第14話 唐揚げ一個で恩赦は出ない
橘たちが学食に戻ったとき、そこに広がっていたのは平穏な昼休みの光景などではなかった。
平穏は死んでいた。
死因は、肉である。
「そこ、もっと茶色を敷き詰めて! 女王の栄養素が底を突いてるの! ハンバーグは外周! 杏仁豆腐は避難区域! 今は鳥類を中心に世界を再建して!」
学食のテーブルを不法占拠し、すみれが声量だけで拡声器の仕事をしていた。
彼女が猛烈な勢いで指揮を執る卓の上には、もはや昼食というより災害支援物資に近い『義援肉キャンプ』が設営されている。
唐揚げを中心に、ハンバーグの切れ端、誰かが分けた豚生姜焼き、そしてなぜか杏仁豆腐が並んでいた。茶色い地層の中にひとつだけ乳白色の異物がある。
周囲の席には、肉を一品ずつ供出した学生たちがまだ残っていた。半分は善意で、もう半分は唐揚げ一個からここまで発展した事件の結末を見届けたい野次馬である。
完全なる支援だった。
ただ、支援の方向が胃袋にしか向いていない。
「いや、肉多っ! 私の胃袋で畜産業始める気? ……まあ、出してくれたのはありがと。被災地認定は取り消しといて」
周囲の学生が軽く手を上げる。
「橘さんって礼とか言うんだ」
「肉にだけは敬虔らしい」
橘は周囲へ雑に頭を下げながら、横にいたつきのの盆からフライドポテトを一本盗み食いした。
つきのは「あ、私の主食が」と呟きつつ、すぐさまノートに何かを記録する。
『橘、義援肉に紛れて塩分を強奪』
「窃盗じゃなくて、さっきあんたが食った唐揚げの現物精算な」
「女王、これは義援肉! 侵害された唐揚げ権を、周囲の善意で現物補償してるの。みんな一品ずつ出してくれたから、遠慮なく食べな!」
「唐揚げ権、現物支給で一部勝訴。食うわ」
その横では、なぜかPC相談室からそのまま物理的に巻き込まれた烏丸が、自身の前に置かれた蕎麦を見つめていた。
蕎麦は伸びていた。はっきりと、手遅れだった。
「……私の蕎麦が、二度と戻れない場所へ行きました」
「今日、死ぬ食べ物多いな」
「持ってきたのは私なので、仕方ありません」
烏丸は本気で蕎麦に申し訳なさそうな顔をしている。
その静かな悲劇をよそに、学食の注文カウンターでは、一人の男が国際会議みたいな顔で立っていた。
黒瀬である。
彼は学食のおばちゃんに対し、アクリルガラス越しに狂気的な真剣さで詰め寄っていた。
「このクーポンは、先ほどめるの目の前で電子の藻屑となった悲劇の聖遺物です。僕の全財産、および今後の研究成果と引き換えに、この失効判定をロールバックし、買い戻したい」
「はいはい、クーポン失効の買い戻しね。そんな神がかったシステムないから、普通に二個追加購入で200円になります」
おばちゃんは一切バグらなかった。昼の学食で唐揚げを揚げる人間は、顔面の良い狂気をいちいち鑑賞している暇がない。
「処理が早くて助かる」
「あとお姉ちゃん、これ形崩れしちゃったからサービス」
おばちゃんは黒瀬の狂気を一ミリも拾わず、橘の方へ形の崩れた唐揚げを差し出した。
橘はその唐揚げを凝視した。
衣は派手に崩れている。端の方が欠けていて、完璧な唐揚げというよりは歴戦の兵士みたいだった。
「次からはクーポンくらい自分で見な。人に任せても、食べ物は待ってくれないよ」
添えられたおばちゃんの正論だけはあまりにも形が綺麗だった。
橘は少しだけ胃に刺さりつつも、なんとか笑みを浮かべて皿を受け取る。
「衣ボロボロなのに正論だけは完成品じゃん。ありがとうございます!」
おばちゃんは笑って、追加の唐揚げを手早く用意し始めた。
失効したクーポンは戻らない。だが追加購入とおまけは存在する。そういう雑な救済があるのが大学の良いところだ。
「女王、席あっち。義援肉中央! 杏仁豆腐は端! つきの氏、記録係! れいぶん氏、蕎麦の延命措置! 黒瀬くんは壁側!」
すみれが両手を広げて、テーブル周辺の人間をさばき始めた。
「壁側?」
黒瀬が静かに聞き返す。
「そう、壁側。通路側に置くと猫男の見物客で人が詰まるんよ。あと人力Wi-Fiが廊下に干渉すると学食の導線が死ぬ!」
