Part 0 第3話
霧に煙る灰色の石畳の道を抜けたのは、日が高く昇ってからだった。
二輪馬車キャブの鋭い鉄輪の音と、石畳を叩いていた騒々しい蹄の音が、耳元から次第に遠ざかっていった。
人の気配さえ届かない深い森。レイデンの結界を解いて足を踏み入れると、鬱蒼とした木々の間から、壮麗なシャトーの静かなシルエットが姿を現した。
レイデンが胸に抱えた紙袋越しに、焼きたてのバゲットの温もりが染み込んできた。
「戻った」
重厚な木の扉を開けると、外の冷たい空気を一息に押しのける温もりが、ふわりと押し寄せてきた。
居間の奥では、忙しなくお玉をかき回すアッシャーの後ろ姿とともに、とろ火で煮えるスープと、バターで焼かれる肉の香りが、柔らかく広がっていた。
「お帰りなさい。あの子たちを起こしてきていただけますか?」
アッシャーはスプーンを取り出してスープの味を見ながら、淡々と言った。
「あいつらは、いつになったら分別がつくんだ」
レイデンは舌打ちしながら呟いた。
「ハユルは貴方とそう歳も変わらないはずですが……」
アッシャーがこぼすように付け加えた言葉を無視して、レイデンは無造作な足取りで廊下を歩き、アレックスの部屋の扉を荒々しく開け放った。
ベッドの上にあるはずの毛布を軽くめくったが、指先に触れたのは、温もりもなく冷え切った空のシーツだけだった。
その瞬間、レイデンの眉間にしわが寄った。
間髪を入れず全身に黒い魔力の波動を走らせた彼は、ハユルの部屋へ向かって素早く駆けていった。
乱暴に扉を開けると、広いベッドの上で何も知らず眠っているハユルの金色の髪が、目に飛び込んできた。
その傍らで並んで横になり、寝息を整えているアレックスのシルエットを認めた直後、鋭かった目元がわずかに沈み、すぐに冷たい殺気を帯びて光った。
レイデンは音もなくベッドの枕元へ歩み寄り、虚空から大口径の拳銃を実体化させた。
冷たい銃口が、アレックスの額のど真ん中を強く押さえつけた。
殺気を察知したアレックスは、獣のようにカッと目を見開いて跳ね起きた。
摩擦音とともに、彼の手の中に巨大なガンブレードがずしりと収まった。
刃が銃身を受け流して火花を散らし、鋭い軌跡がレイデンの顎の下をかすめた。
軽く上体を後ろへ反らして軌跡をかわしたレイデンが、再びアレックスの顔に向けて拳銃のフレームをぐっと固定した。
「未成年……なぜハユルの部屋にいる?」
「は! またそれかよ? ハユルヌナが俺と一緒に寝たいって言ったんだよ!」
アレックスの言葉に、レイデンが引き金にかけた指に力を込めて引こうとした、そのときだった。
「ふあぁ……」
ハユルは目をこすりながら起き上がり、思いきり伸びをした。
続けてお腹をぽりぽり掻きながら、本能のままに美味しそうな匂いのする方へ、悠々と歩いていった。
二人の男は、ハユルの消えていった後ろ姿をぼんやりと見送っていたが、ふと互いの視線がぶつかった。
二人はしばらく固まったまま立ち尽くしていたが、武器をしまうと、示し合わせたかのように同時にため息をついた。
そんなことはお構いなしに、ハユルは台所へとてとてと駆けていき、食卓に並んだ美味しそうな料理を見て歓声をあげた。
「わあ! アッシャー、これ何? 朝からすっごく頑張って準備したんだね?」
アッシャーの笑う目が半月のように細まり、細く長い手がハユルの頭にそっと載せられた。
少し腰をかがめてハユルの目の高さに合わせると、額に口づけを落とした。
ハユルは頬をほんのり染め、はにかんで笑った。
