第2話 普通って何を基準に言ってるのかな
黒瀬は、その言葉をなぜか少しだけ満足そうに受け止めた。
しかも彼は、当然のように橘の隣へ並ぶ。距離の取り方だけは妙に自然で、駅前に立つ三人組として見れば違和感はない。
三人横並び。
誰が許可した。
「えっと……これ、三人で行く感じ?」
隣の男が、スマホを片手に持ったまま橘と黒瀬を見比べる。まず出てきたのはごく普通の困惑だった。
「違う。勝手に増殖した」
「関係者だよ」
黒瀬が静かに訂正する。
「何の関係者?」
「全部」
「不審者の間違いな」
橘が即座に切ると、男は数秒黙った。
まだ状況は飲み込めていない。けれど、その目だけは次第に別の色に変わっていく。
困惑から、好奇心へ。
目の前の異常が、自分に危害を加えるものではなく、あとで誰かに話せるネタだと判断した顔だった。
「……え、マジで本物じゃん。動画より圧ある。これ友達に言ったら絶対ウケるわ」
その瞬間、黒瀬の視線が男へ向く。
音が一つ消えた気がした。
駅前の雑踏は変わらず鳴っている。電車は来るし、誰かは笑うし、スマホの通知も鳴る。けれど黒瀬の目だけが、そこから男の声を切り抜いた。
さっきまで橘しか見ていなかったくせに、ようやく男の存在を認識したらしい。
ただし、人間としてではない。
たぶん黒瀬の中では今、男は「橘の隣に立つ誰か」ではなく、「橘が黒瀬をダシに飯を奢らせるための外部端末」くらいに分類されている。
「君は、めるとどこへ行くの」
「普通に飲みに……」
「普通に」
黒瀬は、その言葉だけをゆっくりと反復した。
駅前の光が彼の横顔に薄くかかる。黙っていれば人目を引く程度には整っている。
黙っていれば。
「普通って、何を基準に言ってるのかな。今日のめるの体調、活動量、睡眠時間、昼食の摂取内容、胃の状態。そのあたりを考慮したうえでの普通?」
「いや、何の話?」
「していないよね」
「決めつけ早っ」
橘はフラペチーノのカップを持ったまま、だるそうに口を挟んだ。
「じぇに、今日も面倒くさいね。帰れば?」
「帰らない。今の君は、僕を餌にして外へ連れていかれようとしている」
黒瀬の視線が、ちらりと男のスマホへ落ちる。
「それは、見過ごせない」
「見過ごせよ。飲みくらい自由に行かせろよ。あんたは監視カメラか」
「監視じゃない。観測だよ」
「言い換えたら許されると思うな」
男は少し引いていたが、完全には引き下がらない。
怖いもの見たさ。ネタとしての好奇心。
自分に火の粉が飛んでこない距離なら、異常は娯楽になる。
橘としては、それで構わなかった。
むしろ今日の男は、そういう軽さ込みで選んだようなものだ。黒瀬の話を聞きたい。面白がりたい。ついでに奢る。そのくらい浅い方がちょうどいい。
しかし黒瀬は、そういう浅さを許さない。
橘の周囲にあるものを、すぐに自分の重さで沈めようとする。
黒瀬は男を一瞥して、何もなかったみたいに橘に視線を戻した。
「僕は、君の飲み会の前座じゃない」
いつになくまともな言い方だった。
怒っても拗ねてもいない。ただ、薄く静かに言い切る。黒瀬はこういう時だけ腹が立つほど声がいい。
「僕がどれだけ無様でも、それを君が笑うのはいい。君がネタにするのも、まあ、いい。僕は君の中に残るなら、多少形式が歪んでも構わない」
「多少……?」
「でも、君以外の誰かが、僕を入口にして君に近づくのは違う」
男の笑いが止まった。
橘も一瞬だけ黙る。
黒瀬の言い分は相変わらず終わっているのに、筋だけは通っているように聞こえるのが厄介だ。
黒瀬は一歩だけ近づいた。触れる距離ではない。
けれど、駅前のざわめきの中で橘だけに声を落とすには十分な距離だった。
「君が僕のことを笑うだけなら、それは君のものだ。僕はそれでも許せる。でも、君が僕を媒介にして別の誰かと笑うなら、その笑い声は少しうるさい」
「……」
橘は一瞬、返事に詰まった。
言っていることは怖い。相手が黒瀬でなければ即座に駅員を呼んでいる。
でもその一瞬だけ、彼は本当に絵になっていた。
駅前の安い光。雑な音。軽い男。冷えたフラペチーノ。その全部の中で、黒瀬だけが妙に輪郭を持っている。
だから橘は、思わず言葉を選び損ねた。
「……いや、重っ」
結局、それしか言えなかった。
黒瀬はまばたきをする。
「重い?」
「重すぎ。今の、加湿器なら出禁だわ」
