EX : 猫=めるの分身説
無響大学、昼下がり。
あの一件以来、無響大学には一匹の特別な猫が定住するようになった。
首元に場違いに光るブレスレットを巻いた野良猫。
自販機の裏という絶好のサボりスポットにて、無防備に伸びている猫に橘めるはしゃがみ込む。
「おー、またあんたじゃん。残飯持ってきたぞー」
橘はコンビニで買った鮭弁当の皮を適当にちぎって放った。
「じぇにの貢ぎ物の代わりに、私からの現物支給。……あんた、あいつに毎日ポエム聞かされててよく精神病まないね。尊敬するわ」
猫は気まぐれにそれを咀嚼する。橘は特に感慨もなく、その頭を一度だけ雑に、しかし慣れた手つきでワシャワシャと撫でた。
「じゃーね。食べ過ぎてじぇにみたいに重くなんじゃねーぞ」
それだけ言って、スマホで次のセフレとの約束を取り付けながら立ち去る。その足取りはいつものように軽く、そして冷淡だった。
「……なるほど。そういうことか」
橘が去ってから数秒後。
隣の植え込みがガサッと激しく揺れ、泥と葉っぱにまみれた黒瀬じぇにが這い出してきた。
その瞳には、4K画質を超えるほどの鮮明な狂気が宿っている。
彼は震える手でタブレットを取り出し、猛烈な勢いでログを更新し始めた。
──12:45 対象、外部ユニットへエネルギー供給
──12:46 接触確認──リンク確立
「そうか、めるは直接僕と食事をするのは照れくさくて、この子を『外部胃袋』として機能させているんだね。……なんて高度な愛情表現なんだ」
猫が前足で顔を洗う。
「無理もない、僕たちの絆が可視化された瞬間だからね。事実上の『間接摂取』と断定するよ。カロリーも共有されたはずだ」
黒瀬は静かに、かつ確信に満ちて頷いた。
それから数分後。黒瀬は猫の前で、なぜか地面に顔を近づけた姿勢で固定されていた。
「ねぇ、める」
猫は無視して、念入りに毛繕いを始めた。
「今日は少し、疲れてる?」
猫がふいっとそっぽを向く。単にハエを追っただけの動作だった。
「なるほど。拒絶じゃない、これは『距離調整』だね。近づきすぎると干渉が強くなる。……めるは優しいな」
解釈はすでに宇宙規模で完成していた。彼にとって目の前の猫は、もはや毛皮を被った橘めるの分身体そのものだった。
◇◇
「……める。その子は、僕の『観測点』として配置したはずなのに。どうしてそのポジションを独占しているんだい? ……あとで、そこの体温のログ取らせてよ」
いつの間にか戻ってきた橘が、自販機の横のベンチに腰を下ろしている。彼女の膝の上で、猫がゴロゴロと喉を鳴らしていた。
「こいつ、私に懐いてんだよねー。ほら、お手」
猫が面倒くさそうに前足を橘の手の平に乗せた。黒瀬の中で理論がバグを起こし、新たな真実へと昇華される。
「今、触れたね。この子を介して、僕が贈った『聖域の鍵』に」
「あ、そういやこれGPSなんだっけ。昨日この猫が女子寮の裏にいた時、あんたもセットでついてきて警備員に追われてたのクソワロタ」
黒瀬は、橘の膝の上でこれ以上なくリラックスし、ゴロゴロと喉を鳴らす猫を殺意の混じった羨望で見つめる。
おどおどと手を伸ばそうとする彼に、橘は痺れを切らして猫を押し付けた。
「普通に猫なでるだけだろ。ほら、やってみなよ」
黒瀬は意を決したように、四足歩行でじりじりと猫に近づいた。
そして、猫の耳元で「める……今日の香水、いいね」と戦慄のポエムを囁きながら手を伸ばした、その瞬間。
「シャアッ!」
猫の鋭い爪が黒瀬の鼻先をかすめた。
「……っ! 今の拒絶……なるほど、段階性か。プロトコル通りにいこう。君を壊したくないからね」
「猫パンチ食らってて草。こいつ、ちゃんと賢いじゃん」
◇◇
結局、ブレスレットが回収されることはなかった。
黒瀬にとって、あのブレスレットはもはや「橘めるを追う道具」ではなく、「橘めると世界を繋ぐネットワークのハブ」へと神格化されていたからだ。
夕暮れのキャンパス。
掲示板の前で、黒瀬は「猫と自分の自撮り」を熱心に加工していた。
「見てよ、める。この子の瞳の反射率が、君が僕を蔑む時の輝きと一致したよ。君がどこにいても、ここにいる。この距離なら、まだ壊れない。……ちょうどいいね」
「その写真、学内の不審者情報スレにまた貼られてんぞ」
黒瀬は満足げに、猫の首でチカチカと点滅する青い光を見つめた。
現実は一歩も進んでいないどころか社会的地位は爆下がりしているにも関わらず、彼の中ではすべてがハッピーエンドに向かって爆走していた。




