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黒瀬によれば、これは純愛らしい。  作者: 柊ナツキ
第2章『世界の音量を下げる』

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第3話 その音、少し嫌いになった

 

 その時だった。


 ピコン。

 橘のスマホが鳴り、光った画面を反射的に見る。


『今日どうなった?』

『飲み会まだいる?』

『飲み終わったら合流しよ』


 橘にとっては、ただの通知だった。

 うるさいけど飯のタネ。暇つぶし。適当に流せる会話の入口。


 だが黒瀬の目が止まった。


 店内は相変わらずうるさい。隣の卓は笑っているし、厨房では油が跳ねているし、店員は注文を読み上げている。

 その全部の中から、黒瀬は橘のスマホの音だけを拾っていた。


「……その音、少し嫌いになった」


 声の温度が変わった。

 さっきまで唐揚げのレモンで不可逆性を語っていた声なのに、今だけは低い。


 橘はなんとなくスマホを伏せた。


「通知に嫉妬すんな」


「嫉妬じゃない。処理対象として認識しただけ」


「言い換えで怖さ増してるぞ」


「鳴るたびに、君が外を見る。僕じゃない音に首を向ける」


「見ますけど。通知なんで」


 橘は興味なさそうにポテトをつまむ。

 黒瀬はそれ以上何も言わなかった。


 佐伯は黙って水を飲む。笑いに変換できていたものが、急に喉を通りにくくなっていた。

 さっきまでなら、黒瀬の一言一言を「あとで誰かに話せるネタ」として拾えていた。


 けれど今は違う。


 橘が雑に切り返すたび、黒瀬がそれを当然みたいに受け取る。

 その呼吸が自然すぎて、佐伯だけが席を間違えた客みたいだった。


「……橘さん」


 佐伯は若干、顔をひきつらせていた。


「俺、今日ここまでで十分かも」


「はやっ。なんで?」


「これ以上いると、軽い話として持ち帰れなくなる。講義3コマ分くらいの情報を一気に浴びたわ」


 佐伯は苦笑しながら、テーブルの上に視線を落とす。


「猫男の話聞きに来たつもりだったけど、なんか……同じ卓で見るもんじゃないなこれ」


 佐伯は財布を出し、自分の分くらいの金をテーブルに置いた。


「奢るって言ったけど、ごめん。これ、俺の分と唐揚げ代ちょい。あとは……」


 佐伯の視線が黒瀬へ流れる。


「そっちの管理者に請求して」


「管理者じゃない。僕は支払い能力のある関係者だよ」


「もっと嫌な自己紹介になったな」


 佐伯は立ち上がった。


「じゃ、また大学で。次は普通に、普通の飯で」


「普通って言うとまた分解されるよ」


「あ、じゃあ……軽めの飯で」


「それも危ない」


「もう何も言えないじゃん」


 佐伯はそれだけ言い残して、店を出ていった。

 暖簾が揺れ、軽い男の軽い気配が店の外へ消えていく。


 残ったのは唐揚げと、橘と、黒瀬。それから店内の喧騒。


「……マジで追い払ったな」


 橘が言うと、黒瀬は少しだけ首を傾げた。


「結果としては」


「自覚ありかよ」


「彼は、めるの食事相手として適切ではなかった」


「誰なら適切なんだよ」


「僕」


「聞いた私に落ち度がある」


 橘は唐揚げをもう一つ取り、口にほおり込む。

 やはり美味しい。冷めかけていても、揚げた肉はまだ裏切らない。


「……じぇに、奢れ」


 黒瀬は目を瞬かせた。


「僕が?」


「飯代浮かす予定だったのに、あんたが邪魔してまさきが消えたんだから。責任取れよ」


「分かった」


 即答だった。


「めるが僕に請求した」


「金をな」


「僕に役割を与えた」


「財布としてな」


「これで今夜の君の食事に、正式に関与できる」


「レシートを契約書みたいに扱うな」


 黒瀬は当然のように、佐伯が去った席へ移動してきた。

 距離の詰め方だけは自然だった。なぜこういうときだけはスマートなのか。


「いつ座る許可出した?」


「支払いの当事者が同席するのは当然だと思うけど」


「当事者に着席権は付属しません」


「近い方が君の追加注文にも対応できる。ラストオーダーも聞き逃さない」


「財布のくせに居酒屋適性だけ高いな」


 黒瀬は橘の目の前に座ったまま黙り込み、橘が食べるのを見ていた。


 沈黙しても存在が静かにならない。

 こういう男を「黙ればマシ」と評した過去の自分に、今すぐ訂正線を引きたい。


 そういえば、黒瀬はまだほとんど何も食べていなかった。

 水だけを前に置いて、橘の食事を見ている。店の客というより食事記録アプリの人型端末だ。


