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黒瀬によれば、これは純愛らしい。  作者: 柊ナツキ
第2章『君に届く、その前に』

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第7話 人間が鳴るな

 講義室という場所は、人間をじわじわ眠らせるために設計されている。


 白い壁も、薄い机も、中途半端に効いた空調も、橘にとっては退屈すぎて意識を遠のかせるものだった。

 前方のスクリーンには、そこそこ重要そうな文字列が並んでいる。


「情報は、送信された時点では完結しません」


 教授は真面目に話していた。


「受け手がそれを見て、解釈し、行動に移す。そこで初めて、情報は現実に影響を持ちます」


 内容だけ聞けば、たぶん大事な話だった。

 だが、その声は内容を運ぶ前に、眠気だけを律儀に届けてくる。


 橘は頬杖をつきながら、ノートの端に意味のない線を引いた。


 一昨日はすみれと恋バナ。

 昨日は佐伯と肉バル。


 橘は順当に人間界へ戻りつつある。


 問題は、黒瀬本人が近くにいないときですら、黒瀬関連の単語だけで体力が削られることだ。

 すでに概念が迷惑だった。


 ちなみに昨夜作ったばかりの苦情窓口は、すでに苦情以外で使われていた。

 今朝、橘が講義前にスマホを見ると、通知一覧に黒瀬の名前が並んでいた。


『帰れた?』


『水は飲んだ?』


『今日の肉は、僕より正しかった?』


『通知について考えた。君は読む前に反応する。音が鳴ったとき、画面が光ったときに視線がそちらへ向く。だから、到達条件を再設計する必要がある。君が見る前の──』


 橘はそこでスマホを伏せた。


 恋文というより犯行声明である。

 トーク画面は開かず、既読もつけていない。だが、あの長さの時点でだいたい有罪だった。


「未読のまま敗訴させとこ」


 それでも、橘の中ではかなり穏便な対応だった。


 橘の隣にはすみれが座っている。

 机の上には講義資料、ペン、カフェオレ、そして「今は勉強中です」という顔で伏せられたスマホ。


 すみれは開始十分で飽きていた。

 それでも一応、ノートは取っている。字は踊っているが、出席している時点で大学生としては上等だ。しかも、この女はなぜか成績も悪くない。


 すみれのさらに向こう側には、吉田つきのがいた。


 暗いブルーブラックの髪を緩くまとめ、退屈そうな顔で教壇を見ている。

 涼しげな美人だが、笑うときだけ口元に毒が出る。


 つきのは真面目にノートを取っているように見えて、たまに橘たちの会話だけを拾っている。授業内容より、人間関係の方を記録しているらしい。


「めるシー」


 すみれが小声で囁いた。


「今の教授の話、黒瀬くんに聞かせて大丈夫なやつ? 情報が現実に影響を持つ、ってさ。あの人、絶対変な単位取るじゃんね」


「フラグ立てんなって」


 今度は、つきのがペンを走らせながら言う。


「レポート名は『恋愛感情の迷惑メール化』かな」


「配信停止できないタイプのやつやめろ」


 橘は小声で返しながら、前を見る。


 少し離れた斜め後ろの席に、黒瀬もいた。

 講義中の彼は静かで、姿勢よくノートを取っている。


 黙っていれば本当に普通だった。

 教授の話を聞いているように見えるし、ペンも動いている。ただし、何を書いているかは見ない方がいい。


「情報は、受け手の注意を奪った時点で、ただの文字列ではなくなります」


 教授の声は相変わらず平坦で、空調の音は薄く、誰かがペンを落とした音がやけに響く。

 眠気と退屈が、講義室の隅々まで均等に行き渡っている。


 その中で、ひとつだけ場違いな音がした。


 ピコン。


 橘のスマホではない。

 前方の席に座っている男子学生が、慌てて画面を伏せるのが見えた。


 普通なら、それだけで終わる。


 だが音が鳴った直後。

 橘の後方から、温度のない声が落ちてきた。


