している」
『被害が継続してるからです』
その答えに、教室の数人が深く頷いた。
黒瀬は彼らを見た。
馬鹿馬鹿しい会だった。
張り紙はふざけている。被害内容もしょぼい。管理人は匿名で、ボイチェンで、口が悪い。
けれど彼らは全員、黒瀬の知らない橘めるを知っている。
黒瀬が踵を返すと、案内役が慌てて資料を抱え直した。
「お帰りですか。では退室前に、会員登録の確認だけ」
「入会していない」
「管理人権限で仮登録は済んでいます。会員番号は七十二番。被害が継続している方は自動更新になります」
「ウイルスより悪質だね」
その瞬間、スクリーンに文字が表示された。
【黒瀬じぇに:入会済み】
【退会窓口:現在閉鎖中】
「解約窓口を開けて」
『ありません。お前が橘にやってるやつと同じです』
「僕がしてるのは保護だ」
『こっちは治安維持です』
「言い換えで正当化しないで」
『お前にだけは言われたくないんだよな』
教室内がざわついた。
黒瀬は扉に手をかけたまま言う。
「僕はめるの被害者ではない」
『はいはい。全員そこから始まります』
「登録を消して」
『拒否権はありません』
「僕の台詞を取らないで」
留守番は少しだけ沈黙した。
それから、加工された声で短く言った。
『やっぱり重症』
黒瀬は返事をせず、教室を出た。
そのまま歩きながらさっきの言葉を反芻する。
友達。
それでだいたいの距離を雑に処理する。
橘の周りには、黒瀬の知らない呼び方で、黒瀬の知らない時間を共有している人間がいる。
その事実は、通知音よりずっと不快だった。
廊下は薄暗い。サークル棟の窓から昼の光が斜めに入っている。
遠くで誰かが笑っている。どこかの部室からギターの音が聞こえる。階段の下から食べ物の匂いがかすかに上がってくる。
そのとき、廊下の少し先で扉が閉まった。カチ、と小さなラッチ音。続いて階段を下りていく足音が二、三段ぶんだけ響き、すぐに消える。
振り返ったときには、廊下にはもう誰もいなかった。
後を追おうとしたそのとき、黒瀬のスマホが震えた。
画面を見ると、橘からのメッセージだった。
『じぇに、今日学食来る?』
たった一行。
それだけで、さっきまでの被害者の会も、留守番も、友達という言葉も、全部少しだけ遠ざかる。
黒瀬は返信する。
『行く』
すぐに既読がついたが、返事はない。
黒瀬は少しだけ目を伏せる。
既読は接続の証拠だ。そう処理しようとした。
けれど、サークル棟の空き教室で見た張り紙がなぜか頭から離れない。
【既読は返事ではない】
黒瀬は、静かにその文字を記憶から消そうとした。
消えなかった。




