第9話 視界の関所
橘が振り返ると、PC自習室の入口に、いつの間にか一人分の静けさが増えていた。
烏丸れいぶんがそこに立っていた。
湿度も圧もない。ただ、静かすぎて背景と同化しかけている。
色の抜けたアッシュグレーの髪に、細い銀縁の眼鏡。黒いパーカー。手にはノートパソコンの入ったバッグ。
自己主張が死んでいるだけで、顔は整っている。
「早っ。場所まだ送ってないんだけど」
「PC相談室から、ここが一番近いので。違ったら次を探すつもりでした」
すみれが、白紙ドキュメントの前で真顔になる。
「え、召喚獣?」
「PC相談室にいましたので」
烏丸はわずかに頭を下げた。
「れいぶん、気配消して入ってくるな。陰キャのステルス性能高すぎて怖い」
「……すみません。次は通知音を鳴らします。……人間として」
「いや普通にノックして来ればいいから」
「わかりました」
注意を受けたら、仕様変更を受け入れるように修正する。
言葉が言葉のまま届く男は、意外と希少種だ。
「……あ、今は人前でしたね。めるさん、の方がいいですか」
「呼び方より画面見て」
「わかりました」
つきのが小声で言う。
「今の『める様』、元彼の距離感として合ってるの?」
「合ってない。こいつは付き合ってた頃からこう」
「元彼まで騎士様タイプなんだ。めるちゃんの周り、変な男のバリエーションだけは豊富だね」
「品揃え最悪の専門店みたいに言うな」
烏丸は特に動じず、閉じられたノートパソコンへ視線を落とした。
「見てもいいですか。通知内容や個人メッセージは見ません。表示と権限だけ確認します」
「はい」
橘はノートパソコンを開き直した。
付き合っていた頃から、烏丸はこういうところだけは正しかった。見る前に、必ず見る範囲を言う。
閉じたはずのPDFは、さっきと同じページで止まっている。右下にはもう何もいない。
だが、いないからといって安心できる段階は過ぎていた。
烏丸は画面をスクロールした。PDFの表示、注釈、リンク元、許可の表示。必要な場所だけを確認していく。
表情はほとんど変わらない。だが、【めるはここで読み飛ばします】の注釈を見た瞬間だけ、指の動きが止まった。
「どう?」
橘が聞くと、烏丸は画面を見たまま少し黙った。
分からないという沈黙ではない。どこまで言えば橘に伝わるか、言葉を削っている沈黙だった。
「公式のPDFは変わっていません。めるさんがPDFを見る前に、黒瀬さんの読解窓が一枚挟まっています」
「それだけで右下に不審者出るもんなの?」
「見せる順番と強調と補足を、黒瀬さん側が決めていますから、その副産物かもしれません」
「それ補助ってより検閲じゃん」
烏丸は少しだけ黙った。
「……そうですね。問題はそこです。最初の許可は、資料を読みやすくするためのものだったはずです」
「そうだよ。単位様のために、一回だけ許した」
「今は、その範囲が広がっています」
「感染拡大マジか」
「黒瀬さんはたぶん、『めるさんが見る前の表示を整える』ことを、補助だと思っています」
烏丸はノートパソコンを自分の方へ少し寄せた。
その瞬間、ページ番号の横で小さな黒い四角がちらついた。例の黒瀬だった。
【読解補助中】
烏丸は一秒だけ黙った。
「……補助ではありません。許可がないなら、干渉です」
すみれが肩を震わせる。
「広告よりしつこいイエメン、れいぶん氏の判定だと干渉らしいよ。入居者から干渉者に格上げじゃん」
「格上げすんな。事件性が上がる」
橘はそこで、スマホを持ち上げて烏丸に見せた。
「あと、通知に勝手な注釈つけられた」
「あたしのフラペ会議が甘味扱いされた!」
「甘味ではあるだろ」
「学問より大事なときもあるよ!」
すみれのフラペ会議には、【外部誘導:甘味】。
佐伯の通知には、【注意散逸リスク:高】。
烏丸はしばらく黙った。
「通知自体は消えていません。端末側の設定も変わっていません」
「じゃあセーフ?」
「いいえ。本文より先に、見出しをつけられています。人は本文より先に、見出しを読みます」
つきのが小さく笑う。
「地味に一番嫌なやつだね」
「地味ですが、危険です。消すより気づきにくいので」
橘は呆れてため息をつき、スマホを開いた。
PDFと小さい黒瀬に削られた精神力を、何かしらの揚げ物の情報で回復する必要がある。
