第2話 知り合い、バズってて草
昼下がりの無響大学は、どこにでもある大学と同じ顔をしていた。
講義終わりの学生たちが廊下に流れ、購買のパンを片手に移動していく。スマホを見ながら歩く者、レポートの愚痴をこぼす者、次の講義をサボるかどうかで笑い合う者。
どれも特別なものではない、よくある日常風景だ。
「次の講義だっる。ピ逃げするわ」
「チクるぞ」
そんな会話があちこちで飛び交う中、橘めるもまた、そのよくいる学生の一人だった。
講義は気分で出るし、課題は締切の直前に思い出す。男子の話は適当に流し、女子とは軽口を叩き、空きコマは大抵どこかでサボっている。
深く関わらず、深く考えない。それでいて、特に困ることもない。
それが橘めるの大学生活だ。
そして、その日常のすぐ近くに──もう1人、『普通の学生』がいた。
黒瀬じぇに。
首元には、場違いな鎖デザインのチョーカー。講義には出ていて成績も良く、ノートもきちんと取っている。
ただ、そのノートの中身は少しだけ普通ではない。
日付、時刻、座席位置。
橘の行動ログが几帳面な文字で整然と並んでいる。
ページの端には小さくメモが添えられていた。
──13:02 欠伸(右手で口元を隠す)
──13:07 ペン回し3回(成功率66%)
──13:11 隣席の男子を無視
講義内容は一行も書かれていない。
黒瀬はペンを止めると、ゆっくりと顔を上げた。
教室の少し前で、橘は退屈そうに頬杖をついている。
「……今日も、ちゃんと存在してる」
小さく呟き、満足そうに頷く。それは誰にも聞こえないただの独り言だった。
周囲から見れば、彼もまた『少し静かなだけの学生』に過ぎない。
ただ一つ違うのは──
彼の世界の中心が、橘めるただ一人で構成されているということだけ。
黒瀬は取り乱すのをやめた。ただしそれは落ち着いたわけではなく、壊れ方が静かになっただけだった。
『聖域』が構築されてから、数日後。
渡り廊下に、ずっと前からいた男がいた。
──否、正確には、さっきまでいなかったはずの場所に最初からいたように立っている男だ。
黒瀬は橘を待ち伏せしていた。
ガラス張りの向こうでは夕陽がキャンパスを焼き、下校する学生たちの笑い声がやけに平和に響く。そんな空気の中で、黒瀬だけが無駄に顔のいい不審者だった。
橘は女子の友人と談笑しながら横並びで歩いてくる。
「てかあのレポート普通にだるくね? 代行させようぜ」
「それな」
情報工学Ⅱ。
橘の履修講義も帰宅ルートも、既に把握済み。
橘たちが歩く廊下のその先に──いつの間にか彼はいた。
「ひっ」
橘の友人が短い悲鳴を漏らす。
音も気配もなく、距離だけが消えていた。
露骨に引く友人を無視して黒瀬は橘に話しかける。
「める。この間はごめん。僕どうかしてた。これ、仲直りの印に受け取ってくれないかな」
「この間……?」
橘は首を傾げる。見覚えはあるが名前までは出てこなくて、すぐにどうでもよくなった。
どう見ても仲直りの雰囲気には見えない彼から差し出されたのは、特注のブレスレットだった。作りは悪くなく、安物ではないのはすぐにわかる。
「へー、これ? あんたにしては結構イケてんじゃん。サンキュー! 軽いし適当に使っとくよ」
橘のピンクベージュの髪が揺れ、ラメの乗った目元が夕陽を反射してキラキラと輝く。
彼女の無防備な笑みに黒瀬の視線が揺れた。受け取ってもらえたことが、純粋に嬉しい。
「それでいい。……似合ってる」
「あざす! じゃ、もういい? 次講義なんだけど」
「ああ」
橘は何事もなかったかのように、軽い足取りで去っていく。
「今の誰? 事故物件?」
「見覚えはあるんだよな。ワンチャン寝たことある」
