第12話 唐揚げアポカリプス
黒瀬が人力Wi-Fiを名乗り始めてから、数日が経っていた。
そして、その運用は本当に定着してしまった。
「じぇに、今日の教室と課題締切」
「二号館二〇三、課題は二十三時五十九分。ついでに昼の学食混雑ピークは十二時八分。……める、僕のことホーム画面に置いた?」
「置くわけねぇだろ。勝手にバックグラウンドで動いたら初期化するぞ。……でも助かる」
最悪だった。
最悪なのに、便利だった。
人間としてはだいぶ問題があるが、人型通知装置としての性能だけは高かった。
教室変更は外さない。提出期限も落とさない。学食の混雑予測もだいたい当たる。橘が面倒くさがって流しそうな連絡ほど、勝手に優先度を上げてくる。
人権を与えたくない家電みたいだった。
黒瀬を一日完全に無視すると、橘は普通に小レポートを出し忘れる。
それが敗北なのか、省エネなのかは考えないことにした。
そして金曜日。
唐揚げ盛り放題クーポン、最終日である。
朝の時点で、橘の機嫌はかなりよかった。
大学生活において、単位、睡眠、人間関係、出席、財布の残高はすべて不安定である。だが、唐揚げだけは裏切らない。
二限終了のチャイムが鳴ったとき、時計は午後十二時五分を指していた。
何人かの学生が、露骨に荷物をまとめる速度を上げている。椅子を引く音、スマホを掴む音、誰かが「走る?」と小声で言う声。学食方面へ向かう気配が、廊下の先からもう立ち上がっていた。
橘はそれを見て、鼻で笑った。
「焦りすぎ」
勝者は走らない。
勝者はまずトイレに行く。
橘は優雅に廊下を曲がり、女子トイレの鏡の前で前髪を整えた。今日の自分は、唐揚げに会う顔をしている。
完璧だった。
今日という日のために、今週の眠い講義を耐え抜いた。教授の声が睡眠導入アプリになっても、魂だけは唐揚げへ向かっていた。
そのとき、スマホがポケットで軽く震えた。
ピコン。
橘は一瞬だけ手を止めたが、すぐにリップを塗り直した。
「どうせ昼に見るし」
重要なことなら黒瀬が勝手に言ってくる。あの男は頼んでもいない情報ほど丁寧に届ける。唐揚げ盛り放題の最終日を見落とすような男ではない。
だから、橘はスマホを見なかった。
そして勝者の顔で学食へ向かった。
学食に入った瞬間、空気の密度がおかしいことに気づく。
油。圧倒的な油。
学食全体の換気扇が、己の限界を悟って遺書を書き始めそうなほど、衣と肉汁の匂いが充満していた。
食券機の前には、限定品発売日の転売ヤーみたいな熱量をまとった学生たちが列を作り、トレーを持った者たちは誰も彼も浮かれている。
どのテーブルにも築かれている、茶色い山。
世界が、揚げ物を中心に回っていた。
「お待たせー。いや今日、学食の熱気やば──」
言葉が喉の奥で止まった。
席を確保していたすみれとつきのの前に、あまりにも凄絶な勝者の皿が置かれていた。
まず、すみれのトレーである。
そこには、重力と皿の縁を無視して無数の唐揚げが乱雑に積み上げられていた。
料理という規模を逸脱している。すみれのトレー上に唐揚げ自治区が建国されていた。
「めるシー遅い! あたしもう待ちきれなくて建国しちゃった! めちゃんこ盛れてる、映え的な意味で」
「唐揚げ王国作ってんじゃん」
その横、つきのの皿はすみれとは別方向に怖かった。
皿の円周と直径を完璧に計算されたかのように等間隔で並んでいる。寸分の狂いもなく整列した茶色い立体が、無言でこちらを見つめていた。
量より配置が怖い。
兵馬俑である。
「こちらは量より規律だよ。並べると肉の意思を感じる」
「感じたくない意思を可視化しないでほしい」
勢いのすみれ。
統率のつきの。
橘は引きつった笑みのまま、すみれの自治区とつきのの兵馬俑を交互に見た。
「ちょっと待って。今日の盛り放題って、そんな富豪みたいな真似できたっけ?」
すみれは唐揚げ自治区から一つ領土をつまみ、口に放り込みながら、心底不思議そうに目を丸くした。
「え? 何言ってんの、めるシー。今日だけ特別の、ゴールド会員限定ギガ盛りタイムだったんよ。十一時五十分から十二時十分までの二十分だけ解放された隠しバグみたいなイベント。あたし、講義終わった瞬間走ったもん。女として」
「女としての走り方ではないよ、すみれちゃん」
橘は二人の会話に乾いた笑いをこぼしながら、心臓は嫌な音を立てていた。
十一時五十分から、十二時十分まで。
二十分間限定。
すみれの言い方に悪気はない。
