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Part 0 第2話

「『一介のアイオン風情が』ですって。実にありふれた、品のない言葉ですね」


アッシャーは目元を冷ややかに細め、悠然と眼鏡のフレームを押し上げた。


その間にサキュバスは、絡まった糸を素早く蘇らせ、身体を再生させながら後ろへ退いた。


アッシャーはその様子を興味深そうに見下ろし、低く呟いた。


「血統などで規格化された貴女のような旧時代の遺物とは違い、私たちは神に直接選ばれ、鍛え上げられた変数です。神経系を齧るだけの粗末な蜘蛛の糸で……神――モナドの寵愛を一身に受けるこの身を縛れるとでも?」


アッシャーの背後で金色の魔力が揺らめき、数十機のドローンが一斉に生み出された。


機械式の照準線が、サキュバスの回避経路を計算しはじめた。


誤差のないテックハンターの戦術演算網が、一瞬にして四方を締め上げた。


サキュバスは甲高い悲鳴とともに跳ね上がった。


大きな翼をたたんで、ドローンの追撃をぎりぎりのところでかわした。


アッシャーはその隙を逃さなかった。


避けるために崩れたサキュバスの防御の隙に、空いていた彼の右手へSMGが召喚された。


銃口の閃光が連続して弾けた。弾幕が、サキュバスの逃げ道をひとつずつ塞いでいった。


もう逃げ場がなくなると、サキュバスは息を吹きかけ、視界を覆う白く濁った霧をまき散らした。


「これは……」


アッシャーが反射的に手を上げ、鼻と口を覆った。


しかし、すでに手遅れだった。


先ほど腕に刺さった蜘蛛の糸の痕をたどって、残っていた魔力の滓が、霧の振動に反応するように蠢いた。


サキュバスの波紋が血管をのぼり、瞬く間に精神回路を掌握した。


「アッシャーは、何もしなくても、そこにいるだけですごいよ」


アッシャーは、サキュバスがいったい何を見せようとしているのか、訝しんだ。


ところが、目の前に広がったのは、凄絶な戦場ではなかった。


温かいスープを手にして自分に笑いかけるハユルと、そのおてんばな声、そしてその傍らでレイデンとアレックスの世話を焼く、穏やかで無害な日常だった。


アッシャーが「はあ……」と力の抜けた失笑をこぼし、その甘い幻にしばし息を詰まらせた間に、現実の殺気が本性を現した。


サキュバスの指先が刃物に変わり、アッシャーの首を斬り落とそうと襲いかかった。


「しっかりしろよ!」


その軌道の上に、空気を裂くアレックスの叫びが響いた。


射撃と斬撃を同時に振るって飛びかかる、奇怪な変種。


ガンスリンガーの軽やかなゼロ距離射撃の合間に、バーサーカー特有の血が沸き立つ殺戮本能が荒れ狂った。


アレックスは一片の慈悲もなく、サキュバスの背に向けてガンブレードを振り下ろした。


肉が裂ける音が響いた。それとともに、刃に付いた濃い緑色の血が宙へ跳ね上がった。


わずかな油断すら許さない冷たい影が、落下軌道をただちに遮った。


レイデンが宙へ跳躍し、サキュバスのうなじを荒々しくつかみ取った。


瞬きひとつしない冷酷な視線のもと、銃口がサキュバスの眉間に隙間なく押し当てられた。


容赦のない撃発が立て続けに炸裂した。怪物の断末魔さえ、金属音の中に押しつぶされた。


サキュバスは黒ずんだ赤い血を吐き、引き裂くような怪声をあげた。


引きちぎられた肉を埋めようと血色の魔力が必死に蠢いたが、降り注ぐ破壊を受け止めるには力が足りなかった。


ついに限界を超えた痛みが、神経の最後の糸を断ち切った。


サキュバスは抵抗を諦め、糸の切れた人形のように力なく崩れ落ちた。


