第3話 その音、少し嫌いになった
その時だった。
ピコン。
橘のスマホが鳴り、光った画面を反射的に見る。
『今日どうなった?』
『飲み会まだいる?』
『飲み終わったら合流しよ』
橘にとっては、ただの通知だった。
うるさいけど飯のタネ。暇つぶし。適当に流せる会話の入口。
だが黒瀬の目が止まった。
店内は相変わらずうるさい。隣の卓は笑っているし、厨房では油が跳ねているし、店員は注文を読み上げている。
その全部の中から、黒瀬は橘のスマホの音だけを拾っていた。
「……その音、少し嫌いになった」
声の温度が変わった。
さっきまで唐揚げのレモンで不可逆性を語っていた声なのに、今だけは低い。
橘はなんとなくスマホを伏せた。
「通知に嫉妬すんな」
「嫉妬じゃない。処理対象として認識しただけ」
「言い換えで怖さ増してるぞ」
「鳴るたびに、君が外を見る。僕じゃない音に首を向ける」
「見ますけど。通知なんで」
橘は興味なさそうにポテトをつまむ。
黒瀬はそれ以上何も言わなかった。
佐伯は黙って水を飲む。笑いに変換できていたものが、急に喉を通りにくくなっていた。
さっきまでなら、黒瀬の一言一言を「あとで誰かに話せるネタ」として拾えていた。
けれど今は違う。
橘が雑に切り返すたび、黒瀬がそれを当然みたいに受け取る。
その呼吸が自然すぎて、佐伯だけが席を間違えた客みたいだった。
「……橘さん」
佐伯は若干、顔をひきつらせていた。
「俺、今日ここまでで十分かも」
「はやっ。なんで?」
「これ以上いると、軽い話として持ち帰れなくなる。講義3コマ分くらいの情報を一気に浴びたわ」
佐伯は苦笑しながら、テーブルの上に視線を落とす。
「猫男の話聞きに来たつもりだったけど、なんか……同じ卓で見るもんじゃないなこれ」
佐伯は財布を出し、自分の分くらいの金をテーブルに置いた。
「奢るって言ったけど、ごめん。これ、俺の分と唐揚げ代ちょい。あとは……」
佐伯の視線が黒瀬へ流れる。
「そっちの管理者に請求して」
「管理者じゃない。僕は支払い能力のある関係者だよ」
「もっと嫌な自己紹介になったな」
佐伯は立ち上がった。
「じゃ、また大学で。次は普通に、普通の飯で」
「普通って言うとまた分解されるよ」
「あ、じゃあ……軽めの飯で」
「それも危ない」
「もう何も言えないじゃん」
佐伯はそれだけ言い残して、店を出ていった。
暖簾が揺れ、軽い男の軽い気配が店の外へ消えていく。
残ったのは唐揚げと、橘と、黒瀬。それから店内の喧騒。
「……マジで追い払ったな」
橘が言うと、黒瀬は少しだけ首を傾げた。
「結果としては」
「自覚ありかよ」
「彼は、めるの食事相手として適切ではなかった」
「誰なら適切なんだよ」
「僕」
「聞いた私に落ち度がある」
橘は唐揚げをもう一つ取り、口にほおり込む。
やはり美味しい。冷めかけていても、揚げた肉はまだ裏切らない。
「……じぇに、奢れ」
黒瀬は目を瞬かせた。
「僕が?」
「飯代浮かす予定だったのに、あんたが邪魔してまさきが消えたんだから。責任取れよ」
「分かった」
即答だった。
「めるが僕に請求した」
「金をな」
「僕に役割を与えた」
「財布としてな」
「これで今夜の君の食事に、正式に関与できる」
「レシートを契約書みたいに扱うな」
黒瀬は当然のように、佐伯が去った席へ移動してきた。
距離の詰め方だけは自然だった。なぜこういうときだけはスマートなのか。
「いつ座る許可出した?」
「支払いの当事者が同席するのは当然だと思うけど」
「当事者に着席権は付属しません」
「近い方が君の追加注文にも対応できる。ラストオーダーも聞き逃さない」
「財布のくせに居酒屋適性だけ高いな」
黒瀬は橘の目の前に座ったまま黙り込み、橘が食べるのを見ていた。
沈黙しても存在が静かにならない。
こういう男を「黙ればマシ」と評した過去の自分に、今すぐ訂正線を引きたい。
そういえば、黒瀬はまだほとんど何も食べていなかった。
水だけを前に置いて、橘の食事を見ている。店の客というより食事記録アプリの人型端末だ。
ずっと口を出して、観測して、勝手に守った気になっているくせに、自分の腹には何も入れていない。