橘は貰ったブレスレットを指でくるくる回しながら笑う。
「てかさ、これ猫に付けたら映えそうじゃね?」
「やめなよ普通に」
「あはは、冗談冗談」
そのまま軽快な笑い声だけを残し、彼女らは廊下の向こうへと消えていった。
平和な喧騒が戻った渡り廊下で、黒瀬はスマホを取り出し、迷いなく画面をタップする。
地図が起動。
虚空を這う電波が『橘める』を捕捉した。
「見つけた。……今度は逃がさないから」
◇◇
その日の夜。
黒瀬は『聖域』こと自宅の部屋でモニターに張り付き、呼吸を忘れたように画面を見つめていた。
地図上の青い光がありえない動きをしているのだ。壁を無視し、同じ場所をぐるぐる回っている。
【警告:対象の移動パターン、人間の挙動と不一致】
「……バグか?」
──いや、違う。
「そうか、試してるんだろ。僕がどこまで正確に追えるかを」
ありえないはずの確信に満たされ、わずかに口角が歪む。
一瞬の静寂。そして、静かに宣言する。
「作戦名──『座標固定(GPSロック)』」
【目的:橘めるの常時追跡】
【成功率:100%(黒瀬理論)】
その時、ふいに座標が一点に止まった。
やっと捕まえた、と歓喜したのもつかの間、表示されたその地点を確認した時、黒瀬の思考が凍りついた。
そこはピンクと紫のどぎついネオンが明滅する、狭い路地の区画。
「……は? 待って。なんでそこなんだよ」
ラブホテル街だった。
『今からセフレと合流するんで』
見間違いだと思いたかった。
「……っ!」
立ち上がった拍子に、ガタッと椅子が派手に音を立てて倒れた。
「……だめだ。ふざけるなよ。僕がいるのに。そんな不潔な場所に行く必要ないだろ」
次の瞬間、黒瀬は弾かれたように部屋を飛び出していた。
「待ってて、める。今すぐ、今すぐ連れ戻してあげるから!」
気づいた時には全身泥まみれで、頭には葉っぱや塵まで引っかかっていた。
それでも走りを止めることなく、ついに安っぽい電子音とネオンで溢れる明るい夜の街、ラブホ前までやってきた。
「……はぁ、はぁ……っ、やっと見つけた」
座標が示す固定位置はすぐ目の前。黒瀬はラブホの植え込みの影に向かって勢いよくダイブした。
「める! もう捕まえ──」
バサッと茂みを掻き分けると、そこにいたのは、
────猫だった。
ネオンに照らされた、ふてぶてしい野良猫。
その首には、今日橘めるに渡したはずのブレスレットが巻かれていた。
「…………は?」
数秒、固まる。そして何かを察したようにゆっくり頷いた。
「……そう、か。……はは、そんな回りくどい合図、君らしいね」
全く興味なさそうにあくびをする猫へ、黒瀬は狂おしいほど熱のこもった視線を向けた。
「本当、素直じゃないんだからさ。でも大丈夫、ちゃんとわかってるよ」
黒瀬は泥だらけの手で猫を聖遺物のように抱き上げた。
その整った顔立ちも泥と涙で汚れ、今やゴミにまみれた不審者へと成り下がっている。
「──」
猫をじっと見つめ、一瞬だけ呼吸を止める。そして優しく囁いた。
「君の瞳は、真夜中のブラックホール。僕の理性を吸い込み、逃がさない重力を持っている。抗うほど、沈む。光すら逃げられない暗闇で、僕はようやく安心できるんだ。
……ねぇ、める。
君の中に落ちて、壊れてしまえたら……」
その時、背後から響いた声が大告白をぶった切った。
「すげぇ、マジで猫に告白してる。しかもラブホ前」
「橘、これ本当にお前の知り合いなの?」
驚いた黒瀬が振り返ると、そこには橘めるとその友人たちが立っていた。他にも複数人が集まってきており、彼らのスマホのレンズが自分の無様な姿を一斉に捉えている。
「…………え? ちょ、め、める!? なんでここに!?」
橘は慌てる黒瀬を見て、一瞬だけ眉をひそめた。曖昧だった記憶がようやく繋がった。