「僕は導線を殺していない」
「唐揚げは死んだだろ」
橘が言うと、黒瀬は黙った。その一言だけはまだ刺さるらしい。
その横で、学食のウォーターサーバーに新しい張り紙が貼られていた。
『常温水はこちらです。冷水は橘めるの胃壁、および僕の精神に負荷をかけます。
──胃のSPより』
つきのが張り紙を見て淡々と言った。
「インフラに推しの概念を持ち込んだ男、なかなか珍しいよ。次に私物化するのは酸素かな?」
「僕は水を私物化したわけではない。ただ、めるの胃に適した温度帯を──」
「じぇに。弁明は壁に言っとけ」
「壁は返事をしないよ」
「今の私よりは聞き上手だろ」
つきのはいつの間にか、文芸部の共有ファイルに新しい見出しを追加していた。
『崖っぷちの人間ルーター、学食に再出没』
副題:唐揚げは死に、通知だけが残った。
「記事にすんの早っ。速報のまま風化させろよ」
「記録は鮮度が命だから。唐揚げは死んだけど見出しは生きがいいよ」
つきのが言った直後、遮るように上から目線の不快な敬語が頭上から降ってきた。
「おや、随分と賑やかな公共空間ですね。学食というよりは新種の動物園でしょうか」
そこに立っていたのは、仕立ての良い高級シャツをシワ一つなく着こなした文芸部部長、篠原ともきだった。
金持ちの家の玄関に置いてある、用途の分からない無駄に高い壺みたいな男である。
篠原はテーブルを一瞥し、義援肉キャンプ、伸びた蕎麦、壁側の黒瀬、常温水の張り紙を順番に見た。
「既存の共有ファイルに実録怪談が増えていたので確認に来ましたが、現場の方が文章より品位を欠いていますね」
「開口一番いやな観光レビュー出すな」
「怪異本人までいらっしゃるとは、記録の信頼性だけは高そうです」
篠原は黒瀬へ視線を移した。
「すみれさんの配置案には賛成です。黒瀬さんは壁側へ。自由席とは、他人の生活まで自由に配置してよい制度ではありませんので」
「僕は配置していない」
「通知を選別し、導線を整え、常温水へ誘導しておいて、その主張は少々前衛的ですね」
篠原は黒瀬の隣、通路側の空席へ優雅に腰を下ろした。これで黒瀬の横には壁と篠原しかいない。それでも斜め向かいの橘だけは、きっちり視界に収めている。
「橘さんの通知欄は、あなたの庭園ではありません。剪定の腕を披露するなら、まずご自分の鉢植えから始めましょう」
角のない微笑みだった。金持ちの嫌味は角がない分、何にも引っかからず奥まで入る。
黒瀬は無表情のまま反論せずにいる。実際は、たぶん橘を観測しているだけだ。
篠原は自身の鞄から、学内プリンターで刷ってきたらしい一枚の紙を取り出した。
「黒瀬さん、事実関係を簡潔に整えましたので、音読してください。見出しはつきのさんのものを採用しました。本文はこちらで整えています」
『崖っぷちの人間ルーター、学食に再出没』
第二部:唐揚げ宗教殉職編
特別付録:受領サインは被害届
「いつの間に第二部始まってんだよ、打ち切れ」
「文芸部の仕事ですから」
「それ仕事でいいんだ。廃部しろよ」
黒瀬は無言で胸ポケットに手を伸ばし、スマホを取り出そうとした。
しかし篠原はその手首を紙で軽く制した。
「黒瀬さん、素材に編集権限はありません」
「僕は素材ではない。君も、めるが笑う形に僕を編集しているだろ」
篠原の指が紙の端で一瞬だけ止まった。
「……そこは否定しません。ただし笑うかどうかは橘さんが決めます。僕は原文も選択肢も隠していませんので」
「都合のいい違いだね」
「今回の争点としては決定的な違いです。訂正は脚注で受け付けますので、さっそく本文をどうぞ」
篠原は紙を横向きに差し出し、両端を持つよう目で促した。
黒瀬は真顔のまま、左右の端をそれぞれ掴んだ。これならスマホにも触れず、勝手な追記もできない。何もできないだろう、と橘は思った。
黒瀬の、内容だけ最悪な読み聞かせが始まる。
「──第一条。個人の通知欄は黒瀬じぇにの私設検問所ではない」
「待って、内容終わってるのにイケボで草」
