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黒瀬によれば、これは純愛らしい。  作者: 柊ナツキ
第1章『まだ隣にはいられない』

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EX2 膝のキャンセル待ち 

 

 橘は足元にいた猫を、そのまま抱き上げた。

 猫は一瞬だけ面倒そうな顔をしたが、すぐに諦め、橘の膝の上で丸くなった。


 その瞬間、黒瀬の表情が露骨に固まる。

 視線が猫に固定された。

 猫から、橘の膝と手に視線が移り、そしてもう一度、猫。


 まるで世界の重要な権利関係が、今この瞬間に書き換えられたみたいな顔だった。


「……そこ、僕が一度も到達していない距離だ」


「膝?」


「膝。接触面積、滞在時間、体温共有。全部、僕より上だ」


「猫に完敗してんじゃん。彼氏面する前に猫以下から始めなよ」


「……彼氏面じゃない」


「じゃあ何面? 猫に嫉妬してる通行人面?」


 黒瀬は黙った。

 黙ったが、視線は猫から離れない。


 猫は何も知らない顔で橘の膝に収まり、前足をゆるく畳んでいる。

 完全に勝者の姿勢だった。


「……その位置の体温ログ、あとで取らせて」


「取らせねぇよ。猫にも私にも」


「直接じゃなくていい。推定値でいいんだ。滞在時間と接触面積が分かれば、君がその子に与えている安心の温度はある程度算出できる」


「膝のぬくもりを数式にすんなし。キモすぎて草も生えない」


「僕はただ、君が拒絶しない距離を知りたいだけだよ」


「じゃあまず植え込みから出てくるのやめたら? 猫ですら正面から来るよ」


 黒瀬は少しだけ沈黙した。本人としては真剣に考えているらしい。


「……次から検討する」


「検討じゃなくて反省すべき」


 橘は猫の背中を撫でた。

 猫は喉を鳴らす。


 その音に、黒瀬の目がさらに少しだけ暗くなった。


「喉、鳴ってるね」


「それな、かわいいよね。あんたも鳴いてみる?」


「僕が同じ音を出したら、君は撫でるの?」


「通報する。あと録画する。タイトルは『猫に負けた男、ついに喉を鳴らす』」


 黒瀬は本当に、自分の喉元に指を当てかけたので、橘は即座に止めた。


「おい、絶対やんなよ。犬の件で学べ」


「低周波なら、近づけるかもしれない」


「学習能力が猫以下。今日くらいは普通におにぎり食っとけ、マジで」


 黒瀬は少しだけ目を伏せた。

 その仕草だけは妙に綺麗だった。


 橘はそれを見て、ほんの少しだけ笑う。


「まあでも、猫に負けてる自覚あるだけマシかもね」


「負けてない。比較中だ」


「はいはい。じゃあ比較対象に挨拶しときな。この前、猫にめちゃくちゃ迷惑かけてたし」


「……挨拶すれば、少しは許可されるかな」


「猫が許すかは知らんけど、私の評価は一ミリくらい上がるかも」


 黒瀬はそこで、ようやく猫から橘へ視線を戻した。


「一ミリ」


「今のあんたには充分でしょ。猫以下なんだから贅沢言うな」


 黒瀬は、妙に真剣な顔で頷いた。


「分かった」


 黒瀬はゆっくりしゃがみ込んだ。橘の正面ではなく、少し斜め前に。

 膝に手を伸ばせば届きそうで、けれど橘本人には触れない距離。

 猫と目線を合わせるようにして、黒瀬はそこで慎重に止まった。


 彼の中では、おそらくこれは謝罪ではない。

 交渉でもない。


 橘が拒絶しない距離を、猫という先行事例から学ぶための儀式である。


「君は、審査を通過した先行事例だ」


 黒瀬はやけに真面目だった。


「あの日の僕は、君をただの中継点として見ていた。でも、それは間違いだった。君は観測対象じゃなくて、到達例だ。僕より先に、めるのそばに自然に存在している」


「猫に弟子入りしてんじゃん。授業料、鮭皮?」


「必要なら用意する」


