26.屍の上に立つ、慈愛の影
玉座の間。
静けさが残っていた。
王座の上には、もう誰もいない。
砂のように崩れ去った王の跡だけが、そこに残っている。
カテリーナはしばらくその場所を見つめた。
やがて、ゆっくりと振り返る。
視線の先には――エリス。
かつて王族の血を引く者。
カテリーナは一歩近づき、静かに口を開く。
「……エリス様」
言葉を選ぶような、落ち着いた声だった。
「王位は、本来あなたのものでは……」
エリスはふっと口角を上げた。
気負うカテリーナを宥めるように、その肩にそっと手を置く。
「案ずるな、カテリーナ」
そして腕を組み、静かに、だが峻烈な意思を込めて言い切った。
「良いのです……今の我が主は、パパタローだ」
その視線は、傍らに立つパパタローへ向けられていた。迷いのない、契約と信頼の証。
エリスは再びカテリーナを見つめ、その瞳に宿る覚悟を射抜くように続けた。
「……それに、貴女はメイダの魂をその身に背負い、戦い抜いた」
一歩、エリスが詰め寄る。その距離はもはや主従ではなく、国を共に担う戦友の距離だ。
「それはつまり、貴女こそがメイダの意志……すなわち、我らの『女王』だということだ」
エリスは小さく、満足げに微笑んだ。
「これほど王の座にふさわしい者が、他にいるか……?
カテリーナ、貴女が座らぬのなら、この玉座は永遠に空席のままだろう」
カテリーナは、その「貴女」という呼び声に込められた重圧と敬意に、言葉を失った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
城のバルコニーへと続く大扉が、重々しい音を立てて開け放たれた。
差し込む朝陽に目を細め、一瞬だけ光を浴びる。
一歩、外へ踏み出すと――空に、巨大な影が横切った。
翼を広げた黙示竜が、戦場の上空を悠然と滑空している。
その鱗は朝陽を反射して鋼のように輝き、吐息は霞のように地上を覆う。
民衆はその姿に息を呑み、瓦礫と戦火の広場を見上げる。
竜は咆哮を上げずとも、存在そのもので希望と畏怖を同時に与え、新たな時代の到来を告げた。
地を揺るがすような、凄まじい歓声が私を包み込む。
「カテリーナ様だ!」
「我らが女王!」
「メイダに光を!」
城門の向こう、広場を埋め尽くす数万の民。
ボロボロの服を纏い、飢えと恐怖に耐えてきた彼らが、今、枯れた声を振り絞り、私の名を呼んでいる。
私は手にしたハルバード・カスタムの石突きで、バルコニーの石畳を力強く一度だけ叩いた。
――ゴンッ!!
魔力を乗せたその一撃は、喧騒を裂き、広場全体に響き渡る。
静寂が、波のように広がっていく。
ハルバードを傍らのエリス様に預け、一歩前へ出る。
かつて王が立ったその場所で、私は民を見渡し、静かに、だが全ての者の魂に届く声で語り始めた。
「……民草よ。……そして、共に戦い抜いた同胞たちよ」
風が、女王の乱れた髪をなびかせる。
女王としての威厳を纏いながらも、どこか『いつもの』不敵な笑みを浮かべた。
「私は、ノアス王よりこの国を託されました。……ですが、勘違いなさらぬでいただきたい。
私は、皆様を甘やかすような慈悲深い王には、決してなりませんわ」
どよめきが走る。私はそれを制するように、さらに声を張った。
「この国は今、瓦礫の山です。……ならば、まずは『お掃除』から始めるべきでしょう?
涙を拭い、立ち上がり、その手で泥を払いなさい。
このリスフェルドを、世界で最も清潔で、最も規律正しく、そして……最も『美味しい紅茶』が飲める国に作り変えるのです!」
女王は右手を高く掲げた。
「私は皆様の王であり、同時に……この国の『筆頭執事』ですわ。
働く者には報いを、怠ける者には……私の厳しい教育が待っておりますわよ!」
一瞬の沈黙。
そして、先ほどよりもさらに巨大な、笑いと涙の混ざった歓声が爆発した。
恐怖による支配ではなく、共に汗を流す「主」を認めた、希望の咆哮だった。
カテリーナは横を向き、パパタロー様と目が合う。
少しだけ、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
「……さて。パパタロー様、エリス様。
お掃除の時間は、これからですわよ?」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
熱狂的な歓声は、ただの勝利の声ではなく、泥の中から立ち上がろうとする不屈の民たちの咆哮だった。
掲げた右手をゆっくりと下ろし、民たちの顔一人ひとりを刻み付けるように見渡す。
絶望の淵にいた彼らの瞳に、今、小さな、けれど消えない灯火が宿っていた。
女王カテリーナはバルコニーから一歩下がり、控えていたパパタロー様とエリス様のもとへ戻った。
ハルバードを受け取る仕草すら、もはや戦士ではなく、国を差配する者の所作へと変わっていた。
「パパタロー様、そんなに呆けた顔をなさらないで。……女王になったからといって、貴方様への『お小言』が減ると思ったら大間違いですわよ?」
カテリーナはわざとらしくため息をつき、指先でパパタローの肩に乗った砂を払う。
「エリス様、貴女もです。王族の矜持を捨てて戦士として生きると仰るなら、まずはそのボロボロになった装備を磨き上げること。……一国の主を支える者が、そんな小汚い格好では示しがつきませんわ」
エリスは一瞬面食らったような顔をし、すぐに快活な笑声を上げた。
ふと見上げれば、上空では黙示竜が悠然と旋回を続けている。
その影がバルコニーを横切るたび、新時代の訪れを実感せずにはいられなかった。
「……さて。感動の再会と戴冠式はこれで幕引きですわ」
カテリーナは踵を返し、玉座の間のさらに奥、政務を司る執務室へと続く廊下を見据えた。
「パパタロー様。……この国の再興には、貴方様の『知恵』と『運』、そして何よりその……人を惹きつける不思議な力が必要ですの。……いいえ、命令ではありませんわ。これは、新女王からの最初で最後の『お願い』ですわ」
カテリーナは一瞬だけ、女王の仮面を脱ぎ、一人のメイドに戻ったような柔らかな微笑みを向けた。