「えへへ、アッシャ~。手伝いたかったのに、起きるのが遅すぎちゃった」
「その必要はありませんよ、ハユル。お掛けください。貴女のお仕事は、私の料理を美味しく召し上がることです」
ハユルはぱっと笑って「はーい!」と答えた。
椅子にぴょんと飛び乗ると、レイデンがハユルの隣に来て、無造作にスプーンを手に取った。
屈託なく笑うハユルの姿に、冷たく固まっていた唇がほどけ、彼はわざわざ料理をすくってハユルに差し出しはじめた。
すると、左に陣取ったアレックスが、レイデンをちらりと見やり、憎たらしくハユルの耳元で囁いた。
「ヌナ~、寂しくて俺のそばで寝たかったんだろ~」
その言葉を聞いた途端、レイデンが持っていた銀のスプーンが真っ二つにへし折れた。
「アレックス、そのくらいにしておきなさい。また家が吹き飛ぶところを見たいのですか? 今日は休みなしで、レイデンが貴方の訓練を二倍に増やすかもしれませんよ」
アッシャーは向かいでエプロンで手を拭うと、静かに腰を下ろしてアレックスを見つめた。
「ちっ……こういう時だけ師匠面しやがって」
アレックスはレイデンをじろりと見やった。
過去十年間、彼の下で叩き込まれた地獄の記憶が、脳裏をよぎった。
結局、尻尾を巻いた猛獣のように、ステーキにフォークをぐさりと突き刺してむしゃぶりついた。
「アッシャー、やっぱり朝からワインはちょっと……?」
ハユルは口をもぐもぐさせながらアッシャーを見上げ、顔色をうかがった。
「ご心配を演算に入れておく必要はありませんよ、ハユル。昼はサロン・ド・プレローマへ参りますし……夜は、貴女のその気だるい疲れとお気持ちに合わせて、最も秘めやかなヴィンテージワインと、舌先を完璧に蕩かす晩餐を、私が直々にご用意いたしますから」
「サロン・ド・プレローマ! あそこ、すっごく人気で予約取るの大変なのに? どうやったの?」
ハユルは目を輝かせてアッシャーを見上げた。
アッシャーが眼鏡のフレームをすっと押し上げると、レンズの上を白い光がきらりと走った。
「ふふ、わざわざお知りになる必要はないでしょう?」
彼は目をゆっくりと閉じ、泰然自若とした微笑みを浮かべてみせた。
その様子を見ていたアレックスが、フォークの先でアッシャーを指差すようにして、げらげらと笑った。
「うわ、マジで怪しすぎだろ。また裏で何かやらかす気かよ?」
アッシャーはアレックスの皮肉に言い返しもせず、余裕の笑みをこぼすだけだった。
「あの……アッシャー」
ハユルは両手の親指をもじもじと動かしながら、そっと彼を呼んだ。
「はい、ハユル。気楽におっしゃってください」
「今日はいい日なのに……悩みごと、ひとつだけ話してもいいかな?」
アッシャーはスプーンを握っているハユルの手の甲に、自分の手をそっと重ねた。
ハユルはアッシャーの温もりを感じながら、その柔らかな顔を見つめていたが、そっとうつむき、おずおずと口を開いた。
「もしもね。みんながいなくて、一人だけ残されたら、どう動くのがいいのかな?」
ハユルの言葉が落ちた途端、食卓の上のあらゆる動きが一斉に止まった。
静かに状況を見守っていたレイデンが、重い拳で食卓を叩きつけ、きっぱりと言い切った。
「そんなことは起こらない」
席から立ち上がったレイデンが、大股で歩み寄り、ハユルの顎先をぐっと持ち上げた。
彼の冷ややかな青い瞳が、ハユルの澄んだ桃色の瞳を絡め取るように、視線を縛りつけた。
「お前は、俺のそばにいればいい」
アッシャーがレイデンに近づき、彼の肩をとんとんと叩いた。
