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黒瀬によれば、これは純愛らしい。  作者: 柊ナツキ
第2章『君に届く、その前に』

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第10話 人力Wi-Fi

 翌朝、橘は鳴らない自分のスマホを三回見た。


 一回目は癖だった。

 二回目は確認だった。

 三回目は、さすがに自分でも気持ち悪かった。


「……いや、壊れてはないな」


 画面は普通に点く。電波もある。Wi-Fiも繋がっている。大学ポータルは相変わらず事務連絡を置いているし、学食アプリも今日のおすすめを表示している。


 ただ、静かだった。


 猫ポエム事件のあと、橘の通知欄はずっと他人の好奇心で埋まっていた。


『お前の彼氏ヤバすぎて講義中に思い出し笑いした』

『猫にプロポーズしたってマジ? 猫側の返事は?』

『猫男って大学の備品?』


 最初は飯のタネだった。話題にもなるし、奢りにも繋がる。暇つぶしとしてはかなり優秀だった。


 だが、何度も鳴るとさすがにだるい。

 自分のスマホなのに、黒瀬じぇにの奇行についたコメント欄を持ち歩いている気分になる。


 それが、今朝はやけに薄い。


 すみれからのメッセージは一件だけ来ていた。けれど追いメッセージはない。つきのの皮肉っぽい共有も、文芸部のどうでもいい盛り上がりも、今日はおとなしい。


 通知欄が清潔だった。


「平和って、こんなに不審だったっけ」


 橘は廊下を歩きながら、もう一度スマホを見た。

 新着はない。


 不気味ではある。だが、ほんの一瞬だけ、肩の力が抜けた。


 静かなのが、だいぶ楽だ。

 そう自覚した瞬間、橘は自分で嫌な顔をした。


 楽なものは、だいたい後から請求書が来る。しかも今回は、請求書の顔に心当たりがありすぎた。


「……いや、決めつけはよくない。まだあいつとは限らない」


 一応、そう思うことにした。だが、おかしなことの犯人候補に黒瀬を置くと正解率が高い。過去問より当たる。


 昨日、橘が『やめろ』と追いメッセージを送っても、黒瀬からの既読も返信もないままだった。

 黒瀬という男は、拒否された言葉ほど都合よく保管する生き物である。


 嫌な予感がした。

 そして嫌な予感というものは、だいたい黒瀬の顔をして現れる。


「める」


 曲がり角の先に、黒瀬が立っていた。


 無駄に姿勢が良い。無駄に顔が良い。そして手には、薄いクリップボードを持っている。


 その時点で、橘はもう帰りたくなった。


「通知の配達です」


「帰れ」


「未受領は再配達となります」


「違法配達員が来た」


 黒瀬のクリップボードには、やけに整った表が挟まっていた。手書きではなく、印刷されたものらしい。


 差出人。受付場所。受付時刻。伝言内容。

 さらに右端には、なぜか「脅威度」の欄まである。


「ていうか、昨日の画面の関所はどうした?」


「画面上の補助は停止した。君が退去を求めたから」


「求めたのは退去であって転職じゃない」


「だから配送方式を変更した」


「だからって画面から出てくんな。……まさか、私に来るはずの通知をあんたが持ってんの?」


 黒瀬は悪びれる様子もなく、クリップボードを持ち直した。自分の作業範囲を当たり前かのように思っている顔だった。

 クリップボードには、人間関係が物流倉庫みたいに整理されている。


「まず、すみれさんから。購買前で会ったときに、君が未読だから伝えておいて、と言われた」


「私の友達、窓口選び間違えてる」


「『黒瀬くんなら絶対届けそうじゃん』とのこと」


 クリップボードには、こう記載されていた。


【鯉塚すみれ:感情量:大/優先配送】


 黒瀬は一度だけ息を整えた。

 そして、やけに低温で読み上げる。


「『めるシー! 今日の新作フラペ、まじ草通り越して森なんだけど! ぴえん超えてぱおんからの顔文字、顔文字、キラキラ』」


「……」


「補足、『顔文字二個とキラキラもつけといて』とのこと。文末に草が十四本あったけど可読性を考慮して圧縮済み」


 声の高さは全く違う。だが、語尾の跳ね方も勢いもやたらと再現度が高かった。黒瀬の声帯を通ったすみれは、明るさだけ梅雨入りしたみたいになっている。


 橘は一秒だけ黙った。だが無理だった。


「……っぷ、あははは! 勝手に芝刈りすんな! 元の森返せ!」


