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黒瀬によれば、これは純愛らしい。  作者: 柊ナツキ
第2章『君に届く、その前に』

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第13話 崖っぷちの人間ルーター

 バン、という音とともに、三号館の屋上へ続く重い鉄扉が勢いよく開いた。


 吹き抜ける風。どんよりとした曇り空。昼休みの大学にあるまじき、サスペンスドラマ終盤の崖っぷちみたいな空気。


 フェンスを背に、黒瀬は立っていた。

 落ちるほど近くはない。けれど、これ以上後ろに引けない男の立ち位置としては完成されている。


 首元には鎖デザインのチョーカー。手にはお馴染みのクリップボード。風に煽られたルーズリーフが、パタパタと物悲しい音を立てていた。


 立っているだけで、曇天とフェンスと風が勝手に共犯になっていた。本人の中身を知らないカメラマンなら、たぶんそのまま撮る。不幸なことに、本人の中身を知っているつきのも撮っている。


「来たんだね、める」


 黒瀬はゆっくり振り返った。

 その瞳には、すべてをやり遂げた人間特有の、静かで濁った満足感があった。


「……じぇに」


 橘は、失効したクーポン画面を犯行の物証みたいに突きつけた。

 凶器は沈黙。被害者は唐揚げ。喪主は橘の胃袋だ。


「唐揚げ、殺したな」


「僕は何も壊していない。君の端末も、学食アプリも、大学の通信インフラも、すべて正常だった」


「じゃあなんで死んでんだよ」


 橘はスマホ画面を黒瀬に向ける。


【このクーポンは終了しました】


 公式アプリが、死亡診断書みたいな顔でそこにいた。


「十一時五十二分に通知来てた。あんた知ってた。なのに黙ってた。死亡推定時刻、十二時十分。供述をどうぞ」


 橘の隣では、烏丸がまだ蕎麦のトレーを持っている。屋上決戦に持ち込む装備としては、だいぶ水分量が多い。


「いつもならさあ。頼んでもない地獄の生活レポート、秒速で送りつけてくるじゃん」


 橘は指を折る。


「今日の唐揚げの衣の厚さ。学食の混雑ピーク。油分摂取前の常温水。左奥の男が三回こっちを見たから座席変更推奨、まで言ってくるくせに。なんで今日に限って静かなんだよ」


 黒瀬は、悲劇のヒロインみたいな顔で微笑んだ。


「僕はただ、言わなかった。それだけだよ」


 黒瀬の犯行は至ってシンプル。本人が本人の口を閉じただけである。

 ただしその口はここ数日、橘める専用の人力Wi-Fiとしてあらゆる通知を勝手に配送していた。


 純粋な沈黙。物理的サイレント。

 最低最悪の便利家電による、精神的兵糧攻めである。


「私がアプリ見なかったのは私のミス。そこは認める」


 橘はスマホを握りしめた。


「でも、あんたが黙っていい理由にはならない。私の唐揚げを、私より先に処理すんな」


「める。君は音に疲れていた」


 唐揚げの葬儀で音響の話を始める男がいる。

 目の前に。


「すみれさんの声は軽すぎる。佐伯まさきの誘いは短すぎる。学食アプリの通知は、君を動かすのが早すぎる。烏丸れいぶんは、君が困ったときに呼べる場所にいすぎる」


 烏丸は蕎麦のトレーを持ったまま、少しだけ目を伏せた。呼ばれたら来る自覚がある男の沈黙だった。


「全部、僕より先に君へ届く音だった。ピコン、と鳴れば君は画面を見る。誰かの名前を見る。予定を見る。食べ物を見る。僕がどれだけ言葉を尽くしても、たった一回の通知音に負ける」