悪意の塊みたいな本文が、黒瀬の声を通すだけで格調高く聞こえる。反省文というより、高級オーディオブックの不具合だった。
「第二条。変質者に利便性を付与しても分類は変わらない。付加価値だけを切り取って提出しても単位は出ない」
隣の席の一年生が、唐揚げを持ったまま小声で言った。
「あれ情報倫理の補講?」
「恋愛の追試らしい」
「恋愛って単位落とすとああなるのか」
「再履修したくねぇ……」
ピコン。
橘のスマホが短く震えた。文芸部の共有ファイルに、新しいコメントが追加されている。
【コメント:便利だった事実は脚注に残してください】
「……は?」
黒瀬はまだ紙を両手で持っている。指一本動かしていない。
橘はスマホを見て、黒瀬を見て、最後にもう一度スマホを見た。
「どうやった……? 超能力?」
「第三条。口で『ピコン』と鳴る者は、大学に妖怪登録を済ませること。妖怪ではなく通知媒体です。第四条──」
「待て。今の本文?」
ピコン。
【コメント:妖怪ではなく通知媒体です】
「現行犯じゃねぇか!」
黒瀬の胸ポケットで端末の画面が小さく点灯している。
つきのが共有ファイルを覗き込み、すぐに手を叩いて笑った。
「あはは! 音声入力だねこれ! 両手を塞いでも口が空いてた」
以前、橘が黒瀬へリンクを共有した際のコメント権限がまだ共有ファイルに残っていたらしい。消し忘れた合鍵の使用目的としてはかなりしょうもない。
「画面に居住したのではなく駐在です。送信」
「拘束突破してんじゃん。手を塞いでも口が残るタイプの怪異だろ」
「反省文を読みながら反省文に反論するの、往生際だけは文芸的だよね」
「褒めるな、つきの。褒めるとこいつの狂気が育つ」
篠原は表情を変えず、黒瀬の胸ポケットへ一瞥を送った。
「仕方ありません。このまま発話を、せめて社会的に無害な用途へ誘導しましょう」
「無害な方向ってなんだよ」
「懺悔文芸です」
「知らないジャンルをさも古典みたいに堂々と出すな」
橘は席につき、目の前に置かれた唐揚げの皿を見た。
黒瀬が追加で買い直した分と、おばちゃんの形崩れサービスが雑に同じ皿へ盛られている。義援肉キャンプから流れ着いたらしいレモンも、皿の端に一切れだけ残っていた。
その中にひとつ、特に状態の良い唐揚げがある。衣が立っていて油切れも悪くない。
見た瞬間、橘は居酒屋で黒瀬が選んだ、右奥の唐揚げを思い出した。
腹が立つほど当たりだった。
思い出したくないのに、味覚だけは裏切らない。人間は嘘をつく。通知は見落とす。黒瀬は勝手に保留する。だが美味かった唐揚げの記憶だけはわりと正確に残る。
橘はその一個には触れず、隣にあった形崩れの唐揚げを箸で取り、自分の小皿に乗せる。
そして皿の端にあったレモンを自分の分にだけ絞った。
黒瀬の音読が一瞬止まった。
「なんで止まるの。続き、何書かれてんの?」
「……今回は自分でかけたんだ。同じ不可逆でも、経路が違う」
「そ。だから今回はセーフ」
橘はそのまま、先ほど見つけた一番状態の良い唐揚げを箸で取る。
「前の右奥、うまかったから」
そして黒瀬の前にある小皿へ、その唐揚げを置いた。
「唐揚げの貸し借りだけ、これでチャラ。恩赦じゃないから勘違いすんなよ」
ついでに使いかけのレモンも横へ滑らせる。
「そっちは自分で決めな」
今度は黒瀬の動きが完全に止まった。視線も、呼吸も、細胞分裂さえも。
「……これ、めるが最初に見てたやつだね。くれるの?」
「前の右奥の返しだって言ってんだろ。変な意味つけたら回収」
黒瀬はしばらくレモンを見つめていた。
「……今日はかけない」
「選択結果の通知はいらん。黙って食え」
黒瀬は唐揚げに目を落としたまま、しばらく何も言わない。いつもならここから勝手な解釈が始まるのに、今回は珍しく言葉を増やさなかった。
「……ありがとう」
こういうときだけ、顔と声の使い方が正しい。橘は一瞬だけ返事に困り、意味もなく自分の唐揚げへレモンをもう一度絞った。
「……礼は唐揚げに言え」
「唐揚げ、ありがとう」
橘は思わず吹き出した。
そのまま食べるよう促そうとして、橘は黒瀬の両手が紙で塞がっていることに気づく。