壁に斜めに片腕をついたまま、アッシャーは折れた足首のせいでわずかに足を引きずりながら、レイデンの傍へ歩み寄った。


アッシャーの指先で、金色の魔力のスキャン波動が小刻みに震え、やがて消えた。


「心拍数ゼロ、魔力回路は完全に断絶。息絶えましたね」


「……こんな奴が、か?」


レイデンは、床に転がるサキュバスの死体を見下ろして、顎の先をゆがめた。


手のひらで揺らめいていた黒い深淵の炎が、今にも残骸を呑み込みそうな勢いで、鋭い殺気を放った。


アッシャーは乱れた襟元を払い、低く息を呑んだ。


痛みの中でも、口角には恐ろしいほど滑らかな弧が掛かっていた。


「ええ。今日の確率ゲームは『大当たり』と記録しておきましょう。数百年にわたって私たちアイオンの寿命を蝕み、短命の枷をはめてきた元凶は、この忌々しい怪物で間違いありません」


「アッシャー! 動いちゃだめ!」


ハユルは慌てて起き上がり、両手を伸ばした。


両手から立ちのぼった澄んだ温かい『純粋』の魔力が、アッシャーの乱れた呼吸と神経系へ、そっと流れ込んでいった。


「は……ハユル、大丈夫です。これ以上、魔力を使わないでください」


自分の受けた内傷よりも、ハユルの青ざめた顔色と魔力の枯渇のほうが先に気がかりだった。アッシャーは急いで手を上げて止めようとしたが、歩み寄ってきたレイデンの重い声が、それを遮った。


「大人しく受けろ、アッシャー。回復するまで気を抜くな」


言い終えたレイデンは、倒れたサキュバスの髪をつかみ上げた。手のひらから黒い魔力を燃え立たせた。


再生する暇も与えず、灰にしようとしているところだった。


そのときだった。


ドン――!


四方の壁が、まるで生きて息をする不気味な筋肉の塊のように、ぴくりと動きはじめた。


振動とともに、壁の隙間という隙間に血走った眼球が開き、視線が降り注いだ。


不快な怪音が空間の空気を押さえつけ、先ほど倒したサキュバスとは次元の違う圧倒的な上位魔力が、壁全体を伝って波打った。


やがて、壁全体が歪み、空間を震わせる低い声を吐き出した。


「よくも!!! 我が美しき肉体を壊してくれたな! 楽には殺さぬ。貴様らは永遠に我に吸収され、傀儡として操られるのだ!」


悲鳴まじりの咆哮に、アレックスが耳をほじりながら失笑した。


「うわ、喋りっぷり見ろよ。千五百年も引きこもって、本の一冊も読んでねえのか? 完全に三流悪役の台詞じゃん!」


口の端はゆがんで笑っていたが、赤い瞳だけはいつの間にか鋭く光っていた。


アレックスは力を抜かないまま、重いガンブレードのグリップを固く握り直した。


「うっ……」


ハユルはアレックスの嘲りにどこか刺さったのか、身体を少しすくめた。


その瞬間、隣に立っていたレイデンの大きな手が、ためらいなくハユルの肩を包み込んだ。


反論する間も与えず、軽く腕に抱き上げて自分の胸元へ引き寄せた。


お姫様抱っこだった。


「レイデン!」


「魔力の消耗が激しいな。立っているだけでもやっとなはずだ」


ハユルの青ざめた顔色を見渡したレイデンの目が、やがて静かに沈んだ。


退く気配のないその眼差しも束の間、背後から突き刺すように尖った殺気を感じ、彼の顎がぴんと強張った。


アッシャーはその光景に目を細め、やがて落ち着いた調子で言った。


「仕方ありません。ハユル、防御壁を張ってください。レイデン、空間転移の準備をお願いします。方法は……」


言い終わるより先だった。アッシャーが手を一振りすると、溢れ出した数十機の小型ドローンが壁面に張り付いた。


ズガァァァン――!