 ずっと口を出して、観測して、勝手に守った気になっているくせに、自分の腹には何も入れていない。

 そういうところまで変に極端で、見ているだけでこっちまで満腹になる。


 とはいえ、目の前で具合でも悪くされたらそれはそれでだるい。


 本当に面倒な男だ。

 ただ、目の前で何も食べずにじっとされるよりは、唐揚げでも食べて黙っていてくれた方がまだマシだった。その判断がもうだいぶ終わっている気もしたが、今さらである。


「食え」


 橘は三つだけ残った唐揚げの皿を黒瀬の方へ押した。


「……え?」


「食いもせずに見てるだけだと店の怪談になる。あと、支払い担当が倒れたら会計が詰むんだよ」


 黒瀬は皿を見て、それから橘を見た。


「めるが、僕に食べろって言った」


「また変な解釈するなら撤回する」


「食べるよ」


 黒瀬は唐揚げを一つ取った。箸の持ち方まで綺麗で、中身以外は本当に無駄がない。

 一口食べて、目を伏せる。


「美味しいね」


「だろ」


「君が食べていたものは、本当に美味しい」


「感想がいちいち重いんだよ。あともう一個食え。皿に残ると私が食う羽目になる」


「わかった」


 黒瀬は素直に二つ目を取った。


 橘は残りのポテトをつまみながら、目の前の男を眺める。


 食べているだけで静かになるなら、今後も口に何か詰めておいた方がいいのではないか。

 そんな最低な解決策が一瞬浮かんだあたり、橘もだいぶこの男に慣れてきている。


 微妙な雰囲気ではあるが、さっきよりは少しだけ普通の食事に近かった。


「める。今日は君の周り、音が多かったね」


 橘はポテトを持ったまま固まった。


「待て。やめろ、すんな」


「まだ何もしていないのに」


「してからじゃ遅いんだよ。あんたの不気味な発言はだいたい災害予告になるから」


「駅前も、店も、通知も、全部うるさかった」


「金曜夜の居酒屋レビューとしては最低だな」


「でも、君は慣れてる。僕は、めるに届く音が多いことに慣れたくない」


 橘は嫌でも感じ取ってしまう。

 黒瀬が今、また余計な方向へ思考を伸ばしていること。

 彼の中で「通知音」と「佐伯」と「店のざわめき」が同じ箱に入れられ始めていること。


 分かった上で、橘は拾わなかった。

 拾うと長い。重い。湿る。そしてたぶん、何かが育つ。


 だから橘は無視して雑に水を飲んだ。


「まあ、あんたも相当うるさいけどな」


「僕は必要な音だよ。少なくとも、君を呼ぶための音ではある」


「自己評価だけ無線で飛ばすな。呼ぶな。勝手に来るな。あと払え」


「うん」


 黒瀬は財布を出した。本当に払う気でいるらしい。


 橘は皿に残った最後の唐揚げを口に入れた。衣は少し冷めていたが、まだ美味しい。

 しかし、最初に黒瀬が選んだ一個が一番美味かった。悔しいが、舌は嘘をつけない。

 彼はこういうところだけは外さないから癪なのだ。


 レモンは結局、誰も全体にはかけなかった。

 橘だけが自分の皿に絞った。かける派だからだ。不可逆は、橘本人の手によってだけ実行された。


 会計を済ませて外へ出ると、夜の空気が冷たく頬を撫でた。

 駅前よりは人が少ない。それでも、車の音も、店先から漏れる音楽も、どこかの誰かの笑い声も、遠くの電子音も、途切れることなく夜の中に混ざっている。


「あー、食った。じぇに、財布として30点な」


「低いね」


「唐揚げ選びで20点足して50点。本人が黙ってれば60点」


「じゃあ、60点」


「今喋ったから55点。あんたは発話で減点されるタイプだわ」


 黒瀬は少しだけ笑った。笑ったように見えた、が正しいかもしれない。


 橘のスマホが鳴る。

 ピコン。

 黒瀬の目が、そちらへ動く。


「いい加減その顔やめろ。通知音に親でも殺された?」


「親ではないよ」


「親以外なら何かあるみたいな返しだな」


 黒瀬は答えなかった。

 ただ、夜の駅前を見ていた。


 看板の光。人の声。通知音。笑い声。

 橘の周りにある黒瀬以外のものが、今日も勝手に鳴っている。


 橘にとっては、ただの夜だった。

 うるさくて、軽くて、明日にはほとんど残らない夜。


 けれど黒瀬だけは、それをただの夜として聞いてはいなかった。

 鳴っただけで、橘の目を外へ向けるもの。

 その音が、嫌だった。


 たぶん次に黒瀬が手を伸ばすのは、偶然という概念ではない。

 そして最悪なことに、黒瀬はたいてい、比喩を比喩のまま終わらせない。


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