「重たっ。猫の昼休み潰すな」


 黒瀬は真剣な顔で、猫に向かってわずかに頭を下げた。


 猫は何も考えていない顔で、もう一度欠伸をした。


「では、先行事例への接触確認を──」


 黒瀬の指先が、猫へ近づく。


 その瞬間。

 猫は怒るでもなく、威嚇するでもなく、橘の膝からするりと降りた。


 そして黒瀬の手が届かない位置まで移動し、自販機の陰で何事もなかったように丸くなる。


「……」


 黒瀬の指先だけが、空中に残った。


 橘は数秒耐えた。

 しかし普通に無理だった。


「っ、ふ……あはは! 一番静かに拒否られてんじゃん。猫、人間より賢い」


「拒絶ではない。これは接触可能範囲の再定義だね」


「拒絶だよ。猫に避難訓練させんな」


 黒瀬は、猫ではなく橘の膝を見た。


 ついさっきまで猫が丸くなっていた場所が、今は空いている。その事実だけが、黒瀬の中で必要以上に光を帯びた。


「……空いたね」


「言うと思った」


「この場合、予約枠が解放されたと考えるのが自然だと思う」


「猫のキャンセルが出たからって、飛び込み客入れないから」


「キャンセル待ちは?」


「受付終了でーす。次回も未定」


「……待てばいい?」


「真に受けんな。そういうとこだぞ」


 その一連のやり取りを、通路側からつきのが見ていた。

 彼女は購買のパンを片手に、足を止めたまま動けない。


 猫、橘、黒瀬、鮭おにぎり。

 昼休みの大学に並んでいい要素ではなかった。


「……めるちゃん達、何してんの?」


「膝のキャンセル待ち」


「最悪の説明ありがとう。今どこから通報すればいいか迷ってる」


 つきのは猫と黒瀬を交互に見た。


 引いてはいるが、逃げるほどでもない。

 無響大学で生きていると、こういう異常な光景にも、ほんの少しだけ足を止める余裕が生まれてしまう。


「黒瀬くん、猫にも距離置かれてるの?」


「距離ではない。段階管理してるだけ」


「便利な言葉だね」


「便利だから使ってる」


「ついに開き直ったね」


 橘は自販機の陰で丸くなる猫に向かって、軽く手を振った。


「はい、猫さん休憩入りましたー。本日の勤務終了のお知らせ」


「次の接触可能時間は?」


「ブラック企業みたいな聞き方すんな」


 黒瀬は少しだけ考え、それから鮭おにぎりの残りを見た。

 包装の角を丁寧に折りたたむ。その手つきはやはり綺麗だった。食べ終わった包装紙すら丁寧に扱うのは、後で保管するからだろうか。


「でも今日は、進展があった」


「猫に静かに避けられて?」


「めるから直接、食物を受け取った。これは大きいよ」


「さっきの餌がどうかした?」


「今までの僕は、君を外側から観測するだけだった。でも今日は違う。君の手から渡されたものが、僕の内側に入ったんだ」


「おにぎり一個で人生進みすぎてウケる」


「しかも鮭だ。猫と同系列」


「猫をライバル視したり仲間扱いしたり忙しいな」


 橘は立ち上がる。

 スマホを確認し、通知をいくつか流し見した。


 その小さな電子音に、黒瀬の視線がわずかに反応する。

 猫ポエムがバズり、世界が橘へ群がったあの日から、黒瀬にとって通知音は少しだけ嫌なものになっていた。


 だが、今日の橘は黒瀬に構わない。そこまで拾うと面倒だからだ。


「じゃ、私行くわ。猫に変なポエム聞かせんなよ。あとそのブレスレット、後で外すから。猫の首にじぇにの感情背負わせるのかわいそうだし」


「……外すの?」


 黒瀬の顔が、少しだけ沈む。


 さっきまで系列だの外部胃袋だの言っていた男が、急に捨てられかけた犬みたいな顔をする。


 黒瀬にとって、そのブレスレットはもう単なる追跡装置ではない。橘と猫と自分を無理やり繋ぐ小さなハブだった。

 だからこそ、外されるという言葉に少しだけ落ち込む。


 橘はそれを見て、面倒くさそうに息を吐いた。