「ピコン」


 橘のペン先が止まった。

 すみれのカフェオレのストローも止まった。

 つきののペンだけが、遅れて止まった。

 教授の声だけは、そのまま前方で続いている。


 橘はゆっくり振り返った。


「……今の何」


 さっきまで模範的にノートを取っていた男が、何事もなかったようにそこにいた。


「通知音を言った」


「きっしょ。ついにスマホ以下の存在になったの?」


「スマホを介さず、直接めるに届く通知になった」


「直通になった分キモさが直で来てんだよ」


 黒瀬は真面目な顔で、机の上に手を置いていた。


「君が最初に反応するのは文よりも音だった。だから、そこに僕を置いた」


 すみれが隣で肩を震わせている。


「待って。人間が鳴った。あたし今、歴史の立ち会いしてる?」


 つきのが笑いを噛み殺しながら言う。


「配信停止ボタン、どこ?」


 黒瀬は一度だけ瞬きをした。

 何かを訂正するのではなく、より悪い形に整え直した顔だった。


「通知音の代わりでもいいよ。めるが振り向くなら」


「通知音の分際で情緒重すぎだろ」


 だが実際、振り向いてしまった。

 その一点だけで、黒瀬は最悪の勝利判定を得た顔をしている。


 橘は即座に前を向いた。


 すると、またどこかでスマホが鳴る。


 ピコン。


「……ピ」


「後ろの君」


 黒瀬の声を、教授がぴたりと止めた。


 講義室の空気が、薄く凍る。

 黒瀬が顔を上げた。


「はい」


「情緒の乱れによる異音は、廊下で処理しなさい」


 講義室の数名が吹き出した。


 すみれは完全に机に沈み、つきのは肩だけを小さく震わせている。

 橘は天井を見た。

 教授、専門外の化け物にも強い。


 黒瀬は真顔で答える。


「異音ではありません。めるへの到達試験です」


「試験会場を間違えています」


「再試験は」


「ありません。次に鳴ったら出席ではなく現象として扱います」


「理解しました」


 黒瀬は静かに頭を下げた。

 反省しているように見える。

 見えるだけである。


 教授は何事もなかったかのように再び講義を始めた。


 すみれが机に伏せたまま小声で囁く。


「教授の言い方ガチでおもろすぎるんだが。イエメンの着信音、ちょっと需要ありそう」


 つきのは口元に笑いを浮かべながら、ノートの端に何かを書いた。


『通知音の自我』


 タイトルだけで悪意が完成していた。


「つきの、書くな。広まる」


「広まる前に本人が鳴ったから、こっちは記録してるだけだよ」


 黒瀬は彼女らの会話を聞きながら黙っていた。反省ではなく、たぶん単語登録である。


 すると今度は、机の上に置いていた橘のスマホが震えた。画面だけが一瞬だけ薄く光る。

 ロック画面に差出人の名前が映った。


【学食アプリ】


 内容の全文は読めない。ただ、冒頭に表示された「唐揚げ」の四文字だけは見えたので、橘は反射的に中身を開いた。


『唐揚げ増量フェア、本日より開始』


 一言一句が人の視線を動かす内容だった。

 仕方がない。人間はそこまで強くない。


 だが画面を伏せるより先に、背後の空気が重くなる。

 黒瀬は何も言わなかった。さっきみたいに「ピコン」と鳴ることもない。

 それなのに、分かる。

 人間通知音として教授に処理された男が、今度は無音で学食アプリに負けている。


 橘は黒瀬の反応が気になったが、振り返らなかった。振り返った瞬間、黒瀬の中でまた何かの検証結果にされそうだからだ。


 だがすみれは違った。

 好奇心に負けた女友達は、講義中にも関わらずそろりと後ろを盗み見る。

 そして次の瞬間、肩を震わせた。


「めるシー。黒瀬くんが今めちゃんこおもろい顔してる」


「実況いらないって」


「人間通知音が、学食アプリに正社員の座を奪われた顔」


「その例えやめろ、マジ笑う」


 橘は耐えきれず、肩を震わせてノートに顔を伏せた。

 笑ってはいけない。今笑うとまた何かを保存される。そう思った時点でもう遅かった。


