第3話 【悲報】大学のWi-Fi、ガチで逝く
その日、無響大学のWi-Fiは死んだ。
講義室のプロジェクターは砂嵐を吐き、学生たちのスマホには一斉に「圏外」の二文字が刻まれる。
教職員たちは青ざめ、IT事務局には固定電話だけが鳴り続けていた。もちろん、誰一人として原因に心当たりはない。
だが、真の地獄はそこからだった。
経済学部・大講義室。
真面目な老教授が操作するスライドが、突如として鮮やかなネオンカラーに切り替わる。
『今すぐクリック! あなたも今夜、運命の出会い♡』
「…………は?」
教授の動きが止まり、教室が凍りつく。
「な、なんだこれは。消せ! 消えろ!」
教授がマウスを連打する。だが、その執念に呼応するようにウィンドウは増殖し、あろうことかスピーカーから最大音量で甘ったるい女性の声が響き渡った。
『あなたの近くの『寂しい女性』が、今、あなたのログインを待っています♡』
「なんでフルスクリーンになるんだ!」
「教授、夜の個別指導中っすか?」
「違う! 私ではない! 」
時を同じくして──
法学部のモニターには『大人の関係、始めませんか?』。
工学部の電子掲示板には『夜のライセンス、無修正で公開中』。
さらに図書館の蔵書検索端末は『今夜、あなたを貸し出します♡』へと書き換えられ、就活説明会のスクリーンには『あなたの『内定』、夜からです』の文字が躍った。
無響大学の知性は、たった数分の通信障害によって、回復不能なレベルまで猥雑に塗り潰された。
そんな時、乗っ取られた映像の中に、ごく一瞬だけ異質な文字列が紛れ込む。
『対象:識別済み』
『髪色:ピンクベージュ』
『罵倒語彙:更新完了』
だがそれはすぐに上書きされ、誰の目にも留まることはなかった。
3号館の屋上にて。
1人の男がそよ風に吹かれながら佇み、不敵に笑う。
『ラブホ前で猫に求婚する不審者』。
そんな不名誉な見出しで拡散されたあの一件を、黒瀬は敗北だと思っていない。
むしろ、あれで理解したのだ。どうすれば、橘めるの視界を独占できるのかを。
──あれは数日前のこと。
無響大学の陽だまりの落ちる渡り廊下で、橘は黒瀬をいじりながら楽しそうに笑っていた。
「あの猫ポエム最高すぎてえぐい。一生擦れるほど強いネタだわこれ」
「……それ、褒めてる?」
「当たり前じゃん! こんなに笑ったの久々。じぇにって才能の塊じゃんね」
笑われているはずなのに、「最高」と言われた事実だけが残る。
彼女に選ばれた。彼女に見てもらえた。それだけでわずかに口元が綻び、喉の奥で笑いを噛み殺す。
「でもさー」
ピコン、と橘のスマホから立て続けに通知音。
「また来た。昨日あんたの動画上げてからDM止まんないんだよね」
そう言って橘が見せてきた画面には知らない名前が並んでいる。
「『この不審者知り合い?』とかさ。ここぞとばかりに疎遠だったやつからも来ててウケる。てか先輩に飲み誘われたから昨日行ってきたわ」
「……へぇ。楽しかった?」
「奢って貰えたし普通に楽しかった」
橘は気にも留めず、素早くタップしながら画面上のメッセージに返信し続ける。
目の前にいるのに、彼女の意識は別の場所にある。
「める」
「んー?」
視線はスマホの画面に向いたまま、軽い返事だけが来た。
「あ、ごめんごめん。あんたにも返すつもりだったけど、あんたのポエム長いし重くてさ。だから後回しにしちゃってた」
「ああ。それは、あるかもね」
「なんだ、自覚あんのね」
橘は一瞬だけこちらを見て笑い、また画面に戻った。
──そこで、黒瀬の中で何かがズレた。
彼女は自分ではない誰かと、自分を介さない時間を過ごしている。
(でも、めるは悪くない)
橘は選んでいないのではなく、分散しているだけだ。
繋がってるからいけない。繋がらなければいい。
──最初から、存在しなければいい。
そうなれば世界は単純になり、必然的に自分だけが残るはずだ。
「……わかったよ、める」
黒瀬は橘の横顔を見つめ、静かに呟いた。
「君を縛ってるそれ、全部切ってあげる」
