第2話 唐揚げのレモンは不可逆
居酒屋の入口という場所は、本来もっと雑でいい。予約の有無を確認する。人数を聞く。空いた席へ案内する。
それだけで成立するはずの空間で、黒瀬は来店一秒で橘の胃を要人扱いした。
「私の胃に警備つけんな。ここ居酒屋だから」
「めるは昨日、胃もたれすると言ってた」
「それはあんたが重いって話だよ。物理の話じゃねぇよ」
店員は笑顔を貼りつけたまま、完全に処理能力を超えた顔をしていた。
たぶん接客マニュアルのどこを探しても、『お客様が連れの女性の胃を油から守ろうとした場合』の項目はない。
佐伯が横で乾いた笑いを漏らす。
「え、何これ。入店から強いな」
「恐ろしいことに、まだ入口なんだよね」
黒瀬は店員の沈黙を了承と判断したらしく、真顔で続ける。
「できれば彼女には常温の水をお願いします。冷水は胃への負担が大きいので。通路側に男性が座る配置も避けてください」
店員は一瞬だけ天井を見た。
たぶん神に判断を仰いだのだろう。だが居酒屋の神は忙しい。揚げ物と生ビールで手一杯である。
「えっと……三名様でよろしいですか?」
「二名と、店の外で発生した事故です」
橘が言うと、佐伯が遅れて頷いた。
「三名です。事故ではなく関係者です」
黒瀬が静かに訂正する。
店員はそれ以上、何も聞かなかった。賢い人間である。
最終的に、橘と佐伯は奥の二人席へ、黒瀬は通路を挟んだ斜め後ろのカウンター席へ案内された。
普通なら、これは他人として処理できる距離である。普通なら。
黒瀬の場合、距離が離れても視線だけはしっかり届いた。Wi-Fiより接続が強い。パスワードを教えた覚えはない。
橘は席につくなりメニューを開いた。
「唐揚げ、ポテト、だし巻き。あと焼き鳥適当でよろ」
「決めるの早っ。メニュー開いた意味あった?」
「唐揚げがある店で迷う時間は人生の損失だし」
「名言っぽいのに中身が油」
佐伯はまだ半分笑っていた。
目の前の異常を、ギリギリ「面白い話」として処理しようとしている。
そこへ店員が水を持ってきた。
「こちら、常温のお水です」
「じぇに」
橘はカウンター席を睨んだ。黒瀬は静かに頷く。
「胃への負担を考慮した」
「私の飲み会、初手から医療監修入ってんだけど」
橘は注文用のタッチパネルに指を伸ばす。
すると斜め後ろから、さっそく黒瀬の声が飛んできた。
「める。唐揚げの前にサラダにしよう。胃に緩衝材を入れて」
「保健室の先生か?」
佐伯がまた笑いかけて、黒瀬の視線に気づき、途中で口を閉じた。
順応が早い。この男、成績は知らないが危機察知だけは優秀である。
ポテトが運ばれ、橘と佐伯が適当につまんでいるうちに、本命の唐揚げが運ばれてきた。
皿の上に、大ぶりの唐揚げが六つ。衣は立っていて、湯気が出ている。少し濃いめの匂いがして、横にはレモンが添えられていた。
「来た。倫理!」
「唐揚げを倫理の最終防衛ラインにするなよ」
佐伯が軽く言いながら、自然な動作でレモンを手に取った。
そのときだった。
「──待って」
気づいた時には、黒瀬はカウンター席を離れていた。店員が止めるより先に、黒瀬は二人席の横へ立っていた。
椅子を引く音さえ控えめだったのに、圧だけはやたらとある。
恋愛の進展は遅いくせに、唐揚げへの介入だけは異様に速い。
佐伯も橘も動きを止めた。
レモンだけが、唐揚げの上空で不自然に浮いている。
絵面が終わっていた。
「……何?」
佐伯が聞く。
「それは不可逆だよ」
黒瀬は真剣だった。
「一度かけたレモンは、もう取り除けない。酸味も香りも油に馴染む。めるが選ぶ前に全体へ適用するのは、善意による不可逆操作に近い」
「唐揚げの上で憲法を開くな」
橘は額を押さえた。
ただ、言っていること自体は微妙に間違っていない。黒瀬はこういう時だけ、正論の皮を被った面倒くささを出してくる。
「個別皿に絞るべきだ」
「唐揚げマナー講師、資格どこで取ったの」
「資格はいらない。必要なのは、めるの選択権を本人より先に守る意識だよ」
「守るって言いながら先に盗んでんだよな」
佐伯はそっとレモンを小皿へ置いた。
「じゃあ、各自で……」
「学習早いじゃん。生き残れるよ」
「いや、かけたら裁かれそうで」
「裁かれるよ。黒瀬唐揚げ裁判所に」
橘が雑に言うと、佐伯は困ったように笑った。
「判例ある?」
黒瀬は小さく頷いた。
「今、前例ができた。めるの唐揚げは、今後この基準で守られる」
「国境防衛みたいに言うな」
橘は小皿のレモンを取り、自分の唐揚げに普通に絞った。
黒瀬の動きが一瞬だけ固まる。
「……かけるんだ」
「普通にかける派だよ」
「なら、さっきの彼がかけても」
「違う。私はレモンかける派だけど、人に勝手に全体へかけられるのは別。私がかけるの」