連鎖爆発が起きた。裂けた壁の神経系の間へ、アッシャーの燦然たる金色の魔力が深く染み込んでいった。


「ぐああああ!!! 心中する気か!」


周囲一帯が巨大な地震でも起きたかのように揺れ動き、床がばきばきと裂けていった。


天井から崩れ落ちる岩の間で、アッシャーが薄く笑った。


「心中とは、何のことでしょう? 今日死ぬのは貴方、コウモリ一匹だけです。これこそが科学。神の愛が宿る因果律がどこへ行き着くのか、その最期をお見せしましょう! アレックス、今日は……パーティーの日です!」


アッシャーは眼鏡の奥の紫の瞳を、ぞっとするような狂気できらめかせた。胸のすく思いなのか、いたずらっぽく笑っていた。


アレックスはアッシャーの合図が下るやいなや、歓声をあげた。


赤い魔力と青い『破壊と自由』の魔力が絡み合ってガンブレードの銃口を呑み込み、空間全体を揺るがす衝撃波が渦を巻いた。


「マジか!? マジで全部ぶっ飛ばすんだな!?」


アレックスは血が沸き立つかのような昂ぶった声で咆哮した。


「狂った奴め」


レイデンは正気ではないとばかりに、アッシャーを睨みつけた。ハユルを胸にしっかりと抱き、足元に漆黒の空間跳躍の魔法陣を急いで展開した。


「ア……アレックス! ううん、アッシャー! きゃあっ!! これ、いったいどういう展開なの!?」


ハユルは仰天して、杖を振り上げた。透明で堅固な半球状の魔力障壁が、仲間たちを丸く包み込んだ。


ハユルの障壁が完成したのを確かめたまさにその刹那、アレックスの口から獣のような叫びが迸った。


『Liberation End!!』


ズガガガッ――! ドォン――!