吹き抜ける風が頬を撫でた。
閉じ込めても逃げられる。追っても欺かれる。半端に想いを見せれば世界は茶化す。
ならば今度は、世界の方を黙らせればいい。
「……ふふ。やっと来たね。この瞬間が」
黒瀬は自作のジャミング装置が発する不吉な音に、恍惚とした表情で耳を傾ける。
それは、ポケットに収まるほどの小さな筐体だった。橘を想って電気街でかき集めた中古部品から組み上げた装置だ。
「僕の愛が強すぎて、世界の通信規格まで歪み始めたみたいだ。電波すら、僕たちの絆を邪魔することはできない」
黒瀬は目を細めて装置をそっと撫で、静かに宣言する。
「作戦名──『愛域遮断』」
【目的:橘める以外の存在の遮断】
【進捗:100%(黒瀬理論)】
「これで君の視界から『余計なもの』は消えた。つまり今の君は、僕以外を選べない」
「違う。全部バグってるだけ。あとあんたの童貞みたいな趣味が学内にモロバレしてんぞ」
背後からの冷え切った声。
振り返ると、そこには腕を組んだ橘がゴミを見るような目で立っていた。
橘も講義中に通信障害に巻き込まれ、ネットの切れたスマホをいじりながら苛立っていた。
そんな中、「屋上に変な装置を持ったイケメンがいる」と友人から聞き、呆れ半分で様子を見に来たのだった。
「める! 来てくれたんだね。……でも、そんなふうに言われるのは心外だな。これは『める観測用広帯域レシーバー』が、大学のWi-Fiと少しだけ熱い抱擁を交わしてしまった副産物で」
「WiFiと衝突したんだろーが。サーバーに何流したの?」
「……結果として、僕が夜通し収集しためるの全方位防衛用教育資料のキャッシュが、共有ネットワークに逆流してしまったようだね。学内のプロキシ設定、甘すぎるよ」
「あんたのオカズ用エロサイトだろそれ。ネットもまともに使えなくて迷惑してんだけど」
「……ごめん」
黒瀬は驚くほどあっさり折れた。
2人の間に流れる妙な沈黙。
夕焼けの光だけが、屋上をやけに穏やかに照らしていた。
「才能だけはあんのに、ほんとアホくさ……」
橘は呆れ果て、教授でも呼んでくるかと踵を返しかけた、その時。
黒瀬が唐突に、シャツのボタンを一つずつ外し始めた。
「でも、好都合だよ。周り、静かだろ? やっと世界が邪魔をやめた」
「何してんの? 野外でおっぱじめる気?」
彼は開け放ったシャツの間から無駄に整った鎖骨と筋肉を西日に晒し、橘に近づいた。
「余計なものが全て消えた今、君はちゃんと僕だけを見る。……なら、もう隠す必要ないよね。見てよ、この身体は君のために作ったんだ」
「タイプじゃねーな。状況も意味わかんねぇし。つーか既に1回見てるから今更感」
「……タイプじゃない? おかしいな。角度の問題か」
「ポーズの検証する前にWi-Fiを直せよ」
「こっちか」と陰影の当たり具合まで調整しようとした瞬間、黒瀬の身体にバチッと強烈な電気が走った。
「痛っっっ……!?」
「感電してて草」
黒瀬の体がびくっと跳ね、足をもつれさせて姿勢を崩す。しかし彼は痛みに冷や汗を流しながら、無理やり体勢を立て直した。
「……問題ない。君が見てるから出力が上がっただけだ」
「感電だろ。あんた今死にかけたよ。てかさっさと服着ろ」
「──すみません」
低い声が、会話をぶった切った。
振り返ると、電波測定器を抱えた教授と警備員が無表情で立っていた。
「現在、電波障害の原因を調査しています。動かないでください」
教授は無言で、黒瀬のポケットにある装置を指差した。
「……君か。本学の学術ネットワークを風俗店案内所に変えたのは」
「…………え?」
黒瀬の口が、わずかに開いたまま止まる。
装置の重低音だけが、場違いに鳴り続けていた。
◇◇
その日の夕方。
大学公式SNSには、前代未聞の告知が掲載された。
『通信障害の原因:特定学生による電波妨害、ならびに不適切コンテンツの全学的流出。当該学生には厳重注意および……』
コメント欄:
『例の猫ポエム男、次は電波ジャックかよww』
『顔面SSRで不審者URなの才能の塊』
『愛の通信工学』