場所はPC自習室だが、心は学食へ向かっていた。人間は、割引と揚げ物に弱い。
学食アプリのトップ画面には、今日のおすすめが表示されていた。
【油淋鶏フェア】
【唐揚げ増量クーポン配布中】
そこまでは正常だった。
だがその横で、表示補助ビューアの右下に小さな注釈が出る。
【食事誘導:油分過多】
【推奨:常温水】
【胃への負担を考慮してください】
「……こいつ。学食アプリの横で白湯宗教始めんな」
つきのも自分の画面と橘のものを見比べた。
「布教が水から始まるのは堅実だけど、横の思想がうるさいね」
「堅実なカルト評価やめろ」
烏丸は、橘のスマホとノートパソコンを交互に見た。
「……やっぱり、壊されているのは表示ではありません。表示を見る前の、めるさんの解釈です」
「ただの補助フィルターじゃなかったの?」
「通してはいます。ただ、入口に黒瀬さんがいます」
「関所かよ」
「……そうですね。めるさんに届く前に、黒瀬さんが一度、札を貼っています」
自分に届く直前に黒瀬がいる。
橘はふと嫌な予感がして、黒瀬とのトーク画面を開いた。
通知一覧だけ見て、気持ち悪くなって伏せた長文。
まだ開いていなかった。まだ読んでいなかった。見なければ、存在しないことにしていた文章。
『通知について考えた。君は読む前に反応する。音が鳴ったとき、画面が光ったときに視線がそちらへ向く。だから、到達条件を再設計する必要がある。君が見る前の──』
そこまでは、通知一覧で見えていた。
だが、最後の一文。
『君が見る前の場所に、僕がいればいい』
「……最悪」
見なければ存在しないのと同じだった。
見てしまったら、もう無かったことにはできない。
すみれが横から覗き込む。
「うわ、答え合わせじゃん! 最悪のデジタル待ち伏せきた!」
すみれは笑っていたが、いつもより笑い方が固い。
つきのも何かを書こうとして、手を止める。
烏丸は画面から目を離さず、静かに聞いた。
「めるさん。端末を黒瀬さんに触らせましたか」
「触らせてない。QR読んで、許可押しただけ」
「十分です」
「押しただけで?」
烏丸が橘を見た。
怒ってはいない。ただ、完全に「やりましたね」という目だった。
「……さーせん」
「謝らなくて大丈夫です。原因はだいたいわかりました。……そのとき、許可画面は見ていましたか」
「……え」
「確認ボタンを押す前に、何に許可しているか読みましたか」
橘は記憶を掘り起こしてみた。
『元データは変更されません』。そこだけ読んで他は読み飛ばした。黒瀬の注釈が予測した通りに。
「……読んだかもしれないし、読んでないかもしれない」
「許可画面で、安心できる一文だけが目立っていませんでしたか」
「その目やめろ。情報倫理の教科書みたい」
「……すみません。今は、見出しだけ太字になっています」
つきのが横から薄く笑った。
「伏線回収、思ったより早かったね。権限読んでから押しなよって言ったのに」
「今そういう回想で殴るのやめろ」
「黒瀬さんは、めるさんがどこを読んで、どこを読み飛ばすかを知っていたんだと思います」
「最悪。怠惰まで観測対象かよ」
「はい。かなり精度が高いです」
烏丸は答えながら、開いている画面をひとつずつ確認した。
「この読解窓自体は、その場で全部作られたものではなさそうです。設定の保存日時を見る限り、少なくとも数日前には用意されています。めるさんが許可したのは、それを開ける操作です」
「玄関前で待機してた業者が、私がドア開けた瞬間に工事始めたってこと?」
「近いです」
「訪問販売より悪質じゃん」
スマホを奪われたわけでもない。端末を壊されたわけでもない。元の表示も変わっていない。
ただ、橘が見る前の場所に、黒瀬がいる。
講義中、黒瀬が通知音の代わりに「ピコン」と言ったあの時。
冗談みたいな顔で、冗談ではないことをしていたらしい。
「……あれ、異音じゃなくて工事音だったのか」
「ただ、壊すためではなく、めるさんが見るものを整えるための設定に見えます」
「それもう視界の通行止めじゃん」
「……はい。かなり勝手なフィルターです」
画面に出た黒瀬を見ている間は、まだ笑えた。
PDFに住むな。通知に札を貼るな。油淋鶏に水を差すな。
そうやってツッコめるうちは、まだよかった。
だが、勝手なフィルター。
本人はいないのに、橘の目に入る世界だけが、先に黒瀬の手元を通っている。