 斜め後ろの空気がまたさらに変わる。

 橘がすみれの言葉で笑った。しかも、画面を見たあとに。

 黒瀬がその前後関係を見逃すわけがなかった。


 それでも講義は、黒瀬だけを例外処理したまま続いていく。


 そして授業終了の十分ほど前、教授はスクリーンを切り替えた。


「では、次回までに補足資料を読んでおいてください」


 画面にQRコードが映る。


「メディア表現論の補足資料です。タイトルは『視覚情報と注意の誘導』。小レポートも出します」


 橘はそのタイトルを見た瞬間、嫌な顔をした。


 視覚情報。注意の誘導。

 今日この教室で一番誘導されていたのは橘の注意であり、誘導元は教授ではなく斜め後ろの人間通知音だった。


「課題の提出期限は来週の講義前まで。資料そのものは長くありませんが、読み飛ばすと書きにくいと思います」


 教授は淡々と、読み飛ばす前提の人間に向けて正確に釘を刺してくる。


 すみれが机に伏せたまま小声で呻いた。


「読み飛ばし、先回りで殺された」


「逃げ道まで塞ぐなよ」


 講義終了のチャイムが鳴り、学生たちが立ち上がって廊下へ出ていく。

 椅子を引く音、鞄を持ち上げる音、誰かが「課題だる」と言う声が重なって、講義室は一気に人間の場所へ戻った。


 橘が鞄を持って立ち上がると、黒瀬も静かに立った。

 すみれとつきのは橘の横に並び、黒瀬だけが半歩後ろについた。


「黒瀬くん。人間は通知音にならない。これ社会の基本だかんね!」


「理解した」


「理解した人間の顔じゃないんだが!」


 すみれはけらけら笑った。


 つきのはノートを鞄にしまうと、一度だけ黒瀬を見て、涼しい顔で言う。


「午後はマナーモードがオススメだよ」


「僕は鳴ってない」


「じゃあ末期だね」


 そのまま四人で廊下へ出る。

 学生たちが次の教室へ流れていき、話し声と靴音が重なっていた。


 橘は廊下に出てすぐ、スマホで補足資料を開いた。


 画面に出たPDFは、白黒の壁だった。


 文字が詰まっている。段落の間が狭い。図はあるが、どこを見ればいいのか分からない。

 読む前から眠い。


「うわ、PDFめんどくさ……。人間に読ませる気ある?」


 橘がぼやくと、半歩後ろから黒瀬の声がした。


「表示だけなら整えられる」


「異音のくせにそんなことできんの?」


「君が嫌なら、もう音では呼ばない」


「音消しても思想が爆音なんだよ」


 黒瀬は否定せず、橘のスマホ画面を見た。正確には、スマホではなくPDFを見ている。


 黒瀬はPDFを一瞥した。文字の詰まり方だけで、もう橘の敗北ルートを読んだ顔をしていた。


「この資料は、君にはこの順番の方が読みやすい」


「その『君には』がもうキモい」


「でも、読めるようにはなる。勝手にはしない。君が許可した分だけ、僕が整える」


 黒瀬のまともそうな言い方に、橘が興味を惹かれそうになったその瞬間。

 すみれが横で吹き出した。


「待って。人間通知音、今度は同意取得フォームになったの?」


 今度はつきのが首を横に振った。


「教材補助の訪問販売でしょ。契約書も読ませる気ないし返品窓口なさそう」


「待て待て。今買いかけたのに縁起悪いこと言うな」


 すみれとつきのは笑いながらも、ちゃっかり橘のスマホを覗き込んだ。


「でも、見やすくなるならちょっと見たい。あたし、もうタイトルだけで脳が帰宅した」


「標本としては興味あるね。便利な迷惑行為が、どこまで教材補助の顔をできるのか」


「表示補助だよ。めるが迷わないように、見る順番を整えるだけだ」


 黒瀬が訂正した。訂正した結果、余計に悪く聞こえる。


 橘はスマホと黒瀬を交互に見た。


 正直、PDFは本当に面倒くさい。読まなければ小レポートが死ぬ。小レポートが死ぬと単位が死ぬ。単位が死ぬと橘が困る。


 黒瀬は面倒。単位は、もっと現実的に面倒。

 面倒なもの同士を秤にかけた結果、橘は一番現実的な選択をした。


