EX2 膝のキャンセル待ち
橘は足元にいた猫を、そのまま抱き上げた。
猫は一瞬だけ面倒そうな顔をしたが、すぐに諦め、橘の膝の上で丸くなった。
その瞬間、黒瀬の表情が露骨に固まる。
視線が猫に固定された。
猫から、橘の膝と手に視線が移り、そしてもう一度、猫。
まるで世界の重要な権利関係が、今この瞬間に書き換えられたみたいな顔だった。
「……そこ、僕が一度も到達していない距離だ」
「膝?」
「膝。接触面積、滞在時間、体温共有。全部、僕より上だ」
「猫に完敗してんじゃん。彼氏面する前に猫以下から始めなよ」
「……彼氏面じゃない」
「じゃあ何面? 猫に嫉妬してる通行人面?」
黒瀬は黙った。
黙ったが、視線は猫から離れない。
猫は何も知らない顔で橘の膝に収まり、前足をゆるく畳んでいる。
完全に勝者の姿勢だった。
「……その位置の体温ログ、あとで取らせて」
「取らせねぇよ。猫にも私にも」
「直接じゃなくていい。推定値でいいんだ。滞在時間と接触面積が分かれば、君がその子に与えている安心の温度はある程度算出できる」
「膝のぬくもりを数式にすんなし。キモすぎて草も生えない」
「僕はただ、君が拒絶しない距離を知りたいだけだよ」
「じゃあまず植え込みから出てくるのやめたら? 猫ですら正面から来るよ」
黒瀬は少しだけ沈黙した。本人としては真剣に考えているらしい。
「……次から検討する」
「検討じゃなくて反省すべき」
橘は猫の背中を撫でた。
猫は喉を鳴らす。
その音に、黒瀬の目がさらに少しだけ暗くなった。
「喉、鳴ってるね」
「それな、かわいいよね。あんたも鳴いてみる?」
「僕が同じ音を出したら、君は撫でるの?」
「通報する。あと録画する。タイトルは『猫に負けた男、ついに喉を鳴らす』」
黒瀬は本当に、自分の喉元に指を当てかけたので、橘は即座に止めた。
「おい、絶対やんなよ。犬の件で学べ」
「低周波なら、近づけるかもしれない」
「学習能力が猫以下。今日くらいは普通におにぎり食っとけ、マジで」
黒瀬は少しだけ目を伏せた。
その仕草だけは妙に綺麗だった。
橘はそれを見て、ほんの少しだけ笑う。
「まあでも、猫に負けてる自覚あるだけマシかもね」
「負けてない。比較中だ」
「はいはい。じゃあ比較対象に挨拶しときな。この前、猫にめちゃくちゃ迷惑かけてたし」
「……挨拶すれば、少しは許可されるかな」
「猫が許すかは知らんけど、私の評価は一ミリくらい上がるかも」
黒瀬はそこで、ようやく猫から橘へ視線を戻した。
「一ミリ」
「今のあんたには充分でしょ。猫以下なんだから贅沢言うな」
黒瀬は、妙に真剣な顔で頷いた。
「分かった」
黒瀬はゆっくりしゃがみ込んだ。橘の正面ではなく、少し斜め前に。
膝に手を伸ばせば届きそうで、けれど橘本人には触れない距離。
猫と目線を合わせるようにして、黒瀬はそこで慎重に止まった。
彼の中では、おそらくこれは謝罪ではない。
交渉でもない。
橘が拒絶しない距離を、猫という先行事例から学ぶための儀式である。
「君は、審査を通過した先行事例だ」
黒瀬はやけに真面目だった。
「あの日の僕は、君をただの中継点として見ていた。でも、それは間違いだった。君は観測対象じゃなくて、到達例だ。僕より先に、めるのそばに自然に存在している」
「猫に弟子入りしてんじゃん。授業料、鮭皮?」
「必要なら用意する」
「重たっ。猫の昼休み潰すな」
黒瀬は真剣な顔で、猫に向かってわずかに頭を下げた。
猫は何も考えていない顔で、もう一度欠伸をした。
「では、先行事例への接触確認を──」
黒瀬の指先が、猫へ近づく。
その瞬間。
猫は怒るでもなく、威嚇するでもなく、橘の膝からするりと降りた。
そして黒瀬の手が届かない位置まで移動し、自販機の陰で何事もなかったように丸くなる。
「……」
黒瀬の指先だけが、空中に残った。
橘は数秒耐えた。
しかし普通に無理だった。
「っ、ふ……あはは! 一番静かに拒否られてんじゃん。猫、人間より賢い」
「拒絶ではない。これは接触可能範囲の再定義だね」
「拒絶だよ。猫に避難訓練させんな」
黒瀬は、猫ではなく橘の膝を見た。
ついさっきまで猫が丸くなっていた場所が、今は空いている。その事実だけが、黒瀬の中で必要以上に光を帯びた。
「……空いたね」
「言うと思った」
「この場合、予約枠が解放されたと考えるのが自然だと思う」
「猫のキャンセルが出たからって、飛び込み客入れないから」
「キャンセル待ちは?」
「受付終了でーす。次回も未定」
「……待てばいい?」
「真に受けんな。そういうとこだぞ」
その一連のやり取りを、通路側からつきのが見ていた。
彼女は購買のパンを片手に、足を止めたまま動けない。
猫、橘、黒瀬、鮭おにぎり。
昼休みの大学に並んでいい要素ではなかった。
「……めるちゃん達、何してんの?」
「膝のキャンセル待ち」
「最悪の説明ありがとう。今どこから通報すればいいか迷ってる」
つきのは猫と黒瀬を交互に見た。
引いてはいるが、逃げるほどでもない。
無響大学で生きていると、こういう異常な光景にも、ほんの少しだけ足を止める余裕が生まれてしまう。
「黒瀬くん、猫にも距離置かれてるの?」