橘は、いつかの朝に黒瀬に言われたことを思い出した。
──通知も、視界も、僕がちゃんと整えてあげる。
彼にとっては比喩ではなかったらしい。
普通、恋愛の重いセリフは相手を引かせて終わる。
黒瀬の場合は、画面の右下で稼働している。
「ポエムを機能要件に落とすなよ……」
すみれは画面と烏丸を交互に見る。
「つまり、めるシーが画面を見てると思ったら、画面側もめるシーを待ってたってこと? 待ち合わせ?」
「……比喩としては、近いでしょうね」
その瞬間、橘のスマホに黒瀬からの通知が飛んできた。
『待ってる』
「本人が待ち合わせに参加してきたんだが!」
「画面越しに会話に混ざるな。授業中のグループワークかよ」
烏丸は静かに画面を見た。
「こちらの行動を予測して打ってきているだけかもしれません。返事をしたら、もっと反応が増える可能性があります」
「それもう話しかけたら育つタイプの怪異なんよ」
つきのが小さく笑う。
「デジタル怪異によるネット怪談の実演来たね」
「褒めないでください。強化されるかもしれません」
烏丸が本気の声で止めたので、すみれはまた机に沈んだ。
「れいぶん氏、黒瀬くんの扱いだけ急にベテラン飼育員みたいになるじゃん」
「飼育はしていません。被害を広げないようにしています」
烏丸は一度だけ、右下の黒瀬を見た。
「では、この読解窓を無効にします。……めるさんの許可が降りれば」
「じゃあ、許可する」
橘は画面の隅を睨んだ。
「私はれいぶんには許可出した。あんたには出してない」
反応はない。だが、沈黙の仕方があまりにも黒瀬だった。
橘はスマホを見た。
開きっぱなしの黒瀬とのトーク画面が、こちらを待っている。
「れいぶん、苦情送っていい?」
「短くしてください。反応が増えると、処理が増えます」
「正式な改善要請にするわ」
それから橘は、ものすごく丁寧な気持ちで、ものすごく雑な文面を打った。
『私の画面から退去しろ。勝手に関所作んな』
既読は一瞬でついた。
『それだと、君に届くものが多すぎる』
返事の方向性が最悪だった。
橘も秒で返信する。
『そんなに私の通知が気になるなら、あんたが全部届けろ。人力で走れ。Wi-Fiになれ。低速だったら許さない』
送信。
烏丸が眉をひそめた。
「短く、と言いました」
「要点はまとまってるだろ」
「発注仕様としては、かなり明確です」
橘は送ってすぐに後悔した。
黒瀬という男に、雑な命令形を投げてはいけない。
特に、役割っぽく聞こえる言葉は。
「あ、やべミスった。送信取り消し……」
だが既に、既読がついていた。
そして黒瀬からの返信は異様に早かった。
『提案を受理しました』
「は……?」
続けて、もう一通。
『配送方式を変更します』
「待て待て、受理すんな!」
橘は慌てて追撃した。
『やめろ』
『今のなし』
『業務開始すんな』
『人間に戻れ』
さっきまで一瞬でついていた既読が、そこで急につかなくなった。
そして、右下の黒瀬がふっと消えた。消えたのに、余計に安心できない。
烏丸が画面を見たまま、静かに言う。
「……今のは、追い出したというより、通知の窓口に任命しましたね。黒瀬さんに役割を与えてしまいました」
「私、暴言吐いただけなんだけど」
「黒瀬さんには、承認済みのタスクに見えたと思います」
「最悪の業務委託じゃん」
つきのは面白そうに笑っていた。
「でも、めるちゃん。今のは完全に発注だったね。回線品質の指定までしてたし、納品が楽しみじゃない?」
「発注してない。クーリングオフしたい」
数分もしないうちに、右下の注釈は消えた。学食アプリは最初から何事もなかったように正常だった。
壊れていたのは画面ではない。
画面を見る前の順番だった。
だが、右下に何もない方が、かえって気持ち悪い。見えていた異物が消えただけで、問題そのものが無くなった保証はどこにもないからだ。
本人はいない。返事もない。
それなのに、どこかで黒瀬が頷いた気がした。
「……明日、絶対なんか持ってくるだろ」
橘がぼそっと言うと、すみれが小さく笑った。
「クリップボードとか?」
「やめろ。想像できた」
PC自習室は相変わらず、静かなふりをしてうるさい。
さっきまでうるさかった右下は、もう黙っている。
それなのに、静かになった気がしなかった。




