第1話 『偶然』の概念、無事死亡
駅前は、人の多さと音の多さで、だいたい何もかもがどうでもよくなる。
電車の到着を知らせる電子音。改札を抜ける足音。店先から漏れる安いポップソング。
誰かの笑い声。ため息。スマホの通知音。どこかの誰かが電話越しに言う「今どこ?」。
全部が重なって、街そのものが雑なスピーカーみたいになっていた。
音質は悪いのに、音量だけは無駄にある。
橘めるは、その音の中で平然とスマホを見ていた。
ピコン。
また通知音が鳴る。
『猫は無事? 男は別にいい』
『次の進化先何?』
『ラブホ街の観光大使になったってマジ?』
『あの人紹介して。顔だけでいい』
「顔だけでいい、は分かる」
橘はフラッペのストローをくわえたまま、雑に笑った。
数日前、黒瀬じぇにはラブホテル街で猫に愛のポエムを捧げてバズった。
泥、ネオン、茶トラ。そして、猫には一切背負う義務のない宇宙規模の愛の比喩。
一般社会では黒歴史と呼ぶものを、黒瀬だけは記念日として祀っていた。
掲示板のスクショは消えた。落書きも消えた。動画もいくつかは消された。
だが、消えたところで何にもならない。
大学生という生き物は、講義内容は忘れるくせに、顔のいい男がラブホ前で猫に宇宙を背負わせた記憶だけは異様に保存するのだ。
その結果、橘のスマホは少し騒がしくなった。
「あいつ、飯のタネとしては優秀なんだよな。話題性だけならマジでコスパ良い」
橘は改札横の柱にもたれ、通知欄を流し見しながらストローを噛む。
「本人が近くに来なければ、だけど」
言った瞬間、少しだけ後悔した。
こういうことを口に出すと、だいたい来る。
そして黒瀬は、そういうフラグだけは異様に律儀に回収してくる男だった。
そもそも黒瀬は、橘があの部屋に泊まった日より前から充分おかしかった。好意の話に「所有」「保存」「契約」を混ぜてくる時点で、普通の大学生ではない。
ただ、前はまだ「きっしょ」で済んだ。
聞き流せたし、無視もできた。黙らない時は、それはそれで面白かった。
問題は、あの夜を境に、黒瀬だけが何かを勝手に更新したことだった。
橘が流した言葉を契約にした。
帰り際の手振りを約束にした。
雑な笑い声を記念日にした。
たぶん彼の中では、あの日を境に暦が変わっている。
「じぇに暦、勝手に始めんなよ。記念日増やす前に人間としての平日を過ごしとけ」
昨日まで「変な人」だった男が、翌日から「変な関係者」みたいな顔で橘の生活圏に発生し始めたのだ。
非常に迷惑である。
そして、少しだけ面白いのが最悪だった。
橘は改札横のガラスに自分の顔を映し、軽く前髪を整える。
アイラインはまだ生きている。ラメも落ち切っていない。リップの見栄えも許容範囲。
今日の自分は、まだ他人に見せられる顔をしている。駅前の照明なら勝ちだ。
「橘さん?」
声をかけられて、橘は振り向いた。
今日の待ち合わせ相手は佐伯まさきだった。
同じ大学の男。講義で何度か見たことはある。名前を覚えたというより、DMの文面が軽くて覚えやすかった。
数日前、猫ポエム事件のあとにDMが来た。
『例の猫男の話、詳しく聞きたいんだけど。奢るから飲み行かない?』
橘はそのメッセージを見て、3秒だけ考えた。
猫男の話で飯代が浮く。ついでに暇も潰れる。
非常に健全な利害の一致である。
黒瀬が重すぎた反動で、こういう薄い誘いがやけにありがたい。
明日には忘れていい約束。名前を保存しなくていい距離。
橘にとって、それはわりと救いだった。
佐伯は、普通に顔が良かった。
背は高い。細く金のメッシュが入った黒髪に、スキニーと雑に羽織ったジャケット。
チャラいと言えばチャラいが、駅前の光や安いポップソングにちゃんと馴染むタイプのチャラさだった。
