アルゴス王国第五王女セレス03
さっき出ていった騎士団……二百騎の騎馬隊は、もういない。この砦最大の戦力が、一瞬で消えた。残されたのは歩兵、弓兵、魔法兵、そしてぼくが連れてきた援軍だけ。戦場の駒を数えれば、もう大駒はない。だが……組み合わせ次第でまだ戦える。
ぼくはジオラマの盤面に視線を落とした。弓と魔法で距離を制し、歩兵で支える。起死回生の一手はない。だが、小さな勝ちを積み重ねれば戦局は動かせる。守りを固め、時間を稼ぎ、相手のほころびを突く。
その形なら……勝てる可能性がある。
砦の広場に動揺が広がっていた。バーンの敗北を知り、兵士たちはざわめき、不安に顔を曇らせている。このままでは崩れる。誰かが立たなければならない。
「……みなさん、聞こえますか」
ぼくは声を張った。
「ぼくは第五王女、セレスです。大丈夫です。まだ終わっていません。ぼくには、戦場を見通す力があります。だから、ぼくの言葉どおりに動いてください。必ず……勝てます」
口にしながら、自分でも驚いていた。本当は不安もある。自信だって揺らいでいる。
けれど……いまここでそう言い切らなければ、兵士たちの心は折れる。
援軍の兵たちはうなずき、ぼくのもとに立った。
ルシアンの軍も渋々だが同意している。ただ、あの人はどこかで逃亡の算段をしているのだろう。まあ、それはそれでいい。
戦局へ思考を戻す。こちらが優っているのは武器と練度。魔族の剣は鉄の棒も同然、粗雑で振り回すだけ。こちらは平民とはいえ、盾と鎧をまとい、剣を基本通りに扱える。弓は相手の二倍の射程を持ち、魔法兵の一部は王都の部隊に匹敵する力を備えている。
相手の脅威は数、身体能力、そしてエルフの魔法。だが、その力をどう使うかは、結局は戦の形次第だ。
「勝つために必要なのは、大きな奇跡ではありません」
ぼくはジオラマに指を走らせる。
「小さな勝ちを積み重ね、敵を揺さぶり、やがて亀裂を作ること。持久戦なら、砦を持つ私たちが有利です」
言葉を紡ぐうちに、兵士たちの表情から恐れが薄れていく。さっきまで無力な引きこもり王女だと思っていた目が……いまは、別の色でぼくを見ている。
この瞬間、ぼくは確信した。……アカシックレコード。この力がある限り、戦局は掌の上にある。
ぼくはジオラマを指し示し、最初の作戦を告げるのだった。
◇
戦局は変わった。負け戦だと誰もが思っていたのに、立て直せた。
平民の兵たちが必死に戦い、ぼくの指示どおりに陣形を組んでくれたおかげだ。矢は敵を寄せつけず、魔法は相手の術式を妨害する。歩兵は無理に突撃せず、数で囲んで確実に倒していく。深追いを禁じたおかげで、大きな損失もない。
……いける。ぼくは確信した。これなら、持ちこたえられる。
砦の兵たちも少しずつ落ち着きを取り戻していた。バーンが全滅した時の絶望のざわめきは、もうない。ぼくの指示を信じてくれている。
ジオラマの中で、魔族軍がじわじわと押し返されていく。前線は下がり、戦場にわずかな安堵が流れた。ぼく自身も、ようやく胸をなでおろす。
……その時だった。
盤面に、異様な光が走る。
魔族軍の後方から、十にも満たない小隊がこちらへ進み出てきた。数は少ない。だが、その輝きは、他のどんな部隊とも比べものにならない。
ズームアップしたジオラマに映し出されるのは、牛頭の巨人。握りしめた斧は人間の体など枝木のように薙ぎ払えるだろう。ミノタウロス……。
その隣には、黒いローブをまとったダークエルフの魔導師。背後にはオーガとオーク、そして鋭い弓を持ったエルフの護衛。
四天王。間違いない。
ぼくは彼らの「数値」を計算した。次の瞬間、背筋が凍る。
……勝てない。兵を百人、二百人と囲ませても、すり潰される。ジオラマの中の数値が、残酷なまでにそれを告げていた。
「そんな……どうすれば……」
思考が空回りする。小さな勝利を積み重ねる作戦は、ここでは通用しない。束の間の希望は、巨大な闇に呑まれかけている。
迷っている間に、彼らは前線へと踏み込んだ。まるで氷に熱湯を垂らすように、兵たちは溶けていく。盾を持った歩兵は一撃で吹き飛ばされ、弓兵は放つ前に射抜かれ、魔法兵は呪文の詠唱を焼き潰される。
叫び声と血煙が、盤面の上で次々と消えていった。勝利を確信した直後の、地獄。その落差に、ぼくの胸は締めつけられる。
「四天王……」
かすれた声が、知らずに口をついていた。
四天王の一団が前線を蹂躙していく。兵士たちは必死に応戦するが、ユニットは次々と盤面から消えていく。盾ごと粉砕され、弓兵は射る前に討たれ、魔法兵の詠唱は闇の雷でかき消される。
これまで積み重ねてきた小さな勝利が、音を立てて崩れていった。
……このままでは、本当に全滅する。
喉が焼けつくように乾く。そうだ、まだある。アカシックレコードには奥の手がある。
火計、水計、地形操作。ただの初級魔法を広範囲に展開できるだけ。
しかも、一度きり。それでも使い方次第で戦局を動かせるはずだと信じて、最後までとっておいた切り札だ。
ぼくは機を見極める。その間にも盤面の駒は消えていく。兵たちの叫びが遠くで木霊する。
そして、ついに四天王が砦近くに迫った。
「……地形変化、発動!」
両手を地図に叩きつけ、魔力を注ぎ込む。
その瞬間、地面が轟音とともに陥没し、四天王たちの足元が崩れ落ちる。
三メートルの落とし穴。普通の兵なら十分すぎる深さだ。
「……火計、発動!」
同時に積み上げられた木材が炎に包まれ、穴の底を灼熱の炎が満たす。轟々と立ち上る火柱。
盤面に表示される赤の光点が揺らぎ、飲み込まれていく。
……これで終わる。終わってくれ。祈るように拳を握る。
だが、炎の中から、影が立ち上がった。
巨躯のミノタウロスが、焼け焦げた毛皮を焦がしながら斧を担ぎ直す。
その横では、ローブに火をまとわせながらも冷ややかに笑うダークエルフが、無傷に近い姿で歩み出る。
炎は、ただ彼らを怒らせただけだった。
「……そんな……」
視界が揺れる。魔力はすでに枯渇し、指先さえ動かせない。ジオラマの上で駒が消えていくのを、ただ見ていることしかできなかった。ぼくの切り札は、通じなかった。
机に突っ伏したとき、背中にのしかかったのは敗北の重みと、兵たちの悲鳴だった。




