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黒瀬によれば、これは純愛らしい。  作者: 柊ナツキ
第1章『まだ隣にはいられない』

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EX1 猫は外部胃袋じゃない

 

 無響大学、昼下がり。


 例の猫ポエム晒し事件から数日が経っても、大学構内にはまだ妙な余韻が残っていた。


 掲示板からスクショは剥がされ、油性ペンの落書きも誰かが雑に消した。


 だが、人間の記憶というものは紙よりしつこい。特に面白い不審者の記憶は、学内ネットワークを経由してなかなか死なない。


「猫男、今日いた?」

「さっき自販機裏にいたぞ」

「人間の方?」

「人間」


 そんな会話が、昼休みの喧騒に混ざって普通に流れている。

 無響大学の治安は、今日もそこそこ終わっていた。


 橘は、コンビニ袋を片手に自販機裏へ向かう。

 中身は鮭弁当の空き容器と、申し訳程度に残した鮭の皮。


 以前なら残ったものは適当に捨てていた。けれど最近は、鮭の皮を見ると自販機裏の茶トラの顔が浮かぶようになっている。


 別に優しさではない。食べ物を無駄にしない精神でもない。

 ただ、あの猫は余計な意味を足さずに食う。それだけで人間よりだいぶ偉い。


「おー、いたいた」


 自販機裏の陰。

 日差しを避けるようにして、茶トラの野良猫が伸びていた。

 雑に伸びた短毛。眠たげな目。大学生よりよほど昼休みの使い方がうまい。


 その首元には、あの日のブレスレットの飾りがまだ残っている。


 ただし、黒瀬がいつの間にか軽い紐に通し直したらしく、前よりは猫への負担が少なそうだった。あくまで「少なそう」であって、そもそもつけるなという話ではある。


「残飯持ってきたよー。今日も猫生やってる?」


 橘はしゃがみ込み、鮭の皮を小さくちぎって猫の前に置いた。


 猫は一度だけ橘を見上げる。

 そして、まるで「まあ食ってやるか」とでも言いたげに、ゆっくり咀嚼し始めた。


「態度でか。じぇにより大学馴染んでるじゃん」


 橘が雑に笑いながら、猫の頭を撫でる。

 猫は当然のようにそれを受け入れ、喉を鳴らした。


「じぇにの貢ぎ物の代わりに、私からの現物支給。あんた、あいつに毎日ポエム聞かされててよく精神病まないね。普通に尊敬するわ」


 猫は答えない。答えないから可愛い。


 人間はだいたい、喋ると余計なことになる。特に黒瀬という男は、喋るたびに世界へ異物を混ぜる。


 その瞬間だった。

 自販機横の植え込みが、ガサッと揺れた。


「──」


 橘の手が止まる。猫も一応そちらを見る。


 ガサ。

 もう一度揺れる。


 以前なら、もう少し驚いたかもしれない。


 しかし今の橘は、植え込みが揺れた時点で黒瀬を想定できる程度には、この数日で嫌な学習をしていた。

 成長ではなく、被害経験だ。


「出てこい。ラブホ前の時点で植え込みキャラ確定してるから」


 数秒の沈黙のあと、植え込みの奥から黒瀬が現れた。


 葉っぱはついていない。泥もついていない。

 しかし、植え込みから出てきた時点で人間としてはかなりアウトだった。


「……偶然だね、める」


 植え込みから出てきた側が、信じがたいほど堂々と言った。


「無理あるって」


「自販機に用があった」


「じゃあ早く買えよ」


「今はそれどころじゃない」


「じゃあ自販機を言い訳に使うな」


 黒瀬は植え込みの影から一歩だけ出たところで止まった。橘と猫からは微妙に距離を取っている。


 それでも視線だけは、猫の口元に固定されていた。

 正確には、鮭の皮を食べている口元に。

 鮭の皮。橘の指。猫。首元のブレスレット。

 その四つの情報が、黒瀬の中で勝手に接続されていく。


「……なるほど」


 本来繋がってはいけない点と点が、彼の脳内で都合よく一本の線になる。


「めるは、この子を外部胃袋として使っているんだね」


「最悪の単語出たな。猫を周辺機器扱いとかえぐい」


 黒瀬はスマホを取り出し、メモアプリを開いた。

 指の動きだけが異様に速い。


 ──12:45 対象、外部ユニットへエネルギー供給。

 ──12:46 対象、外部ユニットと接触。

 ──12:46 ブレスレット経由、間接リンク確立。


「君が鮭を渡した。猫が食べた。猫には僕のブレスレットがある。たったそれだけで、僕は君の昼食に混ざれる」


「鮭がかわいそうだから混ざるな」


「実質、相席だ」


「相席の定義を法廷で争おうか?」


「これは事実上の間接摂取でもある。カロリーの移動は、愛の移動でもあるんだ」


「栄養学と鮭に謝れ」


 猫は何も知らない顔で鮭の皮を食べている。


 人間の愛情表現も妄想も、猫には関係ない。食えるものがあるから食っているだけだ。


 橘はコンビニ袋の中を覗いた。


「今日は人間の方の餌ないよ」


「なぜ」


「前にやったら宗教行事になったから」


「鮭おにぎりの件だね」


「もう名前ついてんのかよ」


 猫はあっさりと鮭の皮を食べ終わり、橘の靴先に体を寄せたまま、前足で顔を洗っている。


 橘も特に追い払わない。邪魔そうにもしない。ただ、そこにいることを当たり前みたいに許している。


「……猫って、審査なしで近づけるんだね。僕は毎回止められるのに、その子は顔パスなんだ」


「あんたは顔パスのあとに中身で強制送還されるタイプ」


 橘はそう言って、自販機横の低い縁に腰を下ろした。

 そして黒瀬は、今日いちばん見てはいけないものを見ることになる。


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