飲み会に一人いれば「今日当たりじゃん」と言われる側の男。場を温めるし、深く踏み込まないし、帰りたい空気も笑って流せる。
会話の途中に何度もスマホを見るが、悪気はなさそうだった。深い話ができないというより、深い話にしない選択ができる男に見える。
橘の今夜の暇つぶし相手としては、最高にちょうどいい。
「で、猫男ってマジで知り合いなの?」
「知り合いっていうか、発生源不明の災害」
「でも災害にしては顔はガチじゃん。動画見たけど、普通にあれで中身まともなら勝ち組でしょ」
「中身まともなら猫に求婚してないんだよな」
「それはそう。てか動画残ってないの? 友達に見せたいんだけど」
「初対面寄りでそれ聞くのだいぶ俗だよ」
「あれは共有財産でしょ」
「不審者を文化遺産にすんなよ」
橘の軽口に、佐伯は笑いながらまたスマホを見た。
たぶん誰かに「今から猫男の知り合いと飲む」くらいの雑な報告でもしているのだろう。
橘本人ではなく、橘の周りで起きた面白い事故に寄ってきた男。
軽くて、薄くて、明日には残らない。
でもそこがいい。
佐伯はスマホを片手でいじりながら、だるそうに息を吐いた。
「駅着いた瞬間、もう帰りたくなったわ。人多いし音うるさいし、今日別にそんな飲みたい日でもないんだよな」
「じゃあ帰れば? 改札、まだあんたのこと拒否してないよ」
「いや、来ちゃったし」
「何その理由」
「人生って、だいたいそうじゃん。帰りたいけど来ちゃった、みたいな」
「悟り薄っす」
「でも橘さんも似たようなもんでしょ。猫男の話で飯代浮くから来た、みたいな」
「まあね。帰るのも飲むのもだるいから、間を取って人に奢らせようとしてる」
「最低じゃん」
「合理的って言って」
IQの低い会話が心地よく成立していた。内容も意味もない。明日にはたぶん忘れている。
強すぎる感情も、重すぎる言葉も、明日以降の約束もいらない。今日の余白に置いておける程度の人間が、今は一番ちょうどいい。
その時だった。
「……める」
背後から、空気の湿度だけ急に三倍になったみたいな声が落ちてきた。
軽い男の声も通知音も安いポップソングも、一瞬だけ背景に沈む。
駅前の音量が、勝手に下がったみたいに。
「はいはい、出た出た」
振り返る前から分かる。
この密度。
この圧。
この「今じゃないだろ」感。
黒瀬だ。
佐伯がスマホから顔を上げて振り返る。
「……え、ガチ本人? 顔、動画より強くない?」
「中身も動画より強いよ。悪い意味で」
案の定、黒瀬は立っていた。
さっきまでそこにいなかった場所に、まるで最初から駅前の設備の一部だったみたいな顔で。
モブの群れの中に、急に画質の違う男が混ざったような違和感があった。駅前の照明も、雨上がりの濡れたアスファルトも、安い看板の色も、黒瀬の輪郭だけは雑に処理できない。
佐伯は、飲み会に一人いれば当たりの男だった。
黒瀬は、飲み会に一人いれば概念が死ぬ男だった。
佐伯は駅前に馴染む顔の良さだが、黒瀬は違う。
馴染まない。場所の方が、勝手に黒瀬へ焦点を合わせてしまう。
清潔感のある服装。静かな目元。首元には鎖デザインのチョーカー。
大学案内のパンフレットに載せれば「理知的で誠実そうな学生」として通用する。
「偶然だね」
「そのわりに待ち合わせ顔してるけど」
その第一声で、パンフレット適性は死んだ。
この瞬間、橘の中で「今日も終わったな」という雑な確信が生まれた。
通知音。駅前のざわめき。軽い男の笑い声。
そして、その全部を切り裂いて現れた黒瀬。
本来なら今日もまた、どうでもいい一日で終わるはずだった。
終わるはずだったのに。
黒瀬が出た時点で、だいたい何かの概念が死ぬ。
「同じ時間に、同じ駅前に、同じ方向へ向かう。それを人は偶然と呼ぶ」
