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黒瀬によれば、これは純愛らしい。  作者: 柊ナツキ
第2章『世界の音量を下げる』

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第1話 『偶然』の概念、無事死亡

 

 駅前は、人の多さと音の多さでだいたい何もかもがどうでもよくなる。


 電車の到着を知らせる電子音。改札を抜ける足音。店先から漏れる安いポップソング。

 誰かの笑い声。ため息。スマホの通知音。どこかの誰かが電話越しに言う「今どこ?」。


 全部が重なって、街そのものが雑なスピーカーみたいになっていた。


 音質は悪いのに、音量だけは無駄にある。


 (たちばな)めるは、その音の中で平然とスマホを見ていた。


 ピコン。

 また通知音が鳴る。


『例の猫男ってまだ生きてる?』

『てか橘さん、あれ何者?』

『猫ポエムの動画消えてたんだけど持ってない?』

『あの人紹介して。顔だけでいい』


「顔だけでいい、は分かる」


 橘はフラペチーノのストローをくわえたまま、雑に笑った。


 数日前、黒瀬(くろせ)じぇにはラブホテル街で猫に愛のポエムを捧げてバズった。

 泥、ネオン、茶トラ。そして、猫には一切背負う義務のない宇宙規模の愛の比喩。


 しかも、あれを黒瀬本人は「祝福」だの「記念日」だの言っていた。一般社会ではただの黒歴史と呼ぶものを、あの男は平気で祭壇に祀る。


 掲示板のスクショは消えた。落書きも消えた。動画もいくつかは消された。


 だが、消えたところで何にもならない。


 大学生という生き物は、講義内容は忘れるくせに、顔のいい男がラブホ前で猫に宇宙を背負わせた記憶だけは異様に保存するのだ。


 その結果、橘のスマホは少し騒がしくなった。


「あいつ、飯のタネとしては優秀なんだよな。話題性だけならマジでコスパ良い」


 橘は改札横の柱にもたれ、通知欄を流し見しながらストローを噛む。


「本人が近くに来なければ、だけど」


 言った瞬間、少しだけ後悔した。

 こういうことを口に出すとだいたい来る。

 そして黒瀬は、そういうフラグだけは異様に律儀に回収してくる男だった。


 そもそも黒瀬は、あの夜の前から普通におかしかった。

 近くに来るだけで面倒な男だったし、「所有」「保存」「契約」なんて、普通の大学生が好意の話で選ばない単語を平気で混ぜてくる。

 恋愛を恋愛として処理するには、最初から言語体系が少し終わっていた。


 それでも、前はまだ「きっしょ」で済んだ。

 聞き流せばよかったし、無視すればしばらくは黙る。黙らないときもあったが、それはそれで面白かった。


 問題は、あの夜を境に、その気持ち悪さへ行動力が追いついてきたことだった。

 アクセルを踏んだ、というより、ブレーキの場所を忘れたらしい。


 橘にとって、あれは酔った勢いとノリで片づく程度の出来事だった。

 朝になれば腹は減るし、講義はだるい。あの男がどれだけ湿った愛を叫ぼうが、昼飯を鮭にするか唐揚げにするかの方が切実である。


 だが黒瀬は違った。あの夜を、出来事ではなく関係性の更新履歴として保存した。


 橘が流した言葉を契約にした。

 帰り際の手振りを約束にした。

 雑な笑い声を記念日にした。


 たぶん彼の中では、あの日を境に暦が変わっている。


「じぇに暦、勝手に始めんなよ。記念日増やす前に人間としての平日を過ごしとけ」


 昨日まで「変な人」だった男が、翌日から「変な関係者」みたいな顔で橘の生活圏に発生し始めたのだ。


 非常に迷惑である。

 そして、少しだけ面白いのが最悪だった。


 橘は改札横のガラスに自分の顔を映し、軽く前髪を整える。


 アイラインはまだ生きている。ラメも落ち切っていない。リップの見栄えも許容範囲。

 今日の自分は、まだ他人に見せられる顔をしている。駅前の照明なら勝ちだ。


「橘さん?」


 声をかけられて、橘は振り向いた。


 今日の待ち合わせ相手が、スマホを片手に立っていた。

 同じ大学の男。講義で何度か見たことはある。名前もたぶん聞いたことはあるが、覚えてはいない。その程度の存在だった。


 数日前、猫ポエム事件のあとにDMが来た。


『例の猫男の話、詳しく聞きたいんだけど。奢るから飲み行かない?』


 橘はそのメッセージを見て、3秒だけ考えた。


 猫男の話で飯代が浮く。ついでに暇も潰れる。

