審問官シャーリー・メルク01
わたしの名は……シャーリー・メルク。
王国諮問機関、通称〈拷問機関〉に所属する審問官だ。諮問機関とは、王国の「秩序」を守るための組織。殺人や窃盗といった〈個人に対する罪〉は通常の裁判所が扱う。だが……反乱の企てや魔族との内通、つまり〈社会や国家に対する罪〉は、わたしたちの管轄だ。
それらは刑罰が重い上に、「未遂」の線引きが甘い。そう……たとえば、王政を覆そうと"考えた"だけで罪に問える。証拠?不要だ。必要なのは自供だけ。だからこそ、諮問機関は別名〈拷問機関〉と呼ばれる。
……もちろん、冤罪は多い。
権力者にとって都合の悪い者は、たいてい〈国家に対する罪〉をでっちあげられる。だが、それがこの国のルールだ。わたしがどう思おうが関係ない。
今回も、その典型例。カナンの町を襲った魔王軍を、二百人の平民騎士団が退けたという。
その隊長……レオン・ハートランドを捕えろ、というのが今回の任務だ。
本来ならば英雄扱いされて当然の功績。けれど、彼は平民。だから権力者は恐れる。民衆に支持された英雄が、いつか自分たちの首を刎ねるかもしれないと。事実、他国では平民の英雄が王権を倒し、新たな皇帝となった例がある。
だったらその前に、潰す。それが、この国のやり方。
わたし自身、平民の出。だからこそ分かる。夢なんて見ても無駄だと。
夢を見た結果、わたしはこの顔になった。
わたしは魔法学園では主席。誰もが認める天才魔導士だった。将来は魔法部隊のエリートとなることは決定事項とされていた。
けれど平民というだけで、貴族からの嫌がらせは絶えなかった。
そして……嫉妬に狂った令嬢がわたしの顔に薬を浴びせた。焼けただれたこの顔では、いくら力があっても「表舞台」には立てない。魔法部隊の栄光? 王の護衛? ……そんなものはもう手に入らない。
だからこそ、わたしはここにいる。才能だけは買われている。魔法部隊に匹敵する魔力を持つ、精鋭の一人として。
だが、仮面をかぶらなければ外も歩けない、焼け残りの人形。
今回の標的は魔王軍を退けた平民の騎士。凡百の調査官では役不足だ。だから、わたしが選ばれた。英雄? ふん、どうせ一時の幻想だ。
わたしはただ、命じられた仕事をこなすだけ。感傷も同情もない。平民が夢を見るから潰される。なら、夢を見なければいい。
馬車が止まる。窓の外には、次の目的地……ミネルバの町が見えた。すでにほかの審問官たちも動いているはず。
わたしは顔の上半分を覆う仮面を手に取り、静かにかぶった。
さあ……狩りの始まりだ。
宿屋の扉を押し開けると、湿った木の匂いと、酒と肉の混じった空気が鼻をついた。
ここが、今夜からわたしたち〈諮問機関〉の拠点になる。
標的を自分で探す必要はない。
わたしは〈狩り〉の実行部隊……つまり、戦闘担当だ。
情報収集や追跡は別の者の役目。獲物の所在が判明すれば、連絡が入る。
その瞬間、わたしは魔法で無力化する。ただそれだけ。
酒場の一角には、すでに仲間……いや、同業者たちが揃っていた。
……酒瓶を片手に豪快に笑う大男。〈壊し屋〉ゴルドン。
怪力で折り、引きちぎり、噛み砕く、野蛮そのものの男。任務が「生死を問わず」とされたときに呼ばれる、血の匂いを纏った獣。
……薄汚れた帽子を目深にかぶる痩せぎすの男。〈死神〉ヴェルフ。
体のどこに触れても刃が出てくると噂される、歩く暗器庫。
……スキンヘッドに黒い刺青を刻んだ巨漢。〈暗黒〉のベルア。
狂信的な破壊衝動を抑え込むように、静かに杯を傾けている。
そして……仮面をかぶったわたし。〈仮面魔女〉シャーリー・メルク。
……諮問機関の"スター選手"が勢ぞろい。
つまり今回の任務は、それほどまでに王が恐れているということだ。
