第3話 その音、少し嫌いになった
佐伯は唐揚げを一つ口に入れ、ようやく本来の目的を思い出したように身を乗り出した。
「で、結局さ。猫男って、橘さんとどういう関係なの?」
「飯のネタにするために来たんだから、まあ話すか。一言で言うと顔のいい事故物件」
「説明が雑すぎる」
「詳しく言うと、勝手に人の発言を契約にして、猫に私の代わりを背負わせて、ラブホ前で宇宙ポエム読んで、晒されたのに記念日だと思ってる男」
「詳しく言っても事故物件じゃん」
「だから言ったでしょ」
佐伯は笑いながらスマホを持ち上げた。
「やば。これ友達に送っていい? 『猫男、本人解説つき』って」
その瞬間、斜め後ろの空気が少しだけ冷えた。
黒瀬が、佐伯のスマホを見ていた。
「……送る?」
「え、だめ?」
「僕の話を、めるの口から聞いて、それを君の外側へ流すの?」
「いや、そんな重い話じゃなくて」
「重いかどうかは、君が決めることじゃない」
佐伯の笑いが止まった。
橘はポテトをつまみながら、雑に口を挟む。
「じぇに、ネタにされるの今さらじゃん。もう掲示板で万単位に消費されてるよ」
「だから嫌なんだよ。僕を通して、君が外へ持っていかれる。僕の異常を入口にして、知らない誰かが君に近づく。君はそれを飯代に変えて笑う」
「だいぶ正確で草」
「笑わないで」
ピコン。
橘のスマホが鳴った。
『今日どうなった?』
『飲み終わったら合流しよ』
黒瀬の視線が、音のした場所へ落ちる。
さっき佐伯が持ち上げたスマホ。
今鳴った橘のスマホ。
唐揚げの皿に置かれたレモン。
黒瀬の中で、本来つながってはいけないものが、静かに一本の線になった。
「……その音、少し嫌いになった」
「通知に嫉妬すんな」
「嫉妬じゃない。処理対象として認識しただけ」
「言い換えで怖さ増してるぞ」
「鳴るたびに、君が外を見る。僕じゃない音に首を向ける」
黒瀬は、唐揚げの横に残ったレモンを見た。
「一度かかったレモンは、もう取り除けない。一度届いた通知も、なかったことにはできない」
「唐揚げから通信に思想飛ばすな」
「本人が選ぶ前に、外側が君へ届くのは不可逆だ」
橘はポテトを持ったまま固まった。
「ちょっと待て。今なんか嫌な本題入ったな」
「まだ、何もしてないよ」
「してからじゃ遅いんだよ」
橘はそれ以上踏み込まないという意思表示みたいに、ポテトをつまんだ。
黒瀬はそれ以上何も言わなかった。
佐伯は黙って水を飲む。もう笑いは出てこなかった。
さっきまでなら、黒瀬の一言一言を「あとで誰かに話せるネタ」として拾えていた。
でも今は違う。
普通なら引くところで、橘は雑に返す。
黒瀬は、その雑さを当たり前みたいに受け取る。
その呼吸が、近すぎる。
「……橘さん」
佐伯の顔から、さっきまでの見物人の余裕が消えていた。
「俺、今日ここまでで十分かも」
「はやっ。なんで?」
「これ以上いると、軽い話として持ち帰れなくなる。講義3コマ分くらいの情報を一気に浴びたわ」
佐伯はテーブルに視線を落とした。
「猫男の話聞きに来たつもりだったけど、なんか……同じ卓で見るもんじゃないなこれ」
佐伯は財布を出し、自分の分くらいの金をテーブルに置いた。
「奢るって言ったけど、ごめん。これ、俺の分と唐揚げ代ちょい。あとは……」
佐伯の視線が黒瀬へ流れる。
「そっちの管理者に請求して」
「管理者じゃない。僕は支払い能力のある関係者だよ」
「もっと嫌な自己紹介になったな」
佐伯は立ち上がった。
「じゃ、また大学で。次は普通に、普通の飯で」
「普通って言うとまた分解されるよ」
「あ、じゃあ……軽めの飯で」
「それも危ない」
「もう何も言えないじゃん」
佐伯はそれだけ言い残して、店を出ていった。
暖簾が揺れ、軽い男の軽い気配が店の外へ消えていく。
残ったのは唐揚げと、橘と、黒瀬。それから店内の喧騒。
「……マジで追い払ったな」
橘が言うと、黒瀬は首を傾げた。
「結果としては」
「自覚ありかよ」
「彼は、めるの食事相手として適切ではなかった」
「誰なら適切なんだよ」
「僕」
「聞いた私に落ち度がある」
橘は唐揚げをもう一つ取り、口にほおり込む。
やはり美味しい。冷めかけていても、揚げた肉はまだ裏切らない。
「……じぇに、奢れ」
黒瀬は目を瞬かせた。
「僕が?」
「飯代浮かす予定だったのに、あんたが邪魔してまさきが消えたんだから。責任取れよ」
「……めるが僕に請求した」
「金をな」
「僕に役割を与えた」
「財布としてな」
「これで今夜の君の食事に、正式に関与できる」
「レシートを契約書みたいに扱うな」
黒瀬は当然のように、佐伯が去った席へ移動してきた。