「てか、手ぇ空いてねぇじゃん」
「僕はハンズフリーにも対応してる」
「食わせてもらう気満々じゃねぇか! 給餌サービスはない。今は予約だけでーす」
「僕のために確保してくれたんだね」
「受領権はあげた。解釈権までは渡してない」
黒瀬は小皿の唐揚げを、昼食ではなく祭壇の供物を見る目で見つめた。
音読が終わり、篠原が紙を回収すると、黒瀬は真っ先に小皿を引き寄せた。レモンには触れず、唐揚げを口へ入れる。
珍しく何も言わず、目だけが勝手に記念日を制定していた。
そのとき、橘のスマホに複数の通知が押し寄せた。
ピコン。
佐伯まさきからのDMだった。
『昼休みに情報倫理の補講始まってるってマジ?笑』
ピコン、ピコン、ピコン。
学食アプリ、文芸部リンク、ポータル通知、すみれが連投していた大量の肉写真。橘が後回しにしていたどうでもいい広告と、後回しにしてはいけなかったレポートの提出期限。
黒瀬を経由しない通知が、今度は橘自身の画面で好き勝手に鳴り始めた。
すみれが楽しそうに笑う。
「めるシーの世界、情報の治安悪すぎ! 通知欄が蘇生したね!」
「葬式と蘇生を往復すんな。学食だぞ」
橘がスマホを取り出すと、黒瀬は反射的にそちらへ視線を向けた。だが何も言わず、喉の奥で未送信の怪文書みたいなものを飲み込んでいる。
黒瀬のその顔が少しだけ面白かったので、橘は見られているのを知りながら、わざとゆっくり画面をスクロールした。
通知欄には、講義連絡、学食アプリ、文芸部リンク、すみれの肉写真、広告、締切が並んでいる。
うるさい。雑多で、見づらくて、余計なものが多すぎる。
けれどそれを見て、自分で選んで、自分で閉じるのは他の誰でもない橘自身だった。
烏丸が横からその様子を見てぽつりと言う。
「……今度はちゃんと、自分で開いたんですね」
「なんで端末修理後みたいな顔してんだよ」
「すみません。少し安心しました」
橘はそのまま画面をスクロールしながら、ひとつのメッセージを見つけた。通知の最下層に、見慣れた緑色のメッセージアイコンが浮かんでいる。
送り主の名前を見た瞬間、橘の指が一瞬だけ硬直した。
『楽しそうでよかったね』
祝辞の形をした催促状だった。
「誰それ?」
すみれが横から覗こうとしたので、橘は反射的にスマホを伏せた。少しだけ手つきが強かった。
「あー……知らん。面倒なやつ」
「めるシーの周り、面倒なやつ多すぎて分類不能なんだけど! 怪獣図鑑?」
「分類しなくていい。生態系が狂う」
「もう手遅れなんよ。そこに最高位の怪異がいるし」
すみれが黒瀬を指差す。
黒瀬はその指先には目もくれず、橘がスマホを伏せた速度を見ていた。
「見んな」
「見てない」
「あんた今、画面じゃなくて私の反応の方を見たろ。そっちの方がきもいんだよ」
「画面は見えなかったけど、君の顔に『面倒な男から一件』って出た」
「顔面通知プレビューやめろ。設定から切らせろ」
橘はトーク欄を開かず、通知を横へ払った。今はこんな一文に、これ以上の時間と思考を割く気はない。
学食はまだうるさかった。電子音も、笑い声も、食器のぶつかる音も、誰にも整理されないまま重なっている。
橘は一旦スマホから目を離し、そして黒瀬の方を見た。
「じぇに。世界はうるさいもんなんだよ」
黒瀬は橘の声に視線を上げた。学食の騒がしさを聞いているのか、橘の声だけを聞いているのか分からない顔だった。
「……うるさいのは、僕だけでいい」
本人は決めゼリフのつもりなのだろう。
実際は、騒音源が騒音規制を主張した瞬間である。
「いや、あんたも黙れ。もう鳴るなよ」
ピコン。
またスマホが鳴る。
橘は今度も、誰のフィルターも通さず、自分で通知を開いた。
自分で見る画面はうるさくて面倒くさいが、それでもだいたい黒瀬よりはマシである。
黒瀬は何も言わなかった。通知の内容も、送り主も、聞かなかった。
ただ橘が画面を閉じるまでの秒数だけを、たぶん数えていた。
「今、数えただろ。まばたきがメトロノームだったぞ」
「次からは心の中で数える」
「改善点そこじゃねぇ!」