そういうところまで変に極端で、見ているだけでこっちまで満腹になる。
とはいえ、目の前で具合でも悪くされたらそれはそれでだるい。
本当に面倒な男だ。
ただ、目の前で何も食べずにじっとされるよりは、唐揚げでも食べて黙っていてくれた方がまだマシだった。その判断がもうだいぶ終わっている気もしたが、今さらである。
「食え」
橘は三つだけ残った唐揚げの皿を黒瀬の方へ押した。
「……え?」
「食いもせずに見てるだけだと店の怪談になる。あと、支払い担当が倒れたら会計が詰むんだよ」
黒瀬は皿を見て、それから橘を見た。
「めるが、僕に食べろって言った」
「また変な解釈するなら撤回する」
「食べるよ」
黒瀬は唐揚げを一つ取った。箸の持ち方まで綺麗で、中身以外は本当に無駄がない。
一口食べて、目を伏せる。
「美味しいね」
「だろ」
「君が食べていたものは、本当に美味しい」
「感想がいちいち重いんだよ。あともう一個食え。皿に残ると私が食う羽目になる」
「わかった」
黒瀬は素直に二つ目を取った。
橘は残りのポテトをつまみながら、目の前の男を眺める。
食べているだけで静かになるなら、今後も口に何か詰めておいた方がいいのではないか。
そんな最低な解決策が一瞬浮かんだあたり、橘もだいぶこの男に慣れてきている。
微妙な雰囲気ではあるが、さっきよりは少しだけ普通の食事に近かった。
「める。今日は君の周り、音が多かったね」
橘はポテトを持ったまま固まった。
「待て。やめろ、すんな」
「まだ何もしていないのに」
「してからじゃ遅いんだよ。あんたの不気味な発言はだいたい災害予告になるから」
「駅前も、店も、通知も、全部うるさかった」
「金曜夜の居酒屋レビューとしては最低だな」
「でも、君は慣れてる。僕は、めるに届く音が多いことに慣れたくない」
橘は嫌でも感じ取ってしまう。
黒瀬が今、また余計な方向へ思考を伸ばしていること。
彼の中で「通知音」と「佐伯」と「店のざわめき」が同じ箱に入れられ始めていること。
分かった上で、橘は拾わなかった。
拾うと長い。重い。湿る。そしてたぶん、何かが育つ。
だから橘は無視して雑に水を飲んだ。
「まあ、あんたも相当うるさいけどな」
「僕は必要な音だよ。少なくとも、君を呼ぶための音ではある」
「自己評価だけ無線で飛ばすな。呼ぶな。勝手に来るな。あと払え」
「うん」
黒瀬は財布を出した。本当に払う気でいるらしい。
橘は皿に残った最後の唐揚げを口に入れた。衣は少し冷めていたが、まだ美味しい。
しかし、最初に黒瀬が選んだ一個が一番美味かった。悔しいが、舌は嘘をつけない。
彼はこういうところだけは外さないから癪なのだ。
レモンは結局、誰も全体にはかけなかった。
橘だけが自分の皿に絞った。かける派だからだ。不可逆は、橘本人の手によってだけ実行された。
会計を済ませて外へ出ると、夜の空気が冷たく頬を撫でた。
駅前よりは人が少ない。それでも、車の音も、店先から漏れる音楽も、どこかの誰かの笑い声も、遠くの電子音も、途切れることなく夜の中に混ざっている。
「あー、食った。じぇに、財布として30点な」
「低いね」
「唐揚げ選びで20点足して50点。本人が黙ってれば60点」
「じゃあ、60点」
「今喋ったから55点。あんたは発話で減点されるタイプだわ」
黒瀬は少しだけ笑った。笑ったように見えた、が正しいかもしれない。
橘のスマホが鳴る。
ピコン。
黒瀬の目が、そちらへ動く。
「いい加減その顔やめろ。通知音に親でも殺された?」
「親ではないよ」
「親以外なら何かあるみたいな返しだな」
黒瀬は答えなかった。
ただ、夜の駅前を見ていた。
看板の光。人の声。通知音。笑い声。
橘の周りにある黒瀬以外のものが、今日も勝手に鳴っている。
橘にとっては、ただの夜だった。
うるさくて、軽くて、明日にはほとんど残らない夜。
けれど黒瀬だけは、それをただの夜として聞いてはいなかった。
鳴っただけで、橘の目を外へ向けるもの。
その音が、嫌だった。
たぶん次に黒瀬が手を伸ばすのは、偶然という概念ではない。
そして最悪なことに、黒瀬はたいてい、比喩を比喩のまま終わらせない。