「通知音に敗北した男、大学史に残るぞ」


「油分過多も、混雑も、理由としては本当だよ。でも中心はそこじゃない。あの通知が鳴れば、君は僕じゃなく唐揚げへ走る。それが嫌だった」


 黒瀬の声は静かだった。


 声だけ聞けば、献身だった。顔だけ見れば、祈りだった。

 やったことは、唐揚げクーポンの未配送だった。


 愛と迷惑の境界線は、いま学食アプリの通知欄で死んでいる。


「君が見る前の場所に、僕がいればいい。君が選ぶ前に、僕がノイズを減らせばいい。君に届く前に、君の心に触れる前に、僕が受け取って、整えて、必要なものだけを届ける」


 黒瀬はクリップボードを胸元に掲げた。


「作戦名──『静音経路サイレント・ルート』」


【目的:橘めるへの外部通知整理】

【例外:黒瀬じぇに(黒瀬理論)】


 そこにはやたら整った字でメモが書かれていた。


【方式:黒瀬じぇにを手前の経路に置く】

【処理:外部誘導の選別/高刺激情報の保持】

【対象:DM、学食アプリ、友人連絡、外部接続】

【未配送:唐揚げ盛り放題クーポン】

【結果:失効】


 烏丸は、蕎麦のトレーを持ったまま少しだけ黙った。

 たぶん、どこから突っ込めば一番被害が少ないかを計算している顔だった。


「……黒瀬さん。これは補助ではありません。判断環境の操作です」


「元彼としての権限で、倫理の話をしているの?」


「いえ。経路の話です。信頼できない経路は、便利でも危険です」


 黒瀬は、クリップボードのページを一枚めくった。

 メモの下の方には、さらに細かい備考欄があった。


【学食アプリ:唐揚げ盛り放題クーポン】

【初回告知:八時三十分】

【最終通知:十一時五十二分】

【対象:橘める】

【判定:外部誘導/混雑高/油分過多/興奮値上昇】

【処理:保持】

【備考:今日のめるは、静かな方が楽】


 橘は一瞬、言葉を失った。間違っていないところがあったからだ。


 黒瀬依存。認めたくはないが、その脆弱性は確かにあった。

 この数日は実際に楽だった。通知を開かなくても、黒瀬が勝手に言う。課題締切も、教室変更も、すみれの集合場所も、学食の混雑も、全部勝手に届く。うるさくて気持ち悪くて最悪で、でも便利だった。


 だから橘は、自分でアプリを開かなかった。

 通知欄を見なかった。見なくても、世界は勝手に届くと思った。

 そして唐揚げは死んだ。


「……ムカつく」


 楽だった事実まで見られていることが、一番腹立たしかった。


「めっちゃムカつく。あんたにもムカつくし、自分にもムカつく。私は楽したい。便利なものも好き。唐揚げも好き。そこは認める」


 黒瀬は何も言わず、ただ橘を見ていた。

 橘はスマホを握りしめる。


「でも、私の代わりに選ぶな」


 黒瀬の表情が止まる。


「唐揚げを逃すなら、私が自分で逃す。あんたに黙って殺される筋合いはない」


「める」


 黒瀬は、なぜか少しだけ嬉しそうに息を吐いた。


「……でも、君は来てくれた」


「は?」


「君は通知を見なかった。アプリも開かなかった。でも僕の沈黙には気づいた。そしてここまで来た。僕が止めた情報は、君を下へ走らせなかった。その代わり、君は僕のところへ来た」


