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黒瀬によれば、これは純愛らしい。  作者: 柊ナツキ
第2章『君に届く、その前に』

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第4話 恋バナは通知音よりうるさい

 大学の学食における鮭定食、480円。

 それは、あらゆる意味で無難の極みだった。


 骨の抜き方は甘い。皮の焼き加減も、もう少しだけ頑張れる。小鉢のひじきは、誰の人生にも深く関わらない味をしている。

 けれど、味噌汁の塩分だけは申し分ない。


 橘は割り箸の先で鮭の身をほぐし、白米の上に乗せた。


 昨日、胃もたれしたのは油のせいではない。

 黒瀬である。


 唐揚げもレモンも、単体なら悪くない。問題は、それらを前にして「不可逆」などと言い出す男の方だ。


 鮭はいい。鮭は橘の人生に対して「僕が選んだ」などと言わない。ただ焼かれ、皿に乗り、箸でほぐされる。そういう慎ましさがある。


 今日の昼くらいは平和に過ごそう。

 橘はそう決めて、味噌汁をすすった。


「橘さん?」


 その平和は、味噌汁の湯気より早く消えた。


 トレーを持った女子が、橘の席の横で足を止めていた。

 顔は見たことがあるが、名前は知らない。同じ講義をいくつか取っている気がする。大学によくいる、薄い知人である。


「昨日の唐揚げ裁判って、マジ? レモンに判例できたって聞いた」


「ただの食事なのに伝わり方が最悪」


「あと、常温水の人って猫男と同一人物?」


「本人に聞けば?」


「無理。さっき聞こうとした子が、三秒見られて黙った。あれは面接じゃなくて無音の不採用」


「なんの選考だよ」


 女子は笑いながら去っていった。


 橘は鮭の皮を見つめた。

 ただ普通に昼飯を食べているだけで、知らない女子から黒瀬の話を振られる。


 少し前までの黒瀬は、橘の周囲に発生する個人的な災害だった。

 だが今は違う。近所迷惑な執着心が、キャンパス全体のエンタメとして消費されつつある。


 近くのテーブルからも声が聞こえた。


「黒瀬って橘に常温水出した人?」

「胃のSPらしい」

「なにそれ保護者?」

「違う。斜め後ろに座るタイプの守護霊」

「あー」


 あー、で納得されるのもだいぶ終わっている。


 橘は味噌汁をもう一口すすった。

 スマホにも、未読通知が増えている。


『佐伯途中で帰ったってマ?』

『黒瀬くんと唐揚げどっちが重い?』


「うるさ。私は飼育員じゃねえよ」


 橘は既読すら付けずにスマホを伏せた。


 講義内容より、黒瀬の奇行の方がよほど学内に定着している。巻き込まれた橘のスマホは、今や小さな掲示板だった。


 ついでに言えば、少し離れた席に黒瀬がいることにも気づいていた。気づいていたが、今日くらいは見えない設定でいく。


「めるシー!」


 その時、背後から明るく騒がしい声が飛んできた。


「相変わらず渋いもん食ってんね! 女王の昼飯、今日も老人ホーム寄り!」


「開口一番それ言うやつ、老人ホーム出禁だろ」


 鯉塚こいづかすみれは、空いている向かいの席に当然のように滑り込んできた。


 過剰に甘いフリルのブラウスに、なぜかごついライダージャケット。椅子の横にはフルフェイスのヘルメットを置いている。


 甘いのか強いのか、本人もたぶん分かっていない服装だ。薄い桜色の髪はゆるく巻かれていて、爪も目元もきらきらしている。唇の色も、今日の天気とは関係なく元気だった。


 すみれはいつも通り、学食の賑やかさに負けない声量だ。

 けれど、不思議と不快ではない。黒瀬の声みたいに、聞き終わった後で耳の奥に居座らない。


「聞いた? 唐揚げ不可逆事件。語感強すぎて、もう文芸部のネタにされてるらしいが!」


「それ朝から三回聞いたわ。なんならさっき、知らん女子から声かけられたし」


「完全に学内コンテンツじゃん。猫、ラブホ、唐揚げ、レモン、不可逆。大学生活というより奇行の実況アカウントになってる」


「否定できないのが腹立つ」


「──だから今日は、あたしが女王を人間界に戻す日です!」


 すみれはカフェオレにストローを刺しながら、誇らしげに言った。


「人間界ってなに。私いつから魔界レンタルされてた?」


「黒瀬くんと唐揚げと通知欄の三角地帯はほぼ魔界。危険区域すぎるんよ。最近ずっとあっち側に拉致られてたっしょ?」


「んなわけ……」


 否定は、しきれなかった。

 例の猫ポエム以降、同じような話題を浴びる日が続いている。面白くはあるが、胸焼け気味になる情報量。

 学食でも、廊下でも、通知欄でも、黒瀬が発生する。

 本人がいない時ですら、話題として居座る。


 気づけば、すみれや友人たちと関わる時間が少しずつ削られていた。