「代わりに鈴でもつけとけば? 普通の、ちゃんと軽いやつ。猫が嫌がんなければね」


「……めるの許可。僕が選んでいいの?」


「猫が嫌がんなければ、な」


 黒瀬は少しだけ嬉しそうに頷いた。

 猫の首輪ひとつでここまで人生に光を見いだせる男も珍しい。


 つきのが小声で言う。


「めるちゃん、今ちょっと優しかったね」


「うるさ。猫に対してだけな」


「黒瀬くんにも効いてるけど」


「副作用じゃん」


 橘はつきのと並んで歩き出した。


 黒瀬を置いていくこと自体は、この数日と変わらない。

 ただ、今日は置いていった先でまた何か始めるのだろうと、橘は少しだけ思った。


 背後では、黒瀬が自販機裏の猫に向かって真剣な声で話しかけている。


「君の好みを把握したい。鈴の音量、重さ、色、素材。全部、君の拒絶反応を見ながら調整する。めるが許可したからといって、君の自由意志を無視するつもりはないよ」


「にゃあ」


「今のは承認?」


「絶対違ぇよ」


「では保留だね。次回までに三案用意しておく」


「猫にプレゼンすんな!」


 橘は振り向かずに笑った。


 その笑いは、黒瀬を受け入れた笑いではない。

 かといって、完全に切り捨てた笑いでもなかった。


 どうしようもなく面倒で、近寄られると厄介で、しかし見かけたら反応してしまう。

 黒瀬は橘の日常の中で、そういう非常に迷惑な位置を取り始めていた。


 本人に言えば、愛だの運命だのに変換されるので、絶対に言わないが。


 その日の夕方。

 無響大学・非公式掲示板には、新しいスレが立った。


 ────────

【現地】猫男、猫に首輪プレゼン開始【自販機裏】

 ────────


 1:名無しの無響生

 猫男、猫に「鈴の音量は君の拒絶反応を見て調整する」とか言ってる


 2:名無しの無響生

 猫相手に商談すな


 3:名無しの無響生

 猫「にゃあ」

 猫男「承認ではなく保留だね。次回までに三案用意しておく」


 4:名無しの無響生

 猫にプレゼンしてて大草原


 5:名無しの無響生

 今日、橘めるが猫と猫男に鮭分配してたらしい


 6:名無しの無響生

 餌付けやめろ

 増えるぞ


 7:名無しの無響生

 もう増えてるだろ

 自販機裏に棲みついてる


 8:名無しの無響生

 今日の名言

「カロリーの移動は、愛の移動」


 9:名無しの無響生

 栄養学「やめて」


 10:名無しの無響生

 猫→保護

 鮭→供養

 猫男→学生課

 橘める→餌やり禁止


 11:名無しの無響生

 昨日、猫が女子寮裏にいた時、猫男もセットで警備員に追われててクソワロタ


 12:名無しの無響生

 猫にGPSつけた結果、自分が不審者として検出されるの草

 ────────


 黒瀬本人だけは、それをまた新しい祝福だと受け取った。


 この日から、橘にとって黒瀬じぇには「聖域を出たら頭から消える男」ではなくなった。見かけたら笑えるし、放っておくと植え込みから出てくる男になった。

 人としてはだいぶ終わっているが、コンテンツとしてはわりと強い。


 猫は何も背負っていない。

 ただ、鮭と昼寝が好きなだけである。


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― 新着の感想 ―
読ませて頂きました。やはり黒瀬君、突き抜けてますな。顔面SSR、行動UR,倫理N、めるも、性格がサバサバしていて、軽く返す関係など面白いです。鮭おにぎり、秀逸です(笑)
橘と黒瀬のキャラがしっかり確立していると思います。特に黒瀬はやってることが極度のストーカーですが、容姿も整っている上にスーパーポジティブな思考回路。なんでも前向きに分析してしまう姿は不思議と清々しく感…
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