黒瀬は席の横に立ったまま、納得したように頷いた。
「つまり、レモンの実行権はめる本人にある。本人の選択による不可逆なら許容できる。これは大事な線引きだよ」
黒瀬は唐揚げの皿を見て言った。
「めるが自分で選ぶことと、誰かがめるの前に選んでしまうことは違う。結果が同じでも、経路が違う」
そこだけ聞けば、かなりまともだった。唐揚げの話でさえなければ、良いことを言っている気すらする。無駄に声も良いから余計に。
「唐揚げで急にまともな倫理観出すな。脳が混乱する」
「でも今のちょっと分かるわ。勝手に全部かけるやつは普通に嫌だもんな」
「まさき、そっちに立つな。戻ってこい」
橘はそのまま唐揚げをもう一つ取ろうと手を伸ばす。しかしその前に、黒瀬が皿を見た。
「右奥」
「は?」
「右奥がいい。衣の立ち方、油切れ、肉汁の保持。全体の中で一番状態がいい」
黒瀬は唐揚げの一つを指さした。
「める、これを食べて」
「じぇにが選んだと思うとなんかやだな。絶対呪いかかってる」
「でも、美味しいよ」
橘は数秒、黒瀬を見た。
面倒くさい。非常に面倒くさい。
なぜこの男は唐揚げを一つ選ぶだけで、手術前の執刀医みたいな顔ができるのか。人類にはまだ早い問いだった。
しかし腹は減っていたので、橘は結局、言われた通り右奥の唐揚げを取った。
口に入れた瞬間、衣がざくっと鳴る。中は熱く、肉汁が出た。濃いめの塩気と油に、レモンの酸味がしっかり噛み合っている。
「……うま」
思わず声が出た。
こういうところだけ外さないから腹が立つ。黒瀬が揚げたわけでもないのに、なぜか黒瀬に一点入った気がした。あってはならない加点だった。
黒瀬の呼吸が一瞬止まる。
「今のは、僕が選んだ」
「唐揚げがうまいだけなんだけど」
「でも、僕が選んだ」
「功績を横領すんな。唐揚げに謝れ」
佐伯も唐揚げを一つ取ったが、今度はレモンを見なかった。生存本能がちゃんと仕事をしている。
「でも普通にうまいな、これ」
「でしょ。唐揚げがある店に外れは少ないんだよ」
「唐揚げへの信頼が厚すぎる」
「人間は裏切るけど、揚げた肉はだいたい正直だからね」
黒瀬が静かに反応した。
「僕は裏切らないよ」
「確かに裏切らなそうだけど唐揚げに張り合うな。土俵が油だぞ」
「めるが信頼しているものなら比較対象になる」
「唐揚げは唐揚げ。あんたはあんた。分類からやり直せ」
黒瀬は真面目な顔で考え込んだ。
「……僕は、唐揚げにはなれない」
「その気づきで尺取るな」
黒瀬はそこでようやくカウンター席へ戻った。判決と選定だけ済ませた出張審査員みたいだった。
佐伯がまた笑った。ただ、さっきよりも笑い方が固い。
見物席にいたはずなのに、気づけば舞台袖から番号札を持たされている。そういう顔だった。
「猫男の話を肴に飲みに来たのに、肴本人が裁判始めたんだけど」
「当たり回じゃん。食事付きライブだと思えばコスパいいでしょ」
「演目が怖すぎる。ホラージャンルだとは思わなかった」
黒瀬の視線が、佐伯の上に止まった。人を見る目というより、新規ユーザーを仮審査する目である。
「君は、めるとよく食事をするの?」
「いや、今日初めてだけど」
「……そう」
それ以上、黒瀬は聞かなかった。
たぶん今、佐伯は黒瀬の中で分類された。初回。軽い。猫男経由。会計能力あり。
脅威度は低いが、橘を笑わせた。
佐伯が、気まずさを誤魔化すように空のグラスを持ち上げた。中身はない。
「なんか俺、いない方がよくない?」
「よくない。私の飯代のためにいて」
「理由ひっど。存在理由がレシート寄りじゃん。俺、人間としてカウントされてる?」
黒瀬は佐伯を見た。人を見る目ではない。会計時に使える支払い方法を確認する目だった。
「……聞くんじゃなかった」
続いて、だし巻き、焼き鳥がテーブルに運ばれてきて、ポテトは少しずつ減っていった。
料理は来ている。会話もある。佐伯もまだ逃げていない。
形だけなら飲み会だった。
ただし、斜め後ろに黒瀬がいる。
「その角度だと、タレが前と同じ位置に落ちるよ」
「記憶力きっしょ。現物保管してるやつの発言じゃん」
「保管状態は良いよ」
「押収品だろ。返せ」
短いやり取りだったが、佐伯には十分だったらしい。
彼は空のグラスをそっと置き、店員に水を頼んだ。おそらく今、アルコールより冷静さが必要になっている。
「橘さん、これ毎回相手してるの?」
「相手してない。こいつが勝手に発生して、勝手に話して、勝手に保存してる」
「保存……?」
「じぇにの中では、私の雑な発言が全部記念日になるらしい」
「全部ではないよ。今日は、君が僕の選んだ唐揚げを食べてうまいと言った日」
「増えてんじゃん、最悪」




