第8話 サブリミナルじぇに
それから三日ほど、黒瀬は静かだった。
廊下にも、学食にも、駅前にも、いつもみたいには出てこない。
通知音になろうとして教授に処理された男が、急に人間社会の隅で反省しているように見えなくもない。
もちろん、橘は信じていない。
台風の目も静かだし、ウイルスも潜伏期間は静かだ。静けさだけで信用していたら、人間はだいたい負ける。
ただ、例の表示補助リンクだけは便利だった。
メディア表現論の補足資料。
タイトルは『視覚情報と注意の誘導』。
教授が配った元のPDFは、白黒の壁だった。
公式のPDFそのものが変わったわけではない。ただ、黒瀬の表示補助リンクを通すと、その壁の上に勝手な案内板が一枚重なり、読む順番や見るべき図だけが腹立たしいほど分かりやすく整えられる。
非常に認めたくないが、見やすいものは見やすい。
スマホで読むには画面が小さすぎたので、橘は同じ表示補助リンクを自分のノートパソコンにも送った。
送った自分に、一番腹が立つ。
PC自習室という場所は、静かなふりをして意外とうるさい。
キーボードの打鍵音。マウスのクリック音。プリンターが紙を吐き出す音。どこかで誰かが小声で「あ、保存してない」と絶望する声。
学食のざわめきや講義室の眠気とは違う。
ここにある音は、だいたい画面の中へ向かっている。
今日は、すみれとつきのも一緒だった。「課題をやる」という名目で集まった三人だが、すみれの画面だけは開始五分から白紙のままである。
「もーダメ。あたしの脳だけ先にログアウトした」
「すみれ、戻ってこい。単位が死ぬぞ」
「タイトルだけ考えた」
「見せろ」
すみれはキーボードを一文字だけ叩いた。
『あ』
「それはタイトルじゃなくて発声だろ」
つきのはその横で、イヤホンを片方だけつけている。
画面には同じ資料が開かれていた。教授の元PDFのままなので、相変わらず白黒の壁である。
「つきの、それ読める?」
「読めてるふりはできる。中身が入ってるかは別問題だね」
「大学生として一番大事な技能じゃん」
橘はノートパソコンで例の表示補助リンクを開いた。画面に出る資料は、今日も腹が立つほど見やすい。便利な迷惑行為ほど、処理に困るものはない。
橘は画面を下へスクロールした。
そのとき、視界の端で何かが一瞬だけ動いた。
右下。表示補助ビューアのページ番号の横に、黒い影。
まばたきした頃には消えていた。
「……ん?」
橘は固まった。
見間違いであってほしかった。
だが見間違いにしては、こちらの視線が吸われる場所に出すぎている。
橘は無言でノートパソコンを閉じた。ぱたん、という音がPC自習室に響く。
隣の席の学生が、そっとイヤホンのノイズキャンセリングを最強にした。大学生には、他人の地獄を見なかったことにする能力がある。
「めるシー、どうしたの? 今の、棺桶みたいな閉じ方だったけど」
「何も見てない」
「見た人の言い方なんよ」
今度はつきのが笑った。彼女の画面には課題資料が開かれているが、目だけはこちらを向いている。
「また黒瀬くん?」
「何も言ってないのに顔で証拠取んな」
「今の音、PDFじゃなくて怪異を封印した音だったよ。除霊でもしたのかな」
「大学の課題で除霊したくねぇよ」
このまま閉じたままにしておきたい。だが今日中に読まなければ、小レポートが死ぬ。小レポートが死ぬと、単位が死ぬ。
『視覚情報と注意の誘導』
改めて考えると、最悪なタイトルである。誘導されているのは視覚情報ではなく、橘の人生の方だった。
橘は渋々、ノートパソコンを開き直した。
画面には、さっきと同じPDFが表示されている。
そして右下に、小さな黒瀬がいた。
「……いる」
「いるんだ」
すみれが即座に身を乗り出した。
ページ番号の横。小さな黒い四角の中に、黒瀬の顔があった。
ものすごく小さい。だが無駄に画質が良い。画面の隅にいるくせに、目だけがやけに合っている。
その横に、白い文字が出た。
【読解補助中】
「うわ!」
橘とすみれの声が重なった。
「バッチリ見えてる時点でサブリミナル失敗なんよ。しかも読解補助って、公式ヘルプ面してる」
「ヘルプがクレームの発生源で草」
つきのは自分のPDFを見ながら、本文を指でなぞった。
