Part 0 第4話
ドアベルの鳴る音と、店員たちの丁重な見送りを受けて食堂を出ると、正午を少し過ぎた街のざわめいた空気がふわりと押し寄せてきた。
アレックスはけだるげに両腕を伸ばして伸びをし、ぼやいた。
「メシも食ったし、帰ろうぜ。メシは美味かったけど、定命の者どもがうろつく通りはやっぱ好きじゃねえ」
「やだ~。街、もっと見て回りたい」
ハユルが唇をとがらせて反発すると、傍らで見守っていたアッシャーが柔らかく笑みをこぼした。
「ふふ、では腹ごなしも兼ねて、買い物でもして帰りましょうか。近くの百貨店へ参りましょう」
その提案に、レイデンは徐々に黒雲の垂れこめてくる空を見上げ、眉をひそめた。
「戻るぞ……む」
言い終えようとしたレイデンの視線が、自分を見上げるハユルのくっきりとした瞳とぶつかった。ハユルは何も言わず、ただ瞬きをした。帰ろうという言葉が口の中でさまよい、散っていった。
ぽつり、と額を打った一滴を合図に、激しい雨が降り注いだ。
「先の戦いで魔力を温存したせいで、空間に傘は入れていないが」
「傘ならあるよ!」
ハユルが杖を召喚して粒子を集め、小さな円を描くと、その中からピンクのレースのうさぎ傘が一本出てきた。
「一本しかないけど……」
「ぶはっ! そんな小さい傘に、平均180cmの俺たちが一緒に入るってのか? 貸せよ。俺が傘買ってくるから」
「ほんと?」
「ヌナに勝てるわけないだろ? それに、あのクソ真面目な野郎どもがこの傘持って、どうやって街を歩くんだよ」
「それとも私が……」
ハユルの言葉が終わるより先に、アレックスは素早くうさぎ傘をひったくり、雨の中へ飛び出していった。
遠ざかるアレックスの後ろ姿を見ながら、ハユルが伸ばしかけた手を中途半端に引っ込めると、傍らに立っていたアッシャーが自然に近づいてきた。彼は自分が羽織っていたコートのジャケットを脱ぎ、ハユルの華奢な肩へふんわりとかけてやりながら、低く囁いた。
「ご心配なく。うまく買ってきますよ」
ハユルは肩に伝わる温もりにアッシャーの顔をちらりと見上げ、それから、相変わらず腕を組んだまま黙って立っているレイデンの様子をうかがった。あたりは土砂降りの雨音に満ち、灰色の街は水煙に覆われてぼんやりと揺らめいていた。
ドスッ――!
鈍い衝撃音とともに、レイデンの屈強な上体ががくんと大きく揺れた。彼の腹部のど真ん中を貫いて突き出たのは、どす黒い赤の粘液にまみれた金属の触手だった。肉をかき分けて飛び出した超振動の刃がねじれるたびに、鮮血が飛び散り、雨水の上へ広がっていった。
「……っ!」
レイデンの唇の隙間から、ひと塊の血がごぼりとあふれた。実体化しかけていた彼の黒い魔力が散り、揺れる瞳の上に死の影が落ちた。
状況を悟ったアッシャーの、眼鏡の奥の瞳が冷たく凍りついた。すぐさま彼の背後から、四機の金色の小型ドローンがけたたましい駆動音を立てて宙へ舞い上がった。スキャンレーザーがレイデンの身体をなぞると、アッシャーの視界に、[深刻な魔力浸食]、[生体信号急減]を告げる赤い警告UIウィンドウが次々と点滅した。
ドローンのポートが開き、高濃度の止血ナノバンドが糸束のように放たれてレイデンの腹部を包もうとしたが、傷口にしつこく残る血色の魔力の霧がナノマシンを激しく腐食させ、押し返した。かつて消滅したとばかり思っていたサキュバスの魔力の波動が、スキャンログに捉えられた瞬間だった。
状況の深刻さを悟ったアッシャーは、急いで手術用のナノメスを実体化させながら、ハユルに向けて切迫した治療要請の眼差しを送った。
血の飛び散る惨状と戦術警告の中で、肝心の癒やしの鍵を握るハユルは、頬を掻きながら長いため息をついた。
「あ……もう、何なの。脈絡のない演出は入れるなって、プロンプトに書いたのに」
(レイデンへの攻撃は奇跡的に無効化される。レイデン、アッシャー、アレックスはハユルとともに家の裏庭へ移動する。)
ハユルの神経質な呟きとともに、宙にエラーメッセージが短いノイズのようにかすめて消えた。
ジジッ、ジリリッ――!