◇◇
屋上での出来事から1時間後。
「……うぅ……っ。これ、指が……」
さっきまで大学全体を混乱に陥れていた張本人は、今や講義室の脚立の上で指を挟んでいた。
教授からの『温情』により、彼は学内の全アクセスポイントから自作デバイスを手動で回収させられているのだった。
「自業自得だろ。早くしろよ盗聴魔。腹減ったから置いてっていいかな」
「盗聴器じゃない。めるの吐息をハイレゾで聴くための高感度集音マイクだよ……! ねぇ、手伝って……っ。挟まったまま、抜けないんだ」
逃げ場のない高さで情けない顔をする男を見上げ、橘はププッと小さく笑う。助ける代わりにスマホを構えた。
カシャ。
「……撮った?」
「うん」
「そんなに僕の顔を保存しておきたいんだね。いいよ。その顔で笑ってくれるなら指くらい、いくらでも犠牲にする」
「じゃあ残り9枚分よろぴく。待ち受けにしよっと」
「最高!」
「てかさあ」
顔を赤らめる黒瀬を無視して、橘はダルそうに言った。
「私の単位どうしてくれんの? ギリギリで出そうと思ってたレポート、結局提出できなかったんだけど」
「……僕、単位の代わりになれる?」
「なるわけねーだろ」
黒瀬はそのまま固まり、しゅんとしたように肩を落とした。
夕焼けは次第に暗くなり始めており、講義室にはまだ異物の痕跡だけが残っている。さっきまで世界を歪めていた何かが、形を失ったまま居座っていた。
とはいえ、橘のレポートは未完成だ。通信が復旧していたところで提出できたかは怪しい。
橘はふっと毒気を抜かれたように笑い、スマホをポケットに放り込んだ。
「まぁいいや。必修じゃないし、単位なんて来年取ればいっか。……ねえ、じぇに。このあと暇?」
「この後……講義の課題とか、めるのデータ収集作業、分析くらいしか」
「ラブホ行こーぜ」
一瞬。
世界から音が消えた。
蛍光灯の唸りも、遠くのざわめきも、すべてが切り離されたように遠のいた。
「──そうか」
その声は、妙に静かだった。
「ついに、僕たちの『儀式』の必要性を理解してくれたんだね」
黒瀬は無駄のない動作で脚立からゆっくりと降りた。挟まっていた指のことなどもう頭にないかのように。
そのまま静かに床へ降り立つと、橘の至近距離まで詰め寄った。
「もう逃げなくていいよ。君が他を見る理由、ちゃんと消してきたから」
ドンッ、と壁際へ追い込み、そのすぐ横に手をついた。狭い講義室の一角で逃げ場が完全に塞がれる。
──距離が近い。
呼吸が触れる距離まで、一切の躊躇なく踏み込まれた。
(……なんだこれ。空気が)
ノリで言っただけ、なんて軽口すら封じる圧。静かに見下ろす黒瀬に表情はなく、ただ、逃がさないと決めた人間の目をしていた。橘の戸惑いも踏み潰すように容赦なく近づく。
あと一歩で、触れる。
その時だった。
『ピコン』
軽快な通知音が静寂を切り裂いた。
『ピコピコピピピコン!』
続けざまに通知音が押し寄せ、世界が一気に現実に引き戻される。
通信が完全に復旧したのだ。
橘はハッとして、至近距離のまま無造作にスマホを覗き込む。
画面には容赦のない速度でメッセージが流れ込んでいた。
『今、ホテル着いたんだけど』
『早く来いよ』
『何してんのー?』
「あ」
橘は黒瀬の腕の隙間からひょいと抜け出した。
「ごめん、先約あったの完全に忘れてた。今の誘い無しで。バイバーイ」
「…………え?」
「また今度な」
てへ、と申し訳なさそうに笑う橘の足音は驚くほど軽やかだった。そのまま彼女は一度も振り返ることなく、夕闇に溶け込むように講義室の外へ消えていった。
黒瀬の腕は、壁に手をついたまま固まっている。
西日はとうに沈み、建物の隙間から入り込む夜風が少し冷たい。
「…………」
何もない空間に落ちる数秒間の静寂。黒瀬はゆっくり腕を下ろすと、小さく首を傾げた。そこにあったはずの体温だけが遅れて消えていく。
誰に向けるでもなく、ぽつりと呟いた。
「今の、成功ルートじゃなかったのか」
その日のうちに、無響大学のWi-Fiは復旧した。