 非常に健全な利害の一致である。


 背も顔もそこそこの男。髪型だけは少し頑張ってキメている。

 会話の途中に何度もスマホを見るタイプで、悪気はなさそうだが、深い話には向かなそうだった。


「で、猫男ってマジで知り合いなの?」


「知り合いっていうか、発生源不明の災害」


「でも災害にしては顔はガチじゃん。動画見たけど、普通にあれで中身まともなら勝ち組でしょ」


「中身まともなら猫に求婚してないんだよな」


「それはそう。てか動画残ってないの? 友達に見せたいんだけど」


「初対面寄りでそれ聞くのだいぶ俗だよ」


「いや、あれは共有財産でしょ」


「不審者を文化遺産にすんなよ」


 橘の軽口に男は笑いながら、またスマホを見た。


 たぶん誰かに「今から猫男の知り合いと飲む」くらいの雑な報告でもしているのだろう。橘本人ではなく、橘の周りで起きた面白い事故に寄ってきた男。


 軽くて、薄くて、中身がない。ついでに飯を奢る気もある。

 橘の今夜の暇つぶし相手としては、最高にちょうどいい。


 男はスマホを片手でいじりながら、だるそうに息を吐いた。


「駅着いた瞬間、もう帰りたくなったわ。人多いし音うるさいし、今日別にそんな飲みたい日でもないんだよな」


「じゃあ帰れば? 改札、まだあんたのこと拒否してないよ」


「いや、来ちゃったし」


「何その理由」


「人生って、だいたいそうじゃん。帰りたいけど来ちゃった、みたいな」


「悟り薄っす」


「でも橘さんも似たようなもんでしょ。猫男の話で飯代浮くから来た、みたいな」


「まあね。帰るのも飲むのもだるいから、間を取って人に奢らせようとしてる」


「最低じゃん」


「合理的って言って」


 IQの低い会話が心地よく成立していた。


 この軽さがいい。


 内容も意味もない。明日にはたぶん忘れている。でも、だからいい。

 橘が求めているのは、今日という日の余白に置いておける程度の人間だった。


 強すぎる感情も、重すぎる言葉も、明日以降の約束もいらない。

 そこそこ楽しくて、そこそこ奢ってくれて、面倒になったら流せるくらいがいい。


 その時だった。


「……める」


 背後から、空気の湿度だけ急に3倍になったみたいな声が落ちてきた。


 軽い男の声も通知音も安いポップソングも、一瞬だけ背景に沈む。

 駅前の音量が、勝手に下がったみたいに。


「はいはい、出た出た」


 振り返る前から分かる。


 この湿度。

 この圧。

 この「今じゃないだろ」感。


 黒瀬だ。


 隣の男がスマホから顔を上げて振り返る。


「……え、ガチ本人? 顔、動画より強くない?」


「中身も動画より強いよ。悪い意味で」


 今隣にいる男が駅前の雑音の一部なら、黒瀬はその雑音を押しのけて空気の温度を変える側の人間だ。


 案の定、黒瀬は立っていた。

 さっきまでそこにいなかった場所に、まるで最初から駅前の設備の一部だったみたいな顔で。


 顔だけ見れば、黒瀬は相変わらず無駄に整っている。


 清潔感のある服装。静かな目元。無駄のない立ち姿。

 大学案内のパンフレットに載せれば、たぶん「理知的で誠実そうな学生」として通用する。


 通用する、どころではない。


 モブの群れの中に、急に画質の違う男が混ざったような違和感があった。

 駅前の照明も、濡れたアスファルトも、安い看板の色も、黒瀬の輪郭だけは雑に処理できない。


 中身が、偶然という概念に喧嘩を売っているタイプの厄災でさえなければ。


「偶然だね」


「どの口が言ってんの」


 この瞬間、橘の中で「今日も終わったな」という雑な確信が生まれた。


 通知音。

 駅前のざわめき。

 軽い男の笑い声。

 そして、その全部を切り裂いて現れた黒瀬。


 本来なら今日もまた、どうでもいい一日で終わるはずだった。

 終わるはずだったのに。


 黒瀬が出た時点で、だいたい何かの概念が死ぬ。


「同じ時間に、同じ駅前に、同じ方向へ向かう。それを人は偶然と呼ぶ」


「じゃあ今まで何分ここで待ってた?」


「11分」


「それ待ち伏せって呼ぶんだよ」


 黒瀬は少しだけ黙った。

 反省ではない。たぶん、言い換えを探しているだけだ。


「偶然の発生位置を調整しただけだよ」


「偶然の概念、死んだな」


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