「一回だけ。表示だけ。元データはいじるなよ。変なところ触ったらあんたを補助ごと燃やす」


「分かった」


 黒瀬は橘のスマホには触れなかった。


 その代わり、自分の端末をこちらへ向ける。画面には、小さなQRコードが表示されていた。

 今作ったというより、ずっと呼び出す場所を待っていたみたいな速さだった。


「これを読み込んで。許可画面が出る」


「許可って単語にあんたが関わると、だいたいろくでもないことになるんだよ」


 文句を言いながらも、橘はQRコードを読み込んだ。

 画面に小さな確認表示が出る。


【表示補助を有効化しますか?】

【元データは変更されません】

【読解順序・強調表示・余白調整を行います】

【この表示補助リンク内に保存されます】


「権限、読んでから押しなよ」


 押す直前につきのが言ったが、橘は軽く聞き流し、そして確認画面を読み流した。


「読んだ。『元データは変更されません』だけ読んだ。レポートに必要な情報はそこまで」


 すみれが両手を合わせた。


「単位様はヤンデレより強い! ついでにあたしのにも入れて! 課題救済してほしい」


「まだ、める用にしか調整してない」


「教育系アプリとしての未来、今閉ざされたんだが」


 つきのが静かに頷く。


「個人情報の墓標みたいな台詞だったね」


「この際見やすくなるならいいわ。単位様の前ではヤンデレも参考文献なんだよ」


 橘はため息をつき、画面の【許可】を押した。


 次の瞬間、PDFの見え方が変わった。


 詰まりすぎていた段落に余白が入り、見出しが薄く強調される。図の横には短い補足が出た。重要そうな語句にだけ、控えめな下線が引かれている。


 強調の癖が、橘の読み飛ばしそうな場所ばかりを先回りしていた。

 腹立つくらい、目が滑らない。


 すみれが目を丸くする。


「え、普通にすごくない? 黒瀬くん、執着外したら食ってけるよ」


「執着外したら中身残るの? 外せない部品が本体なんじゃないかな」


 黒瀬はすみれとつきのの会話に構わず、橘だけを見ていた。


「どう?」


 橘は数秒黙った。


 認めるのは癪だ。非常に癪だ。

 だが、見やすいものは見やすい。


「……腹立つけど、便利」


 その一言で、黒瀬の目がわずかに静かになった。

 喜ぶでもない。笑うでもない。

 ただ、何かが正しく接続された顔だった。


「なら、よかった」


「よくはない。便利と無罪は別だからな」


「うん」


 返事だけは素直だった。

 だが、橘は知っている。黒瀬の「うん」は、同意ではなく保存の場合がある。


 すみれが橘の肩をぽんと叩いた。


「じゃ、めるシー。あたし先にフラッペ見とくね。新作、黒瀬くんより甘かったら勝ち」


「比較対象が重すぎる」


 つきのも歩き出しながら言う。


「あとで感想聞かせて。教材補助か、愛の不法投棄か」


「既に後者寄りだわ」


 二人が人混みに紛れていく。


 橘はもう一度、スマホの画面を見た。

 画面の右下で、ほんの小さな読み込み表示が一瞬だけ回る。


 橘は気づかなかった。すみれも、つきのも、もう見ていなかった。

 黒瀬だけが、それを見ていた。


「……画面の隅なら」


 廊下のざわめきに紛れるほど小さな声で、黒瀬は呟いた。


「君は、見るんだね」

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― 新着の感想 ―
黒瀬君の異常さや橘さんの雑さ、不穏な展開(どこか安心感があるが)がメインだろうけど、大学生の友達同士の掛け合いも面白い。 ごく軽い会話、やりとりで、ああ、この子らちゃんと友達やってんなあって。 でも、…
黒瀬君の言葉の定義がおかしすぎて、いい。 偶然はかくのとおり。 保存がまた、なんていうか不気味で。 昔(30年くらい前だけど)、カメラの代わりに、数秒の音と映像を記録する媒体が一瞬だけ発売されたのだけ…
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