「じゃあ今まで何分ここで待ってた?」
「11分」
「それ待ち伏せって呼ぶんだよ」
黒瀬は少しだけ黙った。
反省ではない。たぶん、言い換えを探しているだけだ。
「偶然の発生位置を調整しただけだよ」
「偶然の概念、死んだな」
黒瀬は、その言葉をなぜか満足そうに受け止めた。
しかも彼は、当然のように橘の隣へ並ぶ。距離の取り方だけは謎に自然で、駅前に立つ三人組として見れば違和感はない。
三人横並び。
誰が許可した。
「えっと……これ、三人で行く感じ?」
佐伯が、スマホを片手に持ったまま橘と黒瀬を見比べる。
「違う。勝手に増殖した」
「関係者だよ」
黒瀬が静かに訂正する。
「何の関係者?」
「全部」
「不審者の間違いな」
橘が即座に切ると、佐伯は数秒黙った。
まだ状況は飲み込めていない。けれど、その目だけは次第に別の色に変わっていく。
困惑から、好奇心へ。
目の前の異常が、自分に危害を加えるものではなく、あとで誰かに話せるネタだと判断した顔だった。
「……え、マジで本物じゃん。動画より圧ある。これ友達に言ったら絶対ウケるわ」
その瞬間、黒瀬の視線が佐伯へ向く。
音が一つ消えた気がした。
駅前の雑踏は変わらず鳴っている。電車は来るし、誰かは笑うし、スマホの通知も鳴る。
けれど黒瀬の目だけが、そこから佐伯の声を切り抜いた。
さっきまで橘しか見ていなかったくせに、ようやく佐伯の存在を認識したらしい。
ただし、人間としてではない。
たぶん黒瀬の中では今、佐伯は「橘の隣に立つ誰か」ではなく、「猫男ネタで飯を奢る装置」くらいに分類されている。
「君は、めるとどこへ行くの」
「普通に飲みに」
「普通に」
黒瀬は、その言葉だけをゆっくり反復した。
駅前の光が彼の横顔に薄くかかる。黙っていれば人目を引く程度には整っている。
黙っていれば。
「普通って、何を基準に言ってるのかな。今日のめるの体調、活動量、睡眠時間、昼食の摂取内容。そのあたりを考慮したうえでの普通?」
「いや、なんの話? 飲み行くだけで監査入れられても……」
「考慮していないよね」
「決めつけ早っ」
橘はフラッペのカップを持ったまま、だるそうに口を挟んだ。
「じぇに、今日も面倒くさいね。帰れば?」
「帰らない。今の君は、僕を餌にして外へ連れていかれようとしている」
「餌って言い方やめろ。あんたの奇行で飯代浮かせようとしてるだけだから」
黒瀬は、ほんの少しだけ目を細めた。
「僕は、君の飲み会の前座じゃない」
いつになくまともな言い方だった。怒りも拗ねもせず、ただ薄く静かに言い切る。
その瞬間だけは駅前の音が遠のき、佐伯の笑いが一度止まった。
「じゃあ主菜?」
「違う」
黒瀬の視線が、佐伯のスマホへ落ちる。
「僕を入口にして、君へ近づかれるのが嫌なんだよ」
「言い方が湿りすぎ。加湿器なら出禁だわ」
「今は軽く言ったつもりだったんだけど」
「それでこの湿度なら災害なんだよ。駅前でカビ育てる気?」
佐伯が横で小さく息を漏らした。
「んー、まぁ今のはちょっと分かる。俺、猫男の話聞きに来てる側だし」
「わかってんじゃん、まさき。自覚ある俗物は嫌いじゃないよ」
「褒められてる気がしない」
「褒めてない」
黒瀬は佐伯を一瞥した。
それだけで、佐伯の笑いがまた引っ込む。
「費用が理由なら僕が払うよ。めるが飯代を浮かせたいなら、僕だけでいい」
「そういう話じゃないんだよ。奢ればいいと思ってるところがもうダメ。今日は唐揚げ頼めるやつとテキトーに飲みたい気分なんで」
「じゃあ、何が足りない?」
「軽さ」
「……軽さ」
黒瀬はその単語を、初めて聞く学術用語みたいに反復した。
「そう。じぇには全部重い。言葉も視線も愛も発想も、ついでに空気も重い。胃もたれする」
「僕は唐揚げも頼めるよ。レモンも勝手にはかけない」