「ここ。『人の視線は、動くもの、顔に見えるもの、自分に関係がある情報に引き寄せられる』だって」
「教授は悪くないのに、じぇにの取扱説明書みたいになってる」
「続きもあるよ。『見たいものだけを見る状態は、情報環境において問題となる』」
「見たくないものが出る場合は?」
「授業内容が急に実技になったじゃんね」
橘は無視してページを進めた。
本文の横に、小さな注釈が出る。
【この段落は先に図を見ると分かりやすいです】
教材補助としては正しい。
さらに下へ行く。
【めるはここで読み飛ばします】
「未来のサボりに先回りで付箋貼るなよ」
すみれが横で肩を震わせた。
「でも当たってるじゃん。名前入り個別チューニング、精度高めだね。学食アプリに負けて右下に就職しただけある」
「私より私の怠惰に詳しいのなんかムカつくな」
すみれは自分の白紙ドキュメントをちらりと見た。
「ねえ、めるシー。あたしの白紙にも黒瀬くん派遣してよ。勝手に文字打ってくれない?」
「呪いの代筆頼むな。単位までじぇに名義になるぞ」
橘が勢いよく下へスクロールすると、右下の黒瀬だけが妙に滑らかについてくる。画面の隅から退去する気配はない。
すみれが笑いをこらえながら、右下を指さした。
「ねぇ、これ押したらどうなるの? ポップアップ展開?」
「絶対ろくでもないから押すな」
すみれがマウスカーソルを近づけた。
その瞬間、黒瀬の横に新しい表示が出る。
【ここは押さなくていいです】
「教材、急に自衛した!」
つきのは笑いながらも、平然とメモを取っていた。
「タイトルは『画面の隅に棲む男』かな。視覚をじわじわ侵食するサイコホラー系」
「ちょっとおもろそうなのやめろ」
「文芸部のネタ的には美味しい。本人が画面端から出演してくれるタイプの実話怪談」
つきのはもう共有ファイルを開いていた。無響文芸部のネタ帳である。
同じフォルダには、次号候補の短編案や没タイトルも雑に放り込まれている。最近はそこに、黒瀬関連の事故記録が増殖していた。
『猫ポエム事変』
『唐揚げ不可逆裁判』
『通知音の自我』
どれも創作案というより押収品目録に近い。秩序はだいたい、部長の篠原ともき一人に背負わされている。
しかも、つきのの雑な共有設定により、リンクを知っている人ならコメントだけは残せる仕様だった。
「ジャンル何にする? ホラー? ラブコメ? 実用書?」
「ウイルス対策本だろ」
ファイルのタイトル欄に、つきのは何の迷いもなく『画面の隅に棲む男』と打ち込んだ。その瞬間、共有ファイルのコメント欄に新しい通知が出る。
【ともき:分類してください。ジャンルは何ですか】
「部長、反応早。今日は画面の人口密度高いね」
つきのは淡々と言いながらチャットを打った。
【つきの:実録系黒歴史ファンタジー】
すみれが何かを思いついたようにぱっと顔を上げる。
「あ、そうだ! 本人にも送ろうよ。本人監修ついた方が実話性上がるんじゃない?」
「上がってほしくない実話性なのに、推薦文だけ気になるな」
「じゃあそっちにもリンク送るね。めるちゃんも一緒に出演予定だから」
「送るな。……いや、待て」
橘は止めるより先に、画面右下の小さな黒瀬に意識が飛んでいた。
本人に苦情を言ったところで、おそらく改善する。改善して、もっと困る方向へ進む。
なら、先に素材にした方がまだ精神衛生上いい。
「やっぱリンクくれ。苦情窓口への資料共有は必要だから」
つきのから送られてきたリンクを、橘はスマホの共有画面から黒瀬を選んで送った。
トーク画面は開かない。開いたら負けだ。
『参考資料』
送信。
すみれが吹き出した。
「今、右下の生き物に餌あげた! 完全に飼育してるじゃん」
「ただの苦情」
「黒瀬くんの場合、苦情もアップデート素材なんよ」
「まあ、さすがに反応してこないだろ。してきたら人間として負けだし」
橘はスマホを伏せた。
返事は来ない。来なくていい。
その代わり、表示補助ビューアの右下で、小さな黒瀬が一度だけ瞬きをした。
【共有ありがとうございます】
「こっちで返事すんな」
PC自習室の数人がこちらを見た。さっきより視線が多い。たぶん、パソコンに話しかける人間として認識された。
「めるシー、パソコンにキレる人になってるよ」
「中に住まれたら家主はキレるだろ。退去せずに部屋ごと事故物件にするタイプだし」