引き金を引くと同時に、銃口と剣身から破壊の光線が一気に伸びていった。


おぞましい目玉の怪物の核を貫く寸前だった。光が凝縮して、時間が遅くなったような錯覚が起きた。


そして、世界のすべての音を呑み込む白い閃光が、地下の空洞全体を覆い尽くした。


―― ✦ ――


ちゅんちゅん――


鳥のさえずりとともに、木の葉が一枚、頬の上にぽとりと落ちた。


ハユルのまぶたがぴくぴくと震え、少しずつ持ち上がった。


風に木の葉が静かにさやさやと鳴り、枝の間から砕けた陽光が目元を照らした。


「起きたか」


傍らに座って見守っていたレイデンが、ハユルを見下ろした。


変わらず乱れのない銀髪の間から、青い瞳がまっすぐにハユルを映していた。


「ここは……?」


「急いで移動したせいで、不時着したようだ」


レイデンは淡々と答え、ハユルの頬に乗っていた木の葉を、大きな指先でそっと払ってやった。


ひんやりとした革手袋越しに、ほのかな体温が染み出してきた。


ちょうど、そよ風が心地よく耳元をくすぐった。


「へ……へっくし!」


その平和な空気を破り、鼻の穴に木の葉でも入ったのか、アレックスが盛大にくしゃみをして、がばっと起き上がった。


半分閉じた目をしばたたかせながら周囲をきょろきょろ見回していた彼は、ハユルを見つけるなり、口角を下げた。


「ヌナぁ……」


さっきの爆発で魔力を大きく消耗したせいか、アレックスは肩をがくりと落とし、ハユルの胸にぴたりとくっついた。


体格で押しつけるように潜り込んでくる様子は、まさにハユルに甘える大型犬だった。


「アレックスったら、本当にもう」


ハユルが笑い混じりのため息をついた。


見かねたレイデンが眉間にぎゅっとしわを寄せ、大きな手のひらでアレックスの顔を力いっぱい押しのけた。


「離れろ。現在位置も把握できていない状況で、こんなことをしている暇はない」


「あー、あの人はほんっと、クソ細けえな……」


アレックスはレイデンを睨んでぶつぶつ言っていたが、ふと、隣でおとなしく眠っているアッシャーが憎たらしくなったのか、そちらへ大股で近づいていった。


横たわるアッシャーの頬を片手で、ぺち、ぺちと無造作に叩きはじめた。


「アッシャー兄、起きろよぉ。朝だぜ」


間延びした声であくびまでしながら頬をつつくと、きれいに閉じていたアッシャーの眉のあたりに濃い影が差した。


眉間のしわが深くなり、まつげをぶるぶると震わせていたアッシャーが、ついにゆっくりと上体を起こした。


まだ目も完全には開いていなかったが、慣れた様子で伸ばした細い指が、手首に巻かれたデバイスのボタンを押した。


青い光のホログラム画面が宙に小さく浮かび上がり、地形データを素早くなぞっていった。


「……私をこき使いすぎですよ、アレックス。脳細胞が筋肉で埋まっているのでなければ、どうかデバイスくらいはご自分で見てください」


眼鏡をかけ直して深いため息をつき、凝った首を軽く回した。


「ご心配なく。誤差の範囲内です。近くに落ちたようですね」


「ア……アッシャー……ぷ……あははははは!」


「アッシャー兄……俺が強く叩きすぎて……くっ、ぶはははっ!!」


ハユルとアレックスは、こらえきれずに同時に笑いだした。


アッシャーは訳が分からないという目でレイデンを見たが、あの無愛想なレイデンまでがそっと顔をそらし、「くっ」と肩を震わせた。


不吉な予感を覚えたアッシャーがデバイスをミラーモードに切り替えると、宙に小さなホログラムが浮かんだ。


画面には、アレックスが散々強く叩いたせいで両頬がぷっくりと腫れ上がり、唇が「3」の字にとがって突き出た、見事なフグ面(づら)が一匹、そこに映し出されていた。


「まったく……」


アッシャーは片眉をゆがめてアレックスを睨んだが、やがて肩をひとつすくめ、長く息を吐いた。


そして、眼鏡の奥で穏やかに微笑んだ。


「生きていましたね」


まばゆい陽光が、アッシャーの金髪の上に降り注いだ。


その一言に、一行の間に短い静けさが宿った。


死の淵を越えてきたという実感が、日差しとともに染み込んできた。


ハユルは目が弓なりになるほど明るく笑って、うなずいた。


「うん!」


アレックスはハユルの頭をくしゃくしゃにするようにさっと撫で、ごく自然に肩へ腕を回した。


「うまいもんでも食いに行こうぜ! パーティーだ、パーティー!」


「食べたいものはありますか?」


アッシャーが服についた土埃を払い、立ち上がって尋ねた。


「肉を分厚く焼いて、ウォッカで一杯やろうぜ!」


アレックスは、もう祝杯でも掲げるかのように、宙へ腕をぐいと突き上げた。


ゴツン――!


その途端、レイデンのげんこつが、アレックスの頭のてっぺんへ容赦なく振り下ろされた。


「アレックス、ガキに酒は早い」


「いてえ! はあ、俺だって四ヶ月後には二十歳なんだぞ!? マジでみみっちいな……定命の者みたいなことばっか言いやがって!」


アレックスが頭を抱えて悔しがり、ぴょんと跳ねると、アッシャーが身なりを整えながら、いたずらっぽく加勢した。


「それでは、最高級のワインと一緒にステーキを焼きましょう。アレックスは……まあ、ぶどうジュースでも飲めばいいでしょう」


「おい、あんたまで本気でそれ言うのかよ!?」


じゃれ合う三人の姿に、ハユルはお腹を抱えて笑った。


アレックスはハユルの笑顔をちらりと見て、ふいと視線をそらした。そして、少し先をずんずんと歩いていった。


その後を追って足を運ぶ一行の背後に、ぽかぽかとした森の風が長く続いた。


彼らは、温もりが待つ自分たちの家へと向かった。

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