「というわけで、今から猫男の話題禁止。通知欄も見るの禁止」


「自分から振ったくせに」


「振ったうえで禁止するのが女友達の特権なのです」


 すみれはサンドイッチの袋を開けた。昼食というより、可愛い女の顔面で押し切る栄養バランスだった。

 橘は呆れつつも、スマホを裏返してカバンに放り込んだ。画面が見えなくなるだけで、通知欄の騒がしさが遠のく。


「今日こそ、あたしのめるシーを返してもらう! 猫男に独占配信される前に!」


「誰がサブスクだ」


 すみれは軽い。けれど完全な冗談でもない。

 橘にもそれが分かり、思わず笑みがこぼれた。


「じゃあ何の話すんの」


「そりゃもう圧倒的に恋バナよ。恋バナでタチバナを人間界に戻す!」


「苗字で韻踏むな」


 すみれはサンドイッチを片手に、軽い口調で話しはじめた。


「この前の飲み会にいた男さ、顔は結構イエメンだったんだけど、メッセージの句点が重かったんよ」


「イエメンで草。国かよ」


「そうそう、国宝級。でも、『今日は楽しかった。』の丸に圧があったから微妙に引いたんよな。あの丸、こっちの逃げ道塞いでくるタイプだった」


「句点に湿度感じるのだいぶ末期だろ」


 橘は笑ってしまった。


 くだらない。本当にくだらない。

 でもそのくだらなさが今は新鮮に感じられる。


 すみれは誰かの好意を保存したり、契約にしたり、記念日にしたりしない。その場で笑って、次の話題へ流していく。


 黒瀬の話題で埋まっていた通知欄から、だんだん離れていく。

 さっきまで耳についた周囲の噂話も、食器の音や誰かの笑い声に混ざって、ただの学食の騒がしさに戻っていた。


 うるさいのに楽だ。すみれの声は橘をどこかへ閉じ込めない。


「あとさ、髪色変えた先輩がいたんだけど、春巻きの焦げた部分みたいになってたんよね。でも本人はミルクティーベージュって言ってて」


「春巻きベージュだろ。本人に伝えなよ、それ」


「でもあたし偉いから言わなかった。心の中でだけレモンかけた」


「不可逆じゃん」


 すみれの笑い声につられて、橘も笑みをこぼす。


「めるシー、今日の午後空いてる?」


「普通に講義ある」


「じゃあ終わったあと駅前の新作コスメ見に行こ! めるシーに似合いそうなラメ見っけた」


「そっちが本命だろ」


「そりゃそうよ! 女王の顔面、今日のメインイベントだかんね」


 橘は呆れながらも、考えた。


 黒瀬が誘う時は、理由が重い。

 会いたい理由。守る理由。保存する理由。さらには橘の体調、活動量、睡眠時間、昼食の摂取内容だとか。

 全部並べられると、行く前から疲れる。


 すみれの誘いは軽かった。

 新作を見たい。ラメが似合いそう。講義終わってから。

 それだけだ。


「ぶっちゃけサボって行きてー……でも単位ヤバそうだし、ちゃんと講義受けてから行く」


「えらい、女王が単位を取りに行く! 人間界に戻ってきたね!」


「リハビリ初日としては優秀じゃん」


 すみれの笑い声は、学食の騒がしさに混ざって明るくほどけていく。


 その少し離れた席で、黒瀬は顔を上げていた。


 彼の前には、半分ほど残った鮭定食がある。偶然で片づけるには、味噌汁の位置まで同じだった。

 箸は置かれたまま。視線だけが、橘の方へ向いている。

 スマホではない。通知欄でも、画面の光でもない。

 黒瀬が見ていたのは、橘が笑った先だった。


 ただ、すみれが軽く笑って、軽く誘った。

 たったそれだけで、橘はそちらを見た。笑って、少し考えて、午後の予定を変えた。


 黒瀬が並べるような理由は、そこにはなかった。

 守る理由も、保存する理由も、正当性も、手順もない。

 ただの雑談みたいな言葉が、橘に届いていた。


「……そう」


 黒瀬は冷めかけた定食へ視線を戻した。何事もなかったように箸を取り、焼き魚の身を綺麗にほぐして口に運ぶ。


 笑い声も、食器の音も、誰かの話し声も、いつも通り学食に混ざっていた。


 けれどその日から、黒瀬はそのざわめきの中で、橘へ届く言葉を拾うようになった。

 誰の声に振り向くのか。どの誘いには笑うのか。

 そして、自分の言葉はその中で何番目に届くのか。


「……僕より先に届くものが多すぎる」


 黒瀬は、誰にも聞こえない声で呟いた。


「少し、整理した方がいい」

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― 新着の感想 ―
「そりゃもう圧倒的に恋バナよ。恋バナでタチバナを人間界に戻す!」 軽い女、すみれ。 一方めちゃくちゃ重たい黒瀬。 音の軽重などに今度はこだわっている。 橘さんの反応する音を突き止めるあたり、なんていう…
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