「今は軽く言ったつもりだったんだけど」
「それでこの湿度ならもう災害なんだよ。湿気でカビ生えるレベル」
男が横で小さく吹き出した。
その笑いは、軽かった。
意味も悪意も薄い。ただ目の前の会話が面白かったから漏れた程度の笑い。
だが黒瀬はそれを聞き逃さなかった。
「今、笑ったね」
「え?」
「めるの言葉で笑った。それは君の立ち位置じゃない」
「立ち位置って?」
「めるの言葉に反応して笑う位置」
「怖っ」
男の顔から、やっと本格的に余裕が消えた。
橘は片手を上げる。
「はい終了ー。駅前で治安の悪さに貢献するな。じぇには黙る。そっちは引かない。私は飯を食う。これで全員幸せ」
「僕は幸せじゃない」
「じゃあ我慢して。社会ってそういうものだから」
「社会の方が間違っている場合は?」
「今その議論始めたらマジで置いてく」
黒瀬は今度こそ黙った。
置いていく、という言葉だけは効くらしい。置いていかれるという事実が嫌なのだろう。
橘の言葉の中で、自分が視界から外れる可能性だけに過剰に反応する。
面倒くさい男だ。ただ、黙っていれば外面はいい。
隣の男も明らかにそう思っている顔だ。
「……黙ってると結構まともそうなのにな」
「それな。黙ってる時だけ優良物件。口を開いたら事故物件」
「める。顔だけ、ではないよ」
「はいはい。倫理もあるって?」
「君への愛がある」
「倫理どこ行った」
「愛の下にある」
「埋葬すんな」
男がまた笑いかけたが、今度は黒瀬の目を見て飲み込んだ。
学習が早い。
橘は少しだけ感心した。
「で、飲み行くんでしょ。じぇには帰るか、せめて別の方向に歩きなよ」
「別の方向、という概念が難しいね。君が進む方向が、今の僕の目的地だから」
「最悪のナビだな」
黒瀬は当然のように歩き出した。
橘の横ではなく、半歩後ろ。距離だけなら控えめだが、気配がまるで控えめではない。
男は橘の隣にいるが、さっきより明らかに歩幅が小さくなっている。
軽い男が、黒瀬の重力に巻き込まれ始めていた。
駅前の通りは、夜に向かって少しずつ色を濃くしている。
看板の光が濡れたアスファルトに滲み、通行人の靴音が薄く重なる。コンビニから漏れる揚げ物の匂い、居酒屋の呼び込み、どこかで笑う学生の声。
橘にとってはいつもの夜だった。
軽くて、うるさくて、適当で、明日にはほとんど残らない夜。
だが、黒瀬だけは静かなままだ。
彼は周囲の音を聞いているようで聞いていない。男の声。通知音。呼び込み。笑い声。
橘のスマホが震えるたび、目だけがわずかに動く。まるで、世界の中から橘に届く音だけを選別しているみたいに。
男が小声で聞く。
「なあ、橘さん。あの人当たり前みたいについてきてるけど、いいの?」
「よくはないけど、言って止まるなら今ごろ猫に求婚してない」
「説得力えぐ」
橘はちらりと後ろを見た。
黒瀬は聞こえているはずなのに何も言わなかった。ただ、静かにこちらを見ている。
「じぇに、聞こえてるなら何か言えば?」
「今は発話頻度を下げている。君が軽さを求めたから」
「求めた軽さと違うんだよ。無言の圧は逆効果だわ」
黒瀬は考えた。
「じゃあ、話す」
「それも重い」
「難しいね」
「今気づいた?」
男が堪えきれずに笑う。
今度は黒瀬は何も言わなかった。
ただ、その笑い声を記録するように目を伏せた。
橘はそれに気づいたがあえて触れなかった。
黒瀬の感情は、触れた途端に水をやった雑草みたいに増える。
居酒屋は、駅から少し歩いた雑居ビルの二階にあった。
看板は安っぽいが、唐揚げの写真だけは美味そうである。橘はそれを見て少しだけ気分が上がった。
「唐揚げあるじゃん。はい勝ち」
「まだ入ってもないのに?」
「唐揚げがある店は、最低限の倫理を持ってる」
黒瀬が後ろで小さく反応した。
「倫理」
「あんたは反応すんな。唐揚げ側の倫理だから」
階段を上がると、油と焼き鳥と安いアルコールの匂いが混ざって流れてきた。ほどよくうるさく、ほどよく暗い。大学生が何かを忘れるにはちょうどいい店だった。
暖簾をくぐる。
「いらっしゃいませー。ご予約の方ですか?」
店員が聞いた。
男が口を開くより早く、黒瀬が一歩前に出る。
「予約はしていないけど、彼女は油で死にます」
店員の笑顔が、その場で固まった。
橘は天井を仰ぎ見る。
今日も終わったな、という雑な確信が、二度目の更新を迎えた。