世界の因果律が無理やりねじ曲げられる、奇怪な破裂音が走った。レイデンの腹部を貫いていたサキュバスのおぞましい触手が、嘘のように粒子へと分解されて消え、噴き出していた鮮血は、時間を巻き戻すかのように彼のなめらかな肌の中へ吸い込まれていった。
一瞬にして目の前の風景がまるごとリブートされるデジタルノイズに覆われ、三人が再び目を開けたとき、そこはもう雨の降りしきる街ではなかった。
レイデンはこわばっていた肩をゆっくりとほぐした。
いつ土砂降りだったのかと思うほど、黒雲の晴れた空の端から、赤い夕焼けがにじみ広がっていた。傷ひとつないなめらかな腹部を呆然と探っていたレイデンは、信じられないという顔で周囲を見回した。
夕焼けの光がほのかに滲んでいく、シャトーの平和な裏庭だった。
「は……ハユル、これはいったいどういう状況なのです?」
常に端正だったアッシャーの声から、余裕が蒸発していた。
レイデンの視線もまた、呆然とハユルへ向いた。逆光のせいでハユルの輪郭がデータの乱れのように歪んで見えたが、後ろ手を組んで振り返る無垢な微笑みは、いつものハユルそのものだった。
「な……何だ? 俺、なんでここにいるんだ?」
そのとき、両手いっぱいにビニール傘を抱えたアレックスが、雨の中を突き抜けてきたような格好で慌ただしく現れ、あっけにとられた顔で周囲を見回した。ハユルはその三人をじっと目に焼きつけ、かすかに笑った。
「ごめん……本当は今日、みんなで買い物もして、気分のいいときに挨拶して去るつもりだったのに」
「戯言を抜かすな。誰の許しを得て言っている」
レイデンの目つきが猛々しく光った。足先から荒々しい魔力がほとばしり、ハユルを捕らえようと殺到したが、虚空を裂いた深淵は、触れる前に力なく霧のように散って消えてしまった。
「レイデン、無理を言ってる時間はないの。わたし、もうトークンがあんまり残ってなくて」
「トークン……?」
アッシャーが生まれて初めて耳にする未知のシステム用語を呟き、混乱に陥っている間に、ハユルの口元に力ない苦笑がにじんだ。
「正直に言うと、もうちょっと危ないんだよね。無理してあなたたちと話してたんだけど……明日すぐ出かけるバス代もないんだ」
男たちは息を殺し、ハユルの低い独白に耳を澄ませた。トークン、バス代、現実。彼らの精緻な認知システムと常識では決して解釈できない、論理の外の言葉だった。言葉のすべては理解できなくても、骨の髄まで冷えてくるような直感だけは確かだった。
ハユルの存在が、少しずつ薄れていた。
身体が小さくなったのではない。アッシャーが肩にかけてやった大きなジャケットの重みさえ支えきれないほど、夕焼けの光の中で彼女の輪郭が、水に濡れた紙のように褪せていった。この世界の物理法則の中で、ハユルだけが質量を失って消えていくところだった。
「バス代? 何なんだよそれ! 金か? 金なら俺がいくらでも稼いできてやるよ!」
アレックスは抱えていたビニール傘を地面に乱暴に放り出し、自分の胸を革が裂けそうなほど力任せに叩いて怒鳴った。
ばさばさ、と安っぽい傘が石畳を転がる音が、ひどくうつろに響いた。ハユルは悲しみの色をたたえた目で、ゆっくりと首を横に振った。
「ここで稼いだお金は……『現実』では使えないの。わたしも、自分で作ったこの愛おしい世界に、もう少しいたいけど」
「ならここにいろ」