距離の詰め方はとても自然だった。なぜこういうときだけはスマートなのか。
「いつ座る許可出した?」
「支払いの当事者が同席するのは当然だと思うけど」
「当事者に着席権は付属しません」
「近い方が君の追加注文にも対応できる。ラストオーダーも聞き逃さない」
「財布のくせに居酒屋適性だけ高いな」
黒瀬は橘の目の前に座ったまま黙り込み、橘が食べるのを見ていた。
沈黙しても存在が静かにならない。黙ればマシ、という評価は今すぐ撤回した方がよさそうだ。
黒瀬の前の皿は、ほとんど減っていない。
水だけがきれいに置かれていて、店の客というより食事記録アプリの人型端末だった。
ずっと口を出して、観測して、勝手に守った気になっているくせに、自分の腹には何も入れていない。
そういうところまで変に極端で、見ているだけでこっちまで満腹になる。
目の前で何も食べずにじっとされるよりは、唐揚げでも食べて黙っていてくれた方がまだマシだった。その判断がかなり終わっている気もしたが、今さらである。
「食え、二個処理して」
橘は三つだけ残った唐揚げの皿を黒瀬の方へ押した。
「……え?」
「食いもせずに見てるだけだと店の怪談になる。あと、支払い担当が倒れたら会計が詰むんだよ」
黒瀬は皿を見て、それから橘を見た。
「めるが、僕に食べろって言った」
「また変な解釈するなら撤回する」
「食べるよ」
黒瀬は唐揚げを一つ取った。箸の持ち方まで綺麗で、中身以外は本当に無駄がない。
一口食べて、目を伏せる。
「君が食べていたものは、本当に美味しい」
「唐揚げを通して私を摂取すんな」
「そういう意味じゃない」
「そういう意味にしか聞こえねぇんだよ」
黒瀬は何か言いたげだったが、橘が睨むと、黙って二つ目の唐揚げを食べた。
唐揚げ二個で静かになる。最低の攻略情報だった。
やっと、卓のジャンルが怪談から食事に戻った。
「める。今日は君の周り、音が多かったね」
戻っていなかった。
橘はポテトを持ったまま固まった。
「待て。やめろ、すんな」
「今のはただの感想だよ」
「その声で言う感想はだいたい災害予告だろ」
「駅前も、店も、通知も、全部うるさかった」
「金曜夜の居酒屋レビューとしては最低だな」
「でも、君は慣れてる。僕は、めるに届く音が多いことに慣れたくない」
橘は嫌でも感じ取ってしまう。
黒瀬が今、また余計な方向へ思考を伸ばしていること。彼の中で「通知音」と「佐伯」と「店のざわめき」が同じ箱に入れられ始めていること。
分かった上で、橘は拾わなかった。
拾うと長い。重い。そしてたぶん、何かが育つ。
だから橘は無視して雑に水を飲んだ。
「まあ、あんたも相当うるさいけどな」
「僕は必要な音だよ。少なくとも、君が僕を見る理由にはなる」
「自己評価だけ無線で飛ばすな。呼ぶな。勝手に来るな。あと払え」
「うん」
黒瀬は財布を出した。本当に払う気でいるらしい。
橘は残った最後の一つを口に入れた。冷めかけているのに、まだ美味い。
しかし、最初に黒瀬が選んだ一個が一番当たりだった気がする。
「……ムカつくけど有能」
本人には聞こえない声で呟いて、橘は水を飲んだ。
◇◇
会計を済ませて外へ出ると、夜の空気が冷たく頬を撫でた。
駅前よりは人が少ない。それでも、車の音も、店先から漏れる音楽も、どこかの誰かの笑い声も、遠くの電子音も、途切れることなく夜の中に混ざっている。
「あー、食った。じぇに、財布として30点な」
「低いね」
「唐揚げ選びで20点足して50点。本人が黙ってれば60点」
「じゃあ、60点」
「今喋ったから55点。あんたは発話で減点されるタイプだわ」
黒瀬は少しだけ笑った。笑ったように見えた、が正しいかもしれない。
橘のスマホが鳴る。
ピコン。
黒瀬の目が、そちらへ動く。
「いい加減その顔やめろ。通知音に親でも殺された?」
「親ではないよ」
「親以外なら何かあるみたいな返しだな」
黒瀬は答えなかった。ただ、夜の駅前を見ていた。
看板の光。人の声。通知音。笑い声。橘の周りにある黒瀬以外のものが、今日も勝手に鳴っている。
橘にとっては、ただの夜だった。
うるさくて、軽くて、明日にはほとんど残らない夜。
けれど黒瀬だけは、それをただの夜として聞いてはいなかった。
鳴っただけで、橘の目を外へ向けるもの。
軽いくせに、橘を簡単に動かすもの。
本人が選ぶ前に、勝手に橘へ届いてしまうもの。
黒瀬は、さっきの唐揚げ皿を思い出していた。
勝手にかけられたレモンは、もう戻せない。
勝手に届いた通知も、なかったことにはできない。
「……不可逆だね」
「何が」
「いや。まだ、何でもない」
黒瀬は静かに笑った。
その音を、橘は聞こえなかったことにした。