「張り合うとこ、そこ?」
「小皿も配る」
「じわじわ居酒屋スキルで攻めてくんの草」
佐伯が横で小さく笑った。
「そこまで言われたら一周まわってちょっと偉いわ。普通にできない男も多いし」
黒瀬は佐伯には構わず、橘だけを見て続けた。
「話さないこともできる」
「できてないじゃん」
「必要なら、発話頻度を1分あたり36%まで落とす。視線も3秒以内に区切る」
「急に設定画面開くなよ。今ちょっと人間寄りだったのに秒で機械に戻ったわ」
「君のための最適化だよ」
「それが重いんだって」
佐伯が堪えきれずに吹き出した。
黒瀬が、佐伯を見る。
「今、笑ったね。めるの言葉で」
「え? 普通に面白くて」
「めるの言葉に反応して笑うのは、君の立ち位置じゃない」
「怖っ」
佐伯の顔からわずかに余裕が消えた。目の前の異常が自分にも向いてくると分かった顔だった。
橘は片手を上げる。
「はい終了ー。駅前で治安の悪さに貢献するな。じぇには黙る。まさきは引いても帰るな。私は飯を食う。これで全員幸せ」
「僕は幸せじゃない」
「じゃあ我慢して。社会ってそういうものだから」
「社会の方が間違ってる場合は?」
「今その議論始めたらマジで置いてく」
黒瀬は黙った。
置いていく、という言葉だけは効くらしい。もちろん、黙ったところで存在感まで消えるわけではないが。
「で、飲み行くんでしょ。じぇには帰るか、せめて別の方向に歩きなよ」
「別の方向、という概念が難しいね。君が進む方向が、今の僕の目的地だから」
「最悪のナビだな」
黒瀬は当然のように歩き出した。
橘の横ではなく、半歩後ろ。距離だけなら控えめだが、気配がまるで控えめではない。
佐伯は橘の隣にいるが、さっきより明らかに歩幅が小さくなっている。
軽い男が、黒瀬の重力に巻き込まれ始めていた。
駅前の通りは、夜に向かって少しずつ色を濃くしている。雨上がりの歩道には、まだ湿った匂いが残っていた。
コンビニの揚げ物、居酒屋の呼び込み、学生の笑い声、どこかで鳴る通知音。
その中で、黒瀬だけは静かだった。
周囲の音を聞いているようで、聞いていない。橘のスマホが震えるたび、目だけがわずかに動く。
世界の中から、橘に届く音だけを選別しているみたいに。
「なあ、橘さん。あの人、当たり前みたいについてきてるけど、いいの?」
佐伯が小声で聞いた。
「よくはないけど、言って止まるなら今ごろ猫に求婚してない」
「説得力えぐ」
橘はちらりと後ろを見た。
「じぇに、聞こえてるなら何か言えば?」
「君が軽さを求めたから、発話を控えている」
「無言でも重いんだよ」
「……存在量を下げる?」
「人間がする調整じゃねぇ」
佐伯が笑いを堪えきれず、短く息を漏らしたが、黒瀬は何も言わなかった。
ただ、その一瞬だけ目を伏せた。
◇◇
居酒屋は、駅から少し歩いた雑居ビルの二階にあった。
看板は安っぽいが、唐揚げの写真だけは美味そうである。
橘はそれを見て少しだけ気分が上がった。
「唐揚げあるじゃん。はい勝ち」
「ちゃんと条件満たしたでしょ」
「しごできじゃん。唐揚げがある店は最低限の倫理を持ってる」
黒瀬の視線が一瞬だけ佐伯に向いたが、橘は無視して階段を上がる。進むにつれ、油と焼き鳥と安いアルコールの匂いが混ざって流れてきた。
ほどよくうるさく、ほどよく暗い。大学生が何かを忘れるにはちょうどいい店だった。
暖簾をくぐると、店員が笑顔で出迎えた。
「いらっしゃいませー。ご予約の方ですか?」
佐伯が口を開くより早く、黒瀬が一歩前に出る。
「予約はしていません。彼女の胃を油から守れる席はありますか」
店員の笑顔が、その場で固まった。
橘は天井を仰ぎ見る。
今日も終わったな、という雑な確信が、二度目の更新を迎えた。