橘は、震える指でスマホを取り出した。画面ロックを解除し、学食アプリのアイコンをタップする。
アプリは恐ろしいほど普通に開いた。
通信エラーもない。黒瀬の顔面が右下から生えることもない。本日の日替わりメニューも出る。保有ポイントも出る。残高もきっちり正常に表示されている。
何も壊れていない。何も狂っていない。システムが仕様通りに、完璧に動いている。
だからこそ最悪だった。
画面の中央、かつて「盛り放題クーポン」のバナーがあったはずの場所には、飾り気のない文字だけが静かに横たわっていた。
【このクーポンは終了しました】
公式アプリが、淡々と終わりを告げていた。
橘の口から、魂の抜けた声が漏れる。
「……死んだ」
「めるシー、どしたの?」
「唐揚げが、死んだ」
「唐揚げなら目の前の自治区に山ほどあるよ?」
「違う」
橘はスマホを握りしめたまま、すみれの皿を見た。
そこには勝者の唐揚げがある。だがそれは他国の領土だ。
「私の胃に入るはずだった唐揚げが、システムの藻屑となって死んだの」
すみれが橘の肩越しに画面を覗き込み、口元まで運んでいた唐揚げをそっと皿へ戻した。
「……ごめん、めるシー。今、遺族の前で食べてた」
橘は画面を更新した。
クーポン終了。
タスクを切ってもう一度開く。
クーポン終了。
スマホを軽く振って斜め四十五度に傾けてみる。
クーポン終了。
「……いや、待って。これ特定の角度でスマホ殴ったら、内部クロックがバグって時間が数分前に戻ったりしない? 世界線変わるとかないの?」
「昔のテレビでもありえないよ、めるちゃん」
「医者! 誰か唐揚げの医者いませんか! めるシーの脳の衣が完全に焦げ付いてる!」
すみれが即座に馬鹿の側へハンドルを全切りし、周囲に向かって叫び始める。
その横で、つきのは極めて冷静に、兵馬俑の一角を箸でつまみながら言った。
「諦めなよ。そもそも唐揚げは元から死んでるでしょ。ただ揚げ直しになるだけだよ」
「葬式中に最も乾いた火葬のセリフ吐くな!」
橘は震える手でスマホの時刻を見た。
十二時十一分。
「十二時、十一分」
「一分」と、つきのが冷たく補足する。
「一分……一分で、唐揚げが死んだ」
つきのは兵馬俑の中でも最も端正な形をした唐揚げを一つ、橘の目の前に差し出した。
「一分遅れたらもう戻らない。……不可逆だね」
「その言葉、今使うな!」
居酒屋で黒瀬が唐揚げレモンに対して放った、あの忌々しい概念が、今度は橘自身の昼飯の尊厳を破壊する形で脳内に突き刺さった。
笑いと油の匂いの中で、橘の錯乱は急に冷えていった。
なぜ自分は朝、アプリを開かなかったのか。
──黒瀬が、何も言わなかったからだ。
黒瀬が言わないなら、まだ間に合う。重要な情報ならあいつが勝手に届けてくる。
いつの間にか橘は、自分で確認すべきことまで黒瀬が口にするかどうかで判断していた。
黒瀬じぇにという男は最悪だ。
だがその便利さに負けていたのは、紛れもない自分だった。
「……じぇに」
橘の拳が、みしりと音を立てる。
その名前を口にした瞬間、もう一つの違和感がはっきりした。
いない。
いつもなら、唐揚げ列の長さ、油の酸化度、学食のおばちゃんの機嫌、ついでに「めるの歩幅が朝より三センチ荒い」みたいな要らない情報まで、呼んでもいないのに常温水と一緒に持ってくる男が、今日に限っていない。
いつもならこういう時ほど黒瀬はいる。それなのに、今日に限っていない。
その不在そのものが、あの男がすべてを知っていて意図的に黙っていたという答えみたいで、橘の怒りは限界突破した。
「れいぶん」
「呼びましたか、めるさん」
「いたのかよ」
橘が振り向くと、烏丸が立っていた。
相変わらず静かな顔で、片手にスマホ、もう片手に蕎麦を持っている。
唐揚げの覇権が学食全体を支配する中、彼だけが冷たい麺類を携えていた。宗派が違った。
「昼食です」
「この唐揚げ戦争の中で蕎麦?」
「すみません。油が少し重くて」
「今いちばん言っちゃいけない健康」
烏丸は申し訳なさそうに蕎麦のトレーを少し避け、橘のスマホを確認した。箸はまだ割っていない。相変わらず礼儀正しい。
「端末を見てもいいですか」
「見て。今すぐクーポン蘇生させて。人工呼吸でも復旧でもなんでもいいから生き返らせて」
「……復旧ではなく、検死ですね」
烏丸は数秒、通知履歴とアプリの表示を確認した。慌てる様子はない。だが、目だけは静かに細くなる。