「レイデン、それではハユルが戸惑います。ご覧なさい」
肩に触れた手が癇に障ったのか、レイデンのこめかみに青筋が浮いた。
しかしハユルが息を殺して自分を見上げると、顎先をつかんでいた指の力を、そっと緩めた。
「昨日はかなり危険でしたからね」
アッシャーが自然にハユルを自分の胸へ引き寄せようとした刹那、その気配に気づいたレイデンが、ハユルの腕を荒々しくつかみ取り、自分の膝の上へ一息に座らせてしまった。
いつものように無表情だったが、どこかへそを曲げた子どものように振る舞い、スープをたっぷりすくったスプーンを、ハユルの口元へぬっと差し出した。
「食え」
ハユルはびくりと驚いて肩をすくめたが、目を丸くしたまま、レイデンが差し出したスプーンを雛鳥のようにおとなしくぱくりと食べた。
レイデンは、ハユルがスープをごくりと飲み込むのを確かめてから、ようやくスプーンを置いた。
続いて、ハユルの身体が壊れてしまいそうなほど、両腕でしっかりと閉じ込めるように抱きしめた。
慣れた拘束感に、ハユルはおとなしく抱かれて頬をもぐもぐさせていたが、やがて消え入りそうな声で呟きはじめた。
「一人でできるのにやらないのと、そもそもできなくて足手まといになるのは違うから……その、自分でもちゃんとやり遂げたいの。レイデンが、あのとき代わりに攻撃を受けてくれたじゃない……」
ハユルの声が地面に沈むように小さくなると、レイデンの顎が冷たく強張った。
すぐに、低く押し殺した荒い声が飛び出した。
「黙れ」
その殺伐とした制止に、アッシャーがハユルの華奢な肩へそっと手を置いた。
「ハユル、レイデンの判断は正しかったのです。戦術的にも、感情的にも。貴女が崩れたら、私たちは終わりですから」
「でも……」
眉をわずかに寄せたハユルが、すっかり縮こまった小動物のように、彼らを見上げた。
「モナドが授けた魔力でさえ、欠乏から生まれるものです。完璧である必要はありません、ハユル。貴女のその隙さえも美しいのですから」
アッシャーはハユルの両手を包み込み、祈るように合わせた。
すると、穏やかな金色の『均衡』の魔力が流れ出て、彼女の魔力を自然に引き出した。
金色と桃色がほのかに溶け合い、まるで蛍の群れのように、周囲を柔らかく包み込んだ。
その様子を黙って見つめていたレイデンも、指先の魔力を微細に調整し、黒曜石のような色合いを少しずつ咲かせていった。
彼はハユルを自分の硬い胸板にぴたりと密着させ、静かに肩へ顎を載せた。
「欠乏があるからこそ、今のお前がいる。それが神の教えだ。余計なことを考えるな」
宙に溢れる魔力を眺めながら、アレックスがふっと失笑をこぼした。
鋭かった目元がやがて柔らかくほどけ、指先から赤と青の二筋の魔力が跳ね上がり、宙を巡った。
「神だか何だか知らねえけど、ヌナは考えすぎなんだよ。血を吐きながらみんなを助けて、自分の身まで守れるサポーターが、どこにでもいると思うか? 完全に超激レアなんだぜ」
ハユルはぽかんと口を開けたまま、居間の中を漂う燦然たる魔力の光の群れから、視線を離せなかった。
それぞれの欠乏から咲いた『純粋』と『深淵』、『均衡』、そして『破壊と自由』の光が、ひとつに絡み合って揺らめいていた。
「あの……」
しばらく床へ向いていた顔が、やがてゆっくりと上がり、自分だけをまっすぐに映している三人の視線と重なった。
喉元まで込み上げる感情をぐっと呑み込んだハユルが、最後には屈託なく笑ってみせた。
「うんっ!」




