第5話 置いポータル、運用開始
無響大学の廊下は、だいたい常に音割れしている。
椅子を引く音。課題の締切を今さら思い出した学生の悲鳴。自販機の前で小銭を落とす音。遠くの教室から漏れてくる教授の声。
その全部が混ざって、講義終わりはいつも通り賑やかだった。
橘は昨日、すみれに「人間界へ戻す」と宣言され、駅前の新作フラッペとラメ売り場に連れていかれた。
すみれに「似合う」と言われて買ったアイシャドウをさっそくつけてきたので、今日は比較的気分が良い。
すみれの声は、まだ耳に残っている。明るくて、軽くて、聞き終わったあとに何かを請求してこない声だった。
そう思い返していると、今度は別の名前が画面の上に出た。
佐伯まさき。
『今日行ける? 飯でも飲みでも』
この前、居酒屋で黒瀬の情報量に耐えきれず自主避難した男である。
橘は廊下の端に寄り、親指でタップして返信した。
『奢り?』
佐伯からの返信は早かった。
『奢り』
橘は迷わなかった。
『行く』
以上。
人生には、長い説明より短い「奢り」の方が強い瞬間がある。
「……それだけで?」
隣から声が落ちてきた。
さっきまでそこにいなかったはずの黒瀬が、当然のように隣に立っていた。
橘は画面から目を離さずに返す。
「何しれっと覗いてんだよ」
「覗いてない。君が動くまでの文字数を見ていた」
「観察項目がよりキモくなったな」
「僕が誘うときは、理由を説明しても来ないのに」
「あんたの説明は重いんだよ。飯行くだけで儀式起こされたら、食う前に満腹なるわ」
黒瀬は橘の顔をじっと見ていた。
怒っているわけではない。ただ、目の奥で何かを静かに記録した顔をしている。
「じぇに、今なんか保存したろ」
「してない」
「嘘つくなら、もう少し人間らしく動揺しろ」
「動揺はしてる」
「してる顔で無音になるな。怖いんだよ」
橘はスマホをポケットにしまった。
「飯行くだけだから。この前の続きでもないし、あんたの裁判でもないし、唐揚げの審理でもない」
「『奢り』だけで君は行くんだね。僕が理由を並べるより、ずっと早い」
責める声ではない。だから余計に、返事の置き場所が少しだけ分からなくなる。
「軽いから楽に動けるんだよ。あんたの誘いは、行く前から疲れる」
「短ければいい?」
「そういう話じゃない」
言った瞬間、橘は失敗したと思った。
黒瀬は否定された言葉より、拾いやすい部分だけを持っていく男である。
廊下を流れる学生たちがちらちらとこちらを見るが、誰も足を止めない。
黒瀬だけが、その場に取り残されたみたいに黙っていた。
「じゃ、もう行くわ。今日ついてきたら退場ね。人間社会からじゃなくて、まず大学生としての社会性から」
「重いね」
「あんたが言うな」
橘は軽く手を振って、廊下を歩き出した。
背中に視線を感じる。だが、ついてきてはいない。
気にはなるが、振り返らなかった。振り返ったら、たぶん黒瀬の中でまた何かの記念日になる。
◇◇
駅前の肉バルは、この前の居酒屋よりは明るかった。
木目調のテーブルや壁の黒板メニューは、いかにも若者向けに映えそうな造りである。
油の匂いも、焼けた肉の音も、隣の席の笑い声も、全部それなりにうるさい。けれど、居酒屋のときみたいに一つ一つの音へ意味をつけられていないだけで、ずいぶん楽だった。
橘はうるさい場所が嫌いではない。勝手に静かにされる方が、よほど落ち着かない。
席に座ると、佐伯はメニューを広げた。
「好きなの頼んでいいよ。この前の補填もあるし」
彼は前回よりもラフな格好をしていた。スニーカーにスキニー、シンプルなシャツ。金メッシュの髪が店の照明に当たって光る。
「今、いいって言ったね」
「言ったけど、その目は怖い。食べ放題だと思ってそう」
橘はメニューを三秒だけ見た。
「肉盛り、アヒージョ、米、ポテト。あとチーズかかってるやつ」
「三秒で財布を殺さないで」
「補填ってそういう意味でしょ」
「たぶん違う。でも今さら引いたら男がすたる気がしてきた」
佐伯は笑いながら店員を呼んだ。今は注文ひとつに思想も裁判も発生しない。
「前も思ったけど、橘さんって普通におもろいよね」
「猫男の話聞きに来たんじゃないの?」
「それ込みで、本人も話しやすいし。飯の頼み方に遠慮なさすぎて一緒にいて楽だわ。逆に」
「判断基準しょぼ。褒めてんの?」
「うん。かなり」
この前より少しだけ距離が近い。けれど、軽かった。
佐伯との会話は後に残りすぎない。飲み終わったグラスの氷みたいにその場で溶けていく。せいぜいコースターが濡れるくらいで、人生に跡をつけてこない。
そんなふうに思っていると、橘のスマホが震えた。画面に一件の通知が表示される。
【授業支援システム:新着メッセージ】
科目:情報倫理概論
差出人:黒瀬じぇに
件名:確認
「……は?」
橘は目を細めた。
授業支援システム。
履修登録や課題提出に使う、通称ポータルである。
教授が「グループ課題の連絡に使ってください」と言っていた受講者間メッセージ機能に、黒瀬の名前が表示されていた。
教授はたぶん課題連絡に使ってほしかったのであって、飯相手を確認する監視用インフラとして開放したわけではない。
『どこ』
橘は見なかったことにした。
だがすぐに次が来る。
【授業支援システム:新着メッセージ】
件名:追加確認
『誰と』
さらに一通。
【授業支援システム:新着メッセージ】
件名:食事
『何を』
橘はスマホを伏せた。
短い。廊下で見た佐伯の『奢り』を、黒瀬なりに学んだらしい。
ただ、佐伯の短さは軽さだった。
黒瀬の短さは、圧縮である。
文字数を削れば削るほど余白に重さが溜まる。真空パックの呪物みたいなものだ。
「また猫男?」
「授業支援システムで追い連絡してきた。しかも私用で」
「公式経由!?」
橘が画面を見せると、佐伯は数秒黙ってから、耐えきれずに笑った。
「追いメッセージというか、追いポータルじゃん。情報倫理の画面で倫理を殺してる」
画面の上に、さらに通知が積もる。
件名:水分補給
『水』
「公式インフラで一文字の圧かけてくんな」
黒瀬はここにいないはずなのに、画面の隙間から染み出してくる。
橘は肉が来る前からデジタル胃もたれを起こしそうだった。