「距離ではない。段階管理してるだけ」
「便利な言葉だね」
「便利だから使ってる」
「ついに開き直ったね」
橘は自販機の陰で丸くなる猫に向かって、軽く手を振った。
「はい、猫さん休憩入りましたー。本日の勤務終了のお知らせ」
「次の接触可能時間は?」
「ブラック企業みたいな聞き方すんな」
黒瀬は少しだけ考え、それから鮭おにぎりの残りを見た。
包装の角を丁寧に折りたたむ。その手つきはやはり綺麗だった。食べ終わった包装紙すら丁寧に扱うのは、後で保管するからだろうか。
「でも今日は、進展があった」
「猫に静かに避けられて?」
「めるから直接、食物を受け取った。これは大きいよ」
「さっきの餌がどうかした?」
「今までの僕は、君を外側から観測するだけだった。でも今日は違う。君の手から渡されたものが、僕の内側に入ったんだ」
「おにぎり一個で人生進みすぎてウケる」
「しかも鮭だ。猫と同系列」
「猫をライバル視したり仲間扱いしたり忙しいな」
橘は立ち上がる。
スマホを確認し、通知をいくつか流し見した。
その小さな電子音に、黒瀬の視線がわずかに反応する。
猫ポエムがバズり、世界が橘へ群がったあの日から、黒瀬にとって通知音は少しだけ嫌なものになっていた。
だが、今日の橘は黒瀬に構わない。そこまで拾うと面倒だからだ。
「じゃ、私行くわ。猫に変なポエム聞かせんなよ。あとそのブレスレット、後で外すから。猫の首にじぇにの感情背負わせるのかわいそうだし」
「……外すの?」
黒瀬の顔が、少しだけ沈む。
さっきまで系列だの外部胃袋だの言っていた男が、急に捨てられかけた犬みたいな顔をする。
黒瀬にとって、そのブレスレットはもう単なる追跡装置ではない。橘と猫と自分を無理やり繋ぐ小さなハブだった。
だからこそ、外されるという言葉に少しだけ落ち込む。
橘はそれを見て、面倒くさそうに息を吐いた。
「代わりに鈴でもつけとけば? 普通の、ちゃんと軽いやつ。猫が嫌がんなければね」
「……めるの許可。僕が選んでいいの?」
「猫が嫌がんなければ、な」
黒瀬は少しだけ嬉しそうに頷いた。
猫の首輪ひとつでここまで人生に光を見いだせる男も珍しい。
つきのが小声で言う。
「めるちゃん、今ちょっと優しかったね」
「うるさ。猫に対してだけな」
「黒瀬くんにも効いてるけど」
「副作用じゃん」
橘はつきのと並んで歩き出した。
黒瀬を置いていくこと自体は、この数日と変わらない。
ただ、今日は置いていった先でまた何か始めるのだろうと、橘は少しだけ思った。
背後では、黒瀬が自販機裏の猫に向かって真剣な声で話しかけている。
「君の好みを把握したい。鈴の音量、重さ、色、素材。全部、君の拒絶反応を見ながら調整する。めるが許可したからといって、君の自由意志を無視するつもりはないよ」
「にゃあ」
「今のは承認?」
「絶対違ぇよ」
「では保留だね。次回までに三案用意しておく」
「猫にプレゼンすんな!」
橘は振り向かずに笑った。
その笑いは、黒瀬を受け入れた笑いではない。
かといって、完全に切り捨てた笑いでもなかった。
どうしようもなく面倒で、近寄られると厄介で、しかし見かけたら反応してしまう。
黒瀬は橘の日常の中で、そういう非常に迷惑な位置を取り始めていた。
本人に言えば、愛だの運命だのに変換されるので、絶対に言わないが。
その日の夕方。
無響大学・非公式掲示板には、新しいスレが立った。
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【現地】猫男、猫に首輪プレゼン開始【自販機裏】
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1:名無しの無響生
猫男、猫に「鈴の音量は君の拒絶反応を見て調整する」とか言ってる
2:名無しの無響生
猫相手に商談すな
3:名無しの無響生
猫「にゃあ」
猫男「承認ではなく保留だね。次回までに三案用意しておく」
4:名無しの無響生
猫にプレゼンしてて大草原
5:名無しの無響生
今日、橘めるが猫と猫男に鮭分配してたらしい
6:名無しの無響生
餌付けやめろ
増えるぞ
7:名無しの無響生
もう増えてるだろ
自販機裏に棲みついてる
8:名無しの無響生
今日の名言
「カロリーの移動は、愛の移動」
9:名無しの無響生
栄養学「やめて」
10:名無しの無響生
猫→保護
鮭→供養
猫男→学生課
橘める→餌やり禁止
11:名無しの無響生
昨日、猫が女子寮裏にいた時、猫男もセットで警備員に追われててクソワロタ
12:名無しの無響生
猫にGPSつけた結果、自分が不審者として検出されるの草
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黒瀬本人だけは、それをまた新しい祝福だと受け取った。
この日から、橘にとって黒瀬じぇには「聖域を出たら頭から消える男」ではなくなった。見かけたら笑えるし、放っておくと植え込みから出てくる男になった。
人としてはだいぶ終わっているが、コンテンツとしてはわりと強い。
猫は何も背負っていない。
ただ、鮭と昼寝が好きなだけである。