「……あー。あんただったのか。あのクソ重たいやつ。今ちゃんと思い出した」
「…………」
一瞬、黒瀬の思考が止まり、視線が猫と橘との間で行き来する。
だが、
「……それがきっと、僕にとっての救いなんだと思う」
何事もなかったかのように、ポエムを最後の一節まで言い切る黒瀬。猫が興味なさそうに欠伸をした。
橘もまた猫と泥まみれの男を見比べ、それからせきを切ったように笑い出す。
「……っはは! あはははっ! あんた何やってんの? 言い切んなし!」
橘は苦しげに腹を抱えて黒瀬に言った。
「今、インスタライブで『ラブホ前で猫に求婚する不審者』がバズってたから見に来たんだよ。今三千人があんたの公開告白をリアルタイムで見守ってる」
橘は黒瀬に自身のスマホの画面を突きつけた。
そこには配信の視聴者から寄せられるコメントが現在進行形で滝のように流れていく。
『顔面SSRの使い方それで合ってる?』
『猫の方が冷静で草』
『これ授業で習うやつ?』
『ラブホ前で猫に告白←今ここ』
『もう都市伝説だろ』
『誰かこの人回収してくれ』
『通報しました』
「その顔と頭、もっとマシなことに使えば? 才能ドブに捨ててんのおもろ!」
「……っ! める、君って人は……っ」
言葉が続かない。
笑い声と、レンズと、視線。
全部が一度に押し寄せて、呼吸の仕方を一瞬だけ忘れる。
「……最高だよ」
黒瀬は涙目で立ち上がると、震える指で彼女を指さした。
「君が僕を世界中に晒すことで、僕たちの関係がデジタルタトゥーとして永遠に残るんだね。ネットの海で、僕らは一生結ばれるんだ!」
「きっしょ。二度と喋んな。で、名前なんだっけ」
ラブホを前にザワザワと沸き立つ野次馬の中で、明るく響く橘の笑い声。
黒瀬にとっては、橘の笑い声も視聴者のコメントも見物人のざわめきも、自分たち2人を祝福する最低で最高のフラワーシャワーだった。
なお翌日、大学の掲示板には『猫に求婚した男(泥まみれ・葉っぱヘアー)』のスクショがカラーで貼り出され、彼の知名度だけが無駄に、かつ不可逆的に上昇した。
その写真の余白には、誰かが油性ペンでこう書き足している。
『※猫は無事保護されました』
『※人間の方は未回収です』
人だかりができているその掲示板の前で、黒瀬は腕を組み、誇らしげに立ち尽くしていた。
「……なるほどね」
周囲の失笑や「うわ、本物だ」と引かれていることも、彼にとっては賞賛のように聞こえていた。
黒瀬は掲示板を見つめ、小さく頷いた。
「わざわざ猫にブレスレットを預けて、僕をあんなに大勢の前で晒すなんて……。世界中に『君は僕のものだ』って宣言したかったんだね。やっぱり、めるは優しいなぁ」
そう言って満足げに微笑むと、スマホを取り出してカメラを起動。
カシャ。
掲示板に貼られた無様な自分のスクショと並んで、キメ顔の自撮り。
「記念日、だね。世界が僕たちの証人になった日だ」
そう言って彼が投稿したその写真は、再びネットの海で「不審者が増殖した」と新たな火種になった。黒瀬本人だけはそれを『祝福』だと信じたまま上機嫌で講義室へと向かう。
するとその背後からひょこっと影が差した。
「──あ。いたいた」
鮭弁当の空き容器が入った袋を片手に、橘が笑顔で声をかけた。
「よ、ケモナー! 昨日の件で一躍有名人じゃん。配信とかやったら稼げそー」
ピキッ。
黒瀬の動きが止まる。
『祝福』のフラワーシャワーが、一瞬にして『ただの恥晒し』へと塗り替えられた音──ではなかった。
ゆっくりと、黒瀬が振り返る。
「……なるほど」
数秒間黙り込んだ後、彼はすべてを悟ったように深く頷いた。
「そういうプレイなんだね」
「違ぇよ」