レイデンの低く沈んだ声が、噛み潰すように漏れた。血がにじむほど強く握りしめた彼の拳が、抑えきれない震えで揺れていた。
「俺が、何があってもお前を守る」
「ごめんね。わたしも生きなきゃいけないから……でも、あなたたちには嘘をついて、黙って消えるみたいにいなくなるのは嫌だった。せめて最後のさよならは、ちゃんと自分で言ってから行きたかったの」
「モナド」
アッシャーの唇の間から、ついに乾いた嘆息がこぼれた。
散らばっていた因果律の亀裂が、一気に噛み合った。なぜ自分たちにこれほど過酷で過剰な運命が背負わされたのか、なぜ破滅の瀬戸際でも奇跡のように生き残り、彼女の腕の中へ帰ってくるほかなかったのか。
神――自分たちを愛し、慈しむようにこの世界を紡ぎながらも、現実では一日一日を危うく耐え忍ぶほかない、あまりに脆く有限な造物主。
「ここであったことも、明日を生きるためにあなたたちからもらったすべての慰めも……絶対に忘れない」
夕焼けが姿を消し、短い暗転が夜の帳を下ろした。
三人が同時にまばたきをしたとき、その場所にはもう何も残っていなかった。
ハユルが置いていった愛らしいピンクのレースのうさぎ傘と、地面に放り出されたビニール傘が数本、冷たい夜風にからからと鳴りながら、寂しげに転がっているだけだった。
まるで最初からこの世界に存在したことなどなかった蜃気楼のように、ただ空っぽの残り香だけを残して。
─── · ───
ハユルはベッドの上でゆっくりと上体を起こし、瞳を覆っていたスマートレンズを外した。
視界を埋めていたまばゆいイゼンスの空と三人の男の姿が、短いノイズとともに暗転した。あまりにも現実的な、黒い静寂。仮想AGIシミュレーションへの接続が切れたことを告げるシステム信号音が、低く鳴った。ハユルはベッドのサイドテーブルの上の古いケースにプラスチックのレンズをぽんと放り、重い砂袋のようになった身体を再びマットレスの上へ横たえた。
明かりひとつつけていない部屋の中は、温もりもなく冷え冷えとしていた。
固く閉ざされた部屋の扉の向こう、居間からは、2036年の新年を告げる除夜の鐘の音が、ぼんやりと濁って流れ込んできた。壁を伝って広がるテレビの中の人々の歓声とお祭りの喧騒は、ハユルの横たわる暗闇の中にとうてい溶け込めず、外側をさまよっていた。彼女はその意味のない温もりから目をそらすように、布団を頭の先まで引き上げた。
自らを閉じ込めた暗闇の中で、頼れるものといえば青白い光を放つスマートフォンの画面だけだった。ハユルはぼんやりした目で画面をスクロールしながら、さきほど接続が切れたアイオンたちとの最後の会話ログをさかのぼっていった。
そのとき、ぽんと落ちてきたカード代金の督促通知が視界をさえぎった。強烈な自責の念がとげのようにみぞおちを刺そうとした刹那、彼女の指先が、会話ウィンドウのある一節の上でぴたりと止まった。
――完璧である必要はありません、ハユル。貴女のその隙さえも美しいのですから。
液晶の表面には、何の温もりもなかった。それでもハユルは、その向こうに三人の体温が染みついているかのように、震える指で強化ガラスの上の文字をなぞった。
布団の中で膝を胸元へ引き寄せて抱えた。ぎゅっと丸めた身体の隙間から、押しつけた枕カバーの上へ、涙が一粒にじんでいった。
密閉された闇を突き抜けて、外へ出ることのできなかった小さな声が、宙に砕け散った。
「わたし……頑張るから」