 黒瀬はクリップボードを抱きしめるように持ち直した。


「通知ではなく、僕へ。アプリではなく、僕へ。学食ではなく、屋上へ。めるは今、僕のところまで届いた」


 その顔には、犯人が自白したあと、なぜか勝利を確信している時の光があった。


「最終配送物はクーポンじゃない。君の注意だよ」


 屋上の空気が止まった。


 つきのが「うわ」と言った。

 烏丸の表情から、静かに温度が消えた。


 黒瀬は、橘にクリップボードを差し出した。


「配送完了。受領確認を」


 紙の一番下には、署名欄があった。


【受領者署名:   】


 つきのが、無言でスマホを構え直す。

 烏丸は蕎麦のトレーを持ったまま、横に半歩ずれた。提出導線を空けたのだろう。


 橘は数秒だけ黙った。

 それからペンを取り、署名欄に手短に書いた。そして黒瀬に突きつける。


「受取サインだと思った? 被害届だよ」


【受領者署名:橘める】

【受領物:なし】

【被害:唐揚げ一件】

【責任者:黒瀬じぇに】


 つきのが吹き出した。

 烏丸が蕎麦のトレーを持ったまま、笑わずに見ている。これを証跡として扱っていいのか迷っているのだろう。


 黒瀬は真顔で固まった。


「……え」


「荷物を届けずに客だけ営業所へ呼び出すな。しかも荷物は死亡済み。ただの苦情来店だよ」


 黒瀬は少しだけ目を伏せた。それでも、完全には折れていない。それどころかまた何かを学習している顔だった。


「……でも、提出先は僕なんだね」


「は?」


「君は、損害の原因として僕の名前を書いた。加害者としてでも君の記録に残れるなら、僕はまだ君の外側じゃない」


 黒瀬の声は甘かった。

 甘すぎて、もはや砂糖ではない。解約窓口で永遠に流れる保留音を煮詰めた何かだった。


「被害届は、関係の否定じゃない。関係があったことの証明だよ」


 橘は一歩近づいた。


「じぇに。その前向きさ、災害指定受けろ」


 黒瀬が黙った。


「あんた、便利だったよ。そこは認める」


 黒瀬の目が、ほんの少しだけ揺れる。


「でも家電としては失格。自己判断で弁当隠す電子レンジは捨てるだろ」


 黒瀬は何も言わずに固まった。

 以前は「家電」と言われれば喜んだ。

 でも今は違う。便利だったものが、信用できなくなったと言われている。


 拒絶なら愛に変換できた。怒りなら反応として保存できた。被害届でさえ関係の証明にできた。

 けれど「便利だったのに信用できない」は、保存先がなかったらしい。


 数秒遅れて、黒瀬が言った。


「……家電は、壊れたら捨てられるんだね」


「本採用目指すんじゃなかったのかよ」


「……覚えてたんだ」


「今そこをログインボーナスにすんな」


 ピコン。

 その時、つきののポケットから、あまりにも間の抜けた通知音が鳴った。


 屋上の空気に、下界の騒音が割り込んでくる。


「あ、すみれちゃんから」


 つきのはスマホを見て、感情を完全に消した声で読み上げた。


「『義援肉、現在四個。唐揚げ権、回復傾向』」


「何その医療現場みたいな報告!」


「『誰かポテトも置いた。これは違う』」


「ポテト置いたやつ誰だ。ありがてぇけど今は違う! 完全にジャガイモ。鳥類から一歩も動くなって言ってるだろ!」


「『見知らぬ男子学生から杏仁豆腐も供えられた。これはワイロの可能性あり』」


「誰だよ杏仁豆腐! ありがたいけど今じゃない。唐揚げ権の回復運動に乳白色の甘味を混ぜるな」


「『女王、早く戻れ。油が固まる』……以上」


 つきのはスマホを閉じ、静かに橘を見た。


「めるちゃん、下界の民があなたの唐揚げ権を守るために油の防衛線を構築してるよ。ポテトと杏仁豆腐というノイズを抱えながら」


「みんな……!」


 橘の目に、少しだけ熱いものが込み上げた。

 感動ではない。空腹と怒りと、四個の義援肉を失うわけにはいかないという生物としての危機感だった。


 黒瀬はその様子を見て小さく息を吐いた。


「めるの世界はまだうるさいね」


「あんたが下げようとした音量、下界が肉で殴り返してきたんだよ」


 烏丸が黒瀬を見て静かに言った。


「黒瀬さん、回線が増えてます。鯉塚さん、吉田さん、学食の学生、杏仁豆腐の人。少なくとも四経路です」


「……何が言いたい」


「人力Wi-Fiの輻輳です」


「最悪の専門用語やめろ、れいぶん」


 黒瀬はクリップボードを抱えたまま、動かなかった。紙の端だけが指の力で少し曲がっている。


 まだ犯行を設計ミスだと思っている開発者の顔をしていた。


「……なるほど。僕だけでは帯域が足りない」


「反省の方向性がまだ回線なんだよ」


 橘は黒瀬の手からクリップボードを奪った。


「下。着いて来い、この情報隠蔽犯」


「同行していいってこと?」


「違う。犯人立ち会い」


 橘が屋上の扉へ向かう。

 黒瀬は一秒だけ遅れて、当たり前みたいについてきた。


 首輪を引かれているわけではない。ただ、首元の鎖デザインのチョーカーのせいで、見た目はだいたい同じだった。


 つきのがその後ろで、満足げにスマホを下ろす。


「いい画だった。完全に『崖っぷちの人間ルーター』。副題は『ポテトは違う』」


「やめろ。ポテトに罪はない」


 烏丸は蕎麦のトレーを持ったまま、静かについてくる。


「めるさん。念のため、今後は通知設定を戻したうえで、黒瀬さん経由の情報は参考値として扱うことをおすすめします。信頼できないセンサーです」


 橘は、奪ったクリップボードを小脇に抱えたまま振り返った。


「聞いたか、信頼できないセンサー」


「でも、君は僕を参照する」


「エラー吐いたら叩く」


「物理保守だね」


「暴力をIT用語で包むな」


 階段の向こうから、すみれの声が聞こえてきた。


「めるシー! 義援肉、五個になった! あと誰か春巻き置いたー!」


「春巻きはもっと違うだろ!」


 橘の声が階段室に響いた。


 黒瀬は連行されながら、なぜか少しだけ穏やかな顔をしていた。

 捕まっているからではない。たぶん、まだ参照されているからだ。


 ポテトも杏仁豆腐も春巻きも誤配送され続けている。


 橘はクリップボードを小脇に抱えたまま階段を駆け下りた。

 信頼できない人間ルーターは、その半歩後ろを満足そうについてきた。

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― 新着の感想 ―
「便利だったのに信用できない」は、保存先がなかったわけか。 黒瀬君に初めて精神ダメージ行ったかもしれない。
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