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黒瀬によれば、これは純愛らしい。  作者: 柊ナツキ
第2章『世界の音量を下げる』

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第5話 追いポータル、運用開始

 

 無響大学の廊下は、だいたい常に音割れしている。


 椅子を引く音。課題の締切を今さら思い出した学生の悲鳴。自販機の前で小銭を落とす音。遠くの教室から漏れてくる教授の声。


 その全部が混ざって、講義終わりはいつも通り賑やかだった。


 昨日、すみれに「人間界へ戻す」と宣言されて、駅前の新作フラペチーノとラメを見に連れていかれたために、橘の鞄の底にはまだ小さな紙袋が入っている。

 すみれに似合うと言われて買った、キラキラしたラメのアイシャドウ。


 すみれの声は、まだ耳に残っている。明るくて、軽くて、あとに湿度が残らない声だった。


 そう思い返していると、今度は別の名前が画面の上に出た。


 佐伯まさき。


『今日行ける? 飯でも飲みでも』


 この前、居酒屋で黒瀬の情報量に耐えきれず自主避難した男である。

 橘は廊下の端に寄り、親指でタップして返信した。


『奢り?』


 佐伯からの返信は早かった。


『奢り』


 橘は迷わなかった。


『行く』


 以上。

 人生には、長い説明より短い「奢り」の方が強い瞬間がある。


「……それだけで?」


 隣から声が落ちてきた。

 さっきまでそこにいなかったはずの黒瀬が、当然のように隣に立っていた。


 橘は画面から目を離さずに返す。


「何が?」


「それだけで行くの」


「奢りって書いてあるだろ」


「僕が誘う時は、理由を説明しても来ないのに」


「あんたの説明は重いんだよ。飯行くだけで儀式起こされたら、食う前に満腹なるわ」


 黒瀬は黙った。

 怒っているわけではない。ただ、目の奥で何かを静かに記録した顔をしている。


「じぇに、今なんか保存したろ」


「してない」


「嘘つくなら、もう少し人間らしく動揺しろ」


「動揺はしてる」


「してる顔で無音になるな。怖いんだよ」


 橘はスマホをポケットにしまった。


「飯行くだけだから。この前の続きでもないし、あんたの裁判でもないし、唐揚げの審理でもない」


「僕も行く」


「来んな」


 黒瀬は目を伏せ、数秒だけ黙り込む。


「『奢り』だけで、君は行くんだね」


「楽でいいよ」


「僕が理由を並べるより、ずっと早い」


 責めてくる様子ではない。だからこそ、返事の置き場所が少しだけ分からなくなる。


「軽いから動けるんだよ。あんたの誘いは、行く前から疲れる」


「疲れさせたいわけじゃない」


「結果の話してる」


 廊下を流れる学生たちがちらちらとこちらを見るが、誰も足を止めない。

 橘にとってはただの放課後でも、黒瀬だけがその場に取り残されたみたいに黙っていた。


「じゃ、もう行くわ。今日ついてきたら退場ね。大学生としての社会性から」


「重いね」


「あんたが言うな」


 橘は軽く手を振って、廊下を歩き出した。


 背中に視線を感じる。だが、ついてきてはいない。

 気にはなるが、振り返らなかった。振り返ったら、たぶん黒瀬の中でまた何かの記念日になる。


 ◇◇


 駅前の肉バルは、この前の居酒屋より少しだけ明るかった。

 木目調のテーブルや壁の黒板メニューは、いかにも若者向けに映えそうな造りである。


 油の匂いも、焼けた肉の音も、隣の席の笑い声も、全部それなりにうるさい。けれど、居酒屋のときみたいに一つ一つの音へ意味をつけられていないだけで、ずいぶん楽だった。


 うるさい場所は嫌いではない。勝手に静かにされる方が、よほど落ち着かない。


 席に座ると、佐伯はメニューを広げた。


「好きなの頼んでいいよ。この前の補填もあるし」


 彼は前回よりもラフな格好をしていた。

 スニーカーにスキニー、シンプルなシャツ。金メッシュの髪が店の照明に当たって光る。


「っしゃ、言質取った。居酒屋の分までリベンジ行くわ」


「こわ、食べ放題の目になったじゃん。奢りって言葉への反応速度えぐくない?」


「私は奢りの前で遠慮するほど育ち良くないんだよ」


 橘はほとんど迷わず注文を決めた。

 肉盛り、アヒージョ、米、それからチーズのかかった何か。


「今、何人前のつもりで頼んだ? 肉バルと戦争するつもり?」


「勝つよ」


「俺の財布は負けそう」


「財布にも経験積ませな」


「財布の育成ゲームじゃないんだわ」


 佐伯は笑った。


「前も思ったけど、橘さんって普通におもろいよね」


「猫男の話聞きに来たんじゃないの?」


「それ込みで、本人も話しやすいし。飯の頼み方に遠慮なさすぎて一緒にいて楽だわ。逆に」


「判断基準しょぼ。褒めてんの?」


「うん。かなり」


 前回より少しだけ距離が近い。けれど、重くはない。

 佐伯との会話は後に残りすぎない。飲み終わったグラスの氷みたいに、その場で溶けていく。


 黒瀬の言葉は、短くても部屋の隅に湿気みたいに残る。

 今は佐伯の軽さがちょうどいい。


 そんなふうに思っていると、橘のスマホが震えた。画面に一件の通知が表示される。


【授業支援システム:新着メッセージ】

 科目:情報倫理概論

 差出人:黒瀬じぇに

 件名:確認


「……は?」


 橘は目を細めた。


 授業支援システム。

 履修登録、課題提出、資料共有、教員からの連絡。大学生が日々なんとなく開かされる、通称ポータルである。

 本来は、学生を講義へつなぐ入口だ。

 少なくとも、飯に行った相手を確認するための監視用インフラではない。


 開く前から、嫌な予感しかしなかった。


『どこ』


 橘は見なかったことにした。

 だがすぐに次が来る。


【授業支援システム:新着メッセージ】

 件名:追加確認


『誰と』


 さらに一通。


【授業支援システム:新着メッセージ】

 件名:食事


『何を』


 橘はスマホを伏せた。


 短い。

 廊下で見た佐伯の『奢り』を、黒瀬なりに学んだらしい。ただ彼の場合、文字数を削れば削るほど余白に重さが溜まる。


「また猫男?」


「授業支援システムで追い連絡してきた」


「公式経由!?」


「そう。しかも私用で」


 橘が画面を見せると、佐伯は数秒黙ってから、耐えきれずに笑った。


「追いメッセージというか、追いポータルじゃん」


「語感が終わってて草生える」


「てか情報倫理の画面で倫理を殺してんじゃん」


 画面の上に、さらに通知が積もる。


 件名:水分補給

『水』


 橘は肉が来る前から、最悪なデジタル胃もたれを起こしそうだった。

 黒瀬はここにいないはずなのに、画面の隙間から染み出してくる。


 ただ、店にまで来ていないだけマシだ。少なくともこのときの橘はそう思っていた。

 画面の中にいるだけなら、最悪スマホを伏せれば済む。

 済むと思っていた時点で、だいぶ判断が甘かったかもしれない。


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