 すると背後から、すみれの声も飛んできた。


「あたしの森、伐採されてんだけど!」


 すみれはピンクの髪を揺らしながら、片手にカフェオレ、片手に購買袋を持っている。服装は今日も強いのか甘いのか分からない。


「語尾だけ謎に似てる偽物やめて! 黒瀬くんが読むと草より苔生える!」


「本人来てんじゃん」


「伝言届いたか気になって普通に追ってきた。まさか朗読会になってるとは思わないじゃん!」


 廊下を通る学生たちが、ちらちらとこちらを見ていく。

 黒瀬がクリップボードを持って、あまりにも業務的に橘たちの横に立っているせいで、何かの学生スタッフに見えなくもない。


 ただ、業務内容が終わっている。


 黒瀬は無言で次の行を見た。

 さっきまで業務的だった指先が、そこでわずかに止まる。


「……次、烏丸れいぶん。未受領のため予測配達」


「口調知らないだろ」


 黒瀬はかけてもいない眼鏡のブリッジを、なぜか指で押し上げる仕草をした。


「やめろ、動作がすでに捏造」


 そして紙面を見下ろし、抑揚のない声で読み始める。今度の声は最初から死んでいた。


「『める様……以前の関係で発行された管理者権限は、まだ完全には失効していません……あなたの心のポートは、今も私が静かに監視しています……』」


「いや誰だよ! キモすぎだろ! れいぶんだけ嫉妬で音声ガビガビだぞ」


「やば! 『元カノに激重未練たらたらエンジニア』なの、黒瀬くんの解釈が天才!」


 すみれは腹を抱えて笑っている。

 黒瀬はもう一度クリップボードを見直し、なぜか品質改善の顔をする。声色を調整した結果、今度は閉館五分前の館内放送みたいになった。


「『訂正します。黒瀬さんの手動配送は、多少の危険性を除けば有用です。今後も継続して利用し、最優先連絡先に設定してください……』」


「方向修正で自薦広告に着地すんな! れいぶんは絶対止める側だろ!」


「……すみません」


 背後から静かな声がして、橘とすみれが振り返った。


 アッシュグレーの髪。細い銀縁の眼鏡。ノートパソコンの入ったバッグ。

 烏丸が廊下の端ではなく、普通に会話へ参加できる距離に立っていた。

 近い。それなのに今まで背景だった。


「私はそのような言い方はしません。全体的に、誤解されていると思います……」


「待って、本人が異議申し立てしてて笑うんだが!」


「れいぶんじゃん。いつからいた?」


「すみれさんの顔文字とキラキラあたりからです」


「そこからかよ。背景から喋んな」


 烏丸は困ったように瞬きをした。


「割り込んでしまってすみません。……私はそんなに暗かったでしょうか」


「自信持てよ、れいぶん」


 烏丸の視線が、黒瀬のクリップボードに落ちる。


【烏丸れいぶん:解析者/要警戒/再現率31%/呼称「める様」:要監視】


「……呼称については、すみません」


 黒瀬の視線が呼称欄から烏丸に移った。表情は変わらないものの、新しい警戒項目が増えたらしい。


「烏丸れいぶん。君はめるの通信経路じゃない」


「……通信経路になるつもりはありません。めるさんが困ったときに、呼べる場所にいたいだけです」


「呼べる場所にいるなら、経路だ」


「……たぶん、違います」


 烏丸は気まずそうに目を伏せる。

 それから、黒瀬のクリップボードをもう一度見た。


「黒瀬さん。それはWi-Fiではないと思います」


「手動配送だよ」


「……はい。表現を変えても、宅配型の監視です」


 烏丸はノートパソコン用のバッグの外ポケットから、小さな付箋束とシャープペンを取り出した。白い付箋へ短く書き込み、黒瀬のクリップボードの最上段へそっと貼る。


『本人未許可』


「……何をしている」


「……すみません。物理層のバグには、物理的なパッチを当てるしかありません」


「れいぶん氏のそれ、完全に封印のお札なんよ!」


「陰陽師のデバッグやめろ」


 橘は頭を抱えた。


 黒瀬は画面から出てきた。

 正確には、最初から出ていた男が、画面の役割まで持って歩き始めた。


 スマホが鳴らなければ平和と思っていた今朝の自分を、橘は少しだけ殴りたくなる。

 通知が減ったかわりに、通知が人間の形をして目の前に立っているからだ。


 画面を閉じても、通知は消えない。黒瀬は、閉じた画面の外側で待っている。


 そして、低速ではなかった。

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