橘は深く息を吐いた。
黒瀬本人はいない。PC自習室にも、廊下にも、斜め後ろにもいない。
それなのに、画面の隅にいる。
通知音になろうとして教授に処理された男が、今度はPDFの右下に入居していた。
資料自体は見やすいので、右下の黒瀬さえいなければ、普通に感謝していた可能性がある。ウイルスのくせに役に立つな。
だが、便利だとしてもまずは退去である。
橘は読解窓の右上にある×印を押した。
【この読解窓を閉じますか?】
【まだ観測が完了していません】
【あと三行です】
「引き止めしつこいタイプの解約フォームきた」
橘は閉じるのを諦め、確認表示だけを消した。
読解窓は残っている。便利な迷惑は、消す手順まで面倒くさい。
黒瀬本人が出てこない分、殴る相手がいない。文句を言う相手は画面の隅にしかいない。しかも小さい。
橘がしばらくノートパソコンの右下を眺めていると、今度はスマホに通知が出た。
『めるシー、あとでフラペ会議』
通知は普通に表示されている。消えてもいないし、畳まれてもいない。
だがその直後、表示補助ビューアの右下で、小さな黒瀬が瞬きをした。
【外部誘導:甘味】
【読解後に確認推奨】
「……は?」
「あ、それ今あたしが送ったやつ。なんで分類されてんの? フラペ会議、集中力より大事なときあるよ?」
「それはない」
「あるよ。心の糖分だから」
続けて、別の通知が落ちてきた。
差出人は佐伯まさきだった。
その瞬間、表示補助ビューアの右下にまた注釈が出る。
【佐伯まさき:外部誘導】
【注意散逸リスク:高】
【確認推奨:読解後】
「外部誘導って何。駅前の客引きじゃねぇんだから」
注釈は内容ではなく、差出人だけで決めつけているようだった。
つきのが椅子にもたれながら、うっすら笑う。
「内容読んでないのに失礼なの逆に高度だね。やっぱり愛の不法投棄だったか」
「これさー」
すみれが白紙のドキュメントを開いたまま、真面目そうな顔をする。相変わらず一文字しか進んでいない。
「PC相談? 恋愛相談?」
「画面に出るならPC相談。心に出るなら恋愛相談」
「心にも画面にも出てくんな」
負けている。小さい黒瀬にキレている時点で、完全に負けている。
そもそも今この会話をしている時点で、心の方にはもう出ている。
すみれがにやにやしながら身を乗り出した。
「じゃあ両方じゃん。大変だね、めるシー。サポート窓口二つ必要」
「恋愛相談の窓口は閉鎖しました」
「でも不審者が画面に出てるのは普通にやばいよ。本人に言っても、もっと見やすい不審者にアップデートされそうだし。例の情報系イエメン、呼べば?」
「例のって誰だよ」
すると、つきのが静かに答えた。
「PC相談室の駐在カラスでしょ。めるちゃんの元彼枠の」
そこで橘はようやく、彼を選択肢として認めた。
「……あー、その手があったわ」
登録名は、Raven。
本名は、烏丸れいぶん。
橘の元彼で、学内のPC相談室にだいたい座っている情報系の男。
恋愛相談には真面目すぎるズレた答えを返してくるが、画面に不審者が出る相談ならおそらく一番早い。
橘は烏丸のDMを開き、短く打った。
『れいぶん、画面に不審者が出る』
送信。
すぐに既読がついた。
『黒瀬じぇにさんですか』
「判断早」
橘が呟く。
次の返信もすぐだった。
『資料ですか』
橘はノートパソコンの右下を見た。
『PDF補助ビューア。右下に住んでる』
数秒だけ間が空いた。
『わかりました。すぐ見ますので、画面をそのままにしておいてください。今どちらですか』
橘が場所を送ろうとしたそのとき、スマホの上に別の通知が落ちてきた。
『める』
黒瀬だった。
たった二文字。文章としては何も言っていないのに、圧だけは長文だった。
橘はそこで、さっき自分が送った『参考資料』のことを思い出した。
文芸部の共有リンク。タイトルは『画面の隅に棲む男』。
黒瀬にとっては、自分の表示補助を他人に見せられたようなものなのだろう。
「……今さら不安になってんのか、あいつ」
「めるシー、右下の怪異と本体通知と駐在カラスに挟まれてるじゃん。三面ボス戦?」
「突発イベントやめろ、まだセーブできてない」
橘の指が止まる。場所はまだ送っていない。
だがその直後、PC自習室の扉が静かに開いた。
「……呼びましたか、める様」