「端末は正常です。学食アプリも正常に動いています。クーポンは終了しています。以前の補助設定も確認しましたが、今回の件には関係ありません」
「そんな……」
「通知は来ていましたよ」
橘の顔が止まった。
「来てた?」
「はい。十一時五十二分に、めるさんの端末へ正常に到達しています」
「じゃあ、なんで」
「──めるさんが見ていません」
ぐさり、と論理的な刃が橘の胸に入る。ただの事実だからこそ余計に痛い。
烏丸は通知履歴を見てから、橘へやんわりと視線を向けた。責めてはいない。ただ、「前にも言いましたよね」とは思っている顔だった。
「……何。言いたいことあるなら言えよ」
「便利なものは、拒否しにくくなると……以前、お伝えしました」
「嫌な再放送やめろ」
「今回は唐揚げ付きです」
「最悪の特典映像きたな」
「それと、黒瀬さんがその通知の存在を把握しながら、めるさんに届けなかった可能性は高いです」
「根拠は」
「金曜の唐揚げ盛り放題は、以前、黒瀬さんの配送表に記載されていました。優先度は最上位です。少なくとも、知らなかったとは考えにくいです」
橘の目から、完全に光が消えた。
「……あいつ、知ってて黙ってたな。唐揚げを保留して、人質に取った上で死なせやがった」
すみれが、唐揚げ自治区の前で神妙な顔をした。
「めるシー。あたし、ここに残る」
「何で急に戦地の顔してんの」
「女王が上で猫男を殴ってる間、あたしが下で唐揚げ戦線を守る。全人類のトレーから肉をかき集めて、めるシーの胃袋を救うための義援肉を調達する。唐揚げ権、あたしが回復させるよ!」
「唐揚げ権って何」
「人間が人間として昼に唐揚げを食べる権利」
すみれはフリルの袖をまくり、真剣な顔で周囲を見回した。完全に戦場の補給部隊だった。
その横で、つきのがすっと立ち上がる。
「私は行くよ、めるちゃん。記録係として見過ごせない」
「最悪の同行理由だな。人の地獄で同人誌を書くな」
「素材が屋上へ走っていくのを逃すのは不自然」
つきのは淡々と言いながら、すみれの自治区から唐揚げを一つ取った。
ぱくり。
「今、食った?」
「義援肉の品質確認」
「泥棒の言い訳が検査機関なんだよ」
すみれが親指を立てた。
「つきの氏、上の実況よろしく。こっちは義援肉、現在一個マイナスから始める」
「幸先悪いね」
烏丸は蕎麦のトレーを見下ろし、少し困った顔をした。
「あの、私はこの蕎麦を」
「持ってこい」
「伸びます」
「私の唐揚げは死んだ。蕎麦の寿命くらい背負え」
「分かりました」
「分かるな、冗談だから」
烏丸は蕎麦を持ったまま、橘の後ろについた。片手に蕎麦、片手にスマホ。死亡確認係としてはあまりにも生活感が強い。
橘はスマホを握りしめた。
画面にはまだ、無慈悲な文字が残っている。
【このクーポンは終了しました】
終わった、ではない。
終わらされたのだ。
食券機の電子音も、勝者たちの笑い声も、すみれが始めた義援肉交渉の声も、つきのがカメラを起動する音も、全部まとめて背中に押し流されていく。
「じぇにはどこ」
橘が聞くと、烏丸は答えた。
「三号館の屋上にいると思います」
「何で分かるの」
「黒瀬さんがいそうな場所だからです」
「雑な推理なのに精度高そうなのやめろ」
「あと、先ほどから三号館を見ている学生が多いです」
「それもう犯人の指紋だろ」
隣では、すみれの声が学食に響いた。
「義援肉お願いします! 女王の唐揚げ権が侵害されました! 一個から受け付けてます!」
「おいやめろ! 学食全体に私の胃袋を公開するな!」
「これは災害支援だから!」
「誰が被災地だ!」
「ポテトは違います! でもありがとう!」
周囲の学生がざわつき始めた。
「唐揚げ権って何?」
「あれ橘さんじゃね?」
「猫男に唐揚げ殺されたらしい」
「よかったね、めるちゃん。もう義援肉二個集まってるよ。うち一個はさっき私が食べた分の補填らしい」
「あんたの罪を下界が背負ってるんだよ!」
階段へ向かう途中、烏丸が静かに言った。
「めるさん。黒瀬さんは、たぶん悪意では動いていません」
「知ってる」
橘は足を止めずに答えた。
「悪意じゃなくてこれだから、腹立つんだろ」
昼休みの喧騒が遠ざかっていく。
食券機の音も、学生たちの笑い声も、油の匂いも、一分前に息絶えた唐揚げ盛り放題クーポンも。
全部を置き去りにして、橘めるは三号館の屋上へ向かった。
これは、恋愛の修羅場ではない。
唐揚げの復権である。




