第6話 飯でも飲みでも、監視でも
追いポータルで胃もたれしかけたところに、肉盛りが届いた。
鉄板の上で肉がじゅうじゅうと音を立てている。ソースの匂いが立ち、橘の機嫌がかなり回復した。
「来たよ、人類の勝利!」
「肉への信頼すご」
「肉は人を裏切らない。焼き加減ミスる人間はいるけどね」
「哲学っぽいのに全部食い物」
橘は肉を口に入れた。
この前の唐揚げとは違い、黒瀬が選んだものではない。自分で選び、自分で食べた。唐揚げも美味かったが、それとはまた違った良さがある。
肉を食べている間にもスマホへの通知は積もっていく。けれど今の橘は、その音を少しだけ遠くに置けている。
佐伯がいるからだけではない。肉があるからだけでもない。
今この席が、黒瀬の言葉で満たされていないからだ。
「てか橘、これ食う?」
佐伯がポテトの皿を寄せてから、ワンテンポ遅れて「あ」と顔を上げた。
「ごめん、さん付け忘れた」
「別にいいよ。湿度なければ」
「じゃあ湿度ゼロでいくわ。橘」
「名前呼ぶだけで除湿宣言すんのウケる」
佐伯は普通に笑って、ポテトをつまんだ。
黒瀬の「める」とは違う。
同じように短く呼ばれても、佐伯の声には保存する気配がない。呼んだそばから次の話題へ流れていく。
「橘ってさ、黒瀬くんのこと何枠に置いてんの?」
「事故物件枠」
「住んでるじゃん」
「住んではない。たまに上の階から水漏れしてくるだけ」
「退去しなよ」
「たぶん敷金返ってこないし、勝手にリフォームしてくる」
「本物の事故物件じゃん」
佐伯は笑った。
核心に触れそうで、すぐにふざける。そういう逃げ方ができる男である。
「でもさ、嫌いなら相手しないタイプ? なんか橘って、本気で嫌だったらツッコむことすらしなそう」
「嫌いだったら視界から消してる」
橘は言ったあとで、しまったと思った。
この言葉を本人に聞かせたら終わる。絶対に保存される。勝手に記念日になる。
だが佐伯は、ただ軽く流しただけだった。
「じゃあ事故物件だけど、まだ退去届は出してないんだ」
「勝手に住まわせんな」
「ごめん。外から見てるだけ。玄関の時点で圧強そうだなーって」
「それもう怪異で草」
佐伯はそれ以上、聞かなかった。
何事もなかったように話題を変えて、またポテトをつまむ。
その軽さが今の橘にとっては楽だった。
そのまま食事は普通に終わった。
今度こそ、佐伯は本当に奢った。
◇◇
店を出ると、夜の駅前には人の流れと信号の音がごった返していた。
「ごち。サンキュー、まさき」
「どういたしまして。リベンジ成功ってことで」
「この前よりは普通の飯でよかったわ」
「俺の財布は今ちょっと反省会してるけどね」
「いい経験になったじゃん。財布の育成捗るね」
「財布に体育会系の成長求めないで。でも、また飯行こ。次も猫男抜きで」
「それがいちばん難しいんだよな」
「確かに」
佐伯は笑いながら軽く手を振って、人混みの方へ消えていった。
橘は暗い駅前に一人残される。外の空気は店内よりも冷たかった。
肉の匂いも、佐伯の軽い声も、店の明るさも、扉の向こうへ置いてきたみたいだった。
さっきまで笑い声に紛れていたスマホの振動が、一人になった途端、やけに近くなる。
画面を見ると、授業支援システムの通知が縦に並んでいた。スマホを伏せていた間にも、少しずつ増えていたらしい。
確認。
追加確認。
食事。
水分補給。
帰宅予定。
補足。
件名だけなら、どれも課題連絡のように見える。だが、本文を見れば全部黒瀬だった。
『どこ』
『誰と』
『何を』
『水』
『いつ』
『返信』
そして、最後の一通。
件名:無題
『める』
確認ですらなかった。
件名も目的も投げ捨てて、名前だけが残っていた。
「大学のシステムで呼ぶな」
橘はため息をつく。もちろん、そんな独り言に返事があるはずもない。
そう思った瞬間、背後から声がした。
「楽しかった?」
振り返ると、黒瀬がいた。
彼は人混みに混ざっていなかった。かといって、隠れていたわけでもない。
ただ、流れていく人間たちの外側に一人だけ止まっていた。
駅前の喧騒が、彼の周りだけを避けているみたいに。
「……じぇに」
「楽しかった?」
ただ静かな声で、同じ質問だけを置いてくる。
橘は少し黙ってから答えた。
「まあ、普通に」
「そっか」
黒瀬はそれだけ言った。
「ついてきたの?」
「店には入ってない。外のメニュー表を見ていた」
「セーフに寄せようとしてもアウト寄りのアウトだよ。何してんの」
「君が返信しなかったから」
「返信しない権利がある」
「あるよ。でも君が返信しない間にも、君は誰かと話して、食べて、笑っていた」
「普通のことだろ」
「普通だね」
黒瀬は、橘の言葉を否定しなかった。
否定しなかっただけで、納得した声ではない。
「相手が男なのが嫌じゃない、とは言わない」
黒瀬は、橘のスマホを見なかった。
「でも、それ以上に」
画面ではなく、画面の向こうへ行って帰ってきた橘の顔を見ている。
「短い文章って、便利なんだね。君を僕の知らない場所まで運べる」
橘は一瞬、返す言葉を失った。
言っていることは意味不明なのに、黒瀬の中ではおそらく筋が通っている。
「あんた、だいぶ末期だよ」
「そうかもしれない」
「認めんな」
黒瀬は、駅前の音へ視線を流した。
改札のチャイムや誰かの笑い声がばらばらの方向から流れてくる。
「でも、文字は遅い」
「は?」
「君が見なければ、そこで止まる」
橘は嫌な予感がして、すぐに答えられなかった。
「音は、勝手に届くんだね」
「……また変な学習してんな。今すぐ忘れろ」
「無理だよ。君が見なくても届くものがあるなら、僕はそれを無視できない」
「だから末期だって言ってんの」
黒瀬はそれ以上、何も言わなかった。
沈黙がまた変な方向に重くなりそうだったので、橘はわざと軽く言う。
「肉うまかったし」
「肉」
「唐揚げじゃないから安心しろ。比較対象増やすなよ」
「僕は肉にもなれない」
「肉より先に人間になるとこから始めろよ」
黒瀬はそれきり何も言わなかった。
橘はため息をつき、駅の方へ歩き出す。
「帰る。今日はこれ以上あんたの湿度浴びたらカビるわ」
「……わかった」
意外にも、黒瀬はあっさり引いた。背後から追ってくる足音はない。
橘はなんとなく、スマホを見なかった。
その代わりに、駅前のどこかで鳴った通知音だけがやけにはっきり耳に残る。
黒瀬もきっとその音を聞いていた。
次に彼が持ち帰るものは、たぶん画面の中だけでは済まない。