軽く会釈を交わしただけで、わたしは二階の自室へ向かう。
くだらない雑談に加わるつもりはない。
ここにいる連中は皆、明日は敵側に回っているかもしれないのだから。
……わたしたちはただの道具だ。
国王や貴族の機嫌ひとつで、標的にも、犠牲者にもなる。それを理解しているからこそ、感情を殺す。そうでなければ、生き残れない。
あの日……わたしという"人間"は死んだのだから。
◇
わたしは平民の生まれだった。けれど魔法の才能だけは群を抜いていた。幼いころから天才少女と呼ばれ、ついに王立魔法学園に入学できた。
当時のわたしは……まだ夢を信じていた。努力すれば報われると。魔法を極めれば、魔法部隊の大魔導士になれると。
事実、わたしは学園で主席の座を何度も勝ち取った。しかし、それが気に食わない者もいた。
伯爵令嬢……エルミナ。彼女はわたしを徹底的に目の敵にした。
机の中の教科書は消え、文房具は壊され、机には「平民は出ていけ」と落書きされる。
廊下を歩けば水を浴びせられ、背後では嘲笑が飛ぶ。
教師たちは? もちろん見て見ぬふり。
エルミナの権勢に逆らえる者などいないのだから。
いじめは、日常になった。
わたしは唇を噛み、ただ魔法の研鑽に没頭した。夢だけが、支えだった。
……それでも、心が折れなかったのは……彼のおかげ。
上級貴族の子息、ルシアン・ド・ラングレー。
彼だけは、平民のわたしに優しく接してくれた。
笑いかけ、声をかけ、孤独に沈むわたしを救い上げてくれた。
だから……わたしは、まだ夢を信じられた。
あの日は……王立魔法学園の舞踏会だった。
本来なら、平民のわたしには縁のない華やかな夜会。
ドレスを用意する余裕なんてなく、出席するつもりはなかった。けれど、その舞踏会は主席の表彰式も兼ねていた。逃げられなかった。どんなに惨めでも、出なければならなかった。
母が中古のドレスを見つけてきてくれた。十年前に流行った型落ちのもの。
それでも母は、嬉しそうに「がんばってらっしゃい」と送り出してくれた。わたしは、母のその気持ちを裏切りたくなくて……ドレスを着て会場に足を踏み入れた。
「ねえ、見て。シャーリーのドレス」
「うわ、斬新っていうか……十年前の流行りだよね」
「これって雑巾の生地でできてるの?」
……笑い声。
会場に入った瞬間、エルミナの取り巻きたちがわたしを取り囲み、嘲笑を浴びせる。
胸が締めつけられる。それでも、唇を噛んで耐えるしかなかった。
シャーリー。俺はなかなかいいと思うよ」
そのとき、柔らかな声が響いた。ルシアンだった。
彼が現れた瞬間、取り巻きたちの顔が一斉にこわばる。
「ル、ルシアン様……」
「まあまあ、それくらいにしておけよ。今日は主席の彼女が主役なんだから」
そう言って、彼はさりげなくわたしの隣に立ち、庇うようにしてくれる。
それだけで胸が熱くなった。わたしの味方は、この人だけだ。
しかし、エルミナの目が憎悪に染まった。
「……もう許せない」
彼女はヒステリックに叫ぶ。
「主席だかなんだか知らないけど、このメス犬が! わたしのルシアンに色目を使いやがって!」
エルミナの手に握られていたのは、小瓶。
煌めくガラスに入った液体は、ただの香水に見えた。
……けれど、それは違った。
パチン、と蓋を開けた瞬間、鼻をつく異様な匂い。
次の瞬間、冷たい液体がわたしの顔に浴びせられた。
「……あっ!」
刹那、焼けつくような激痛。皮膚がジュウと音を立てて爛れていく。
「いっ……痛いっ、熱いっ!」
視界がぐらぐら揺れ、涙と薬液が混じって頬を流れ落ちる。
会場は悲鳴とざわめきに包まれた。
エルミナは両手を広げ、澄ました声で言い放つ。
「わたしは悪くないわ。この女が貴族に不敬を働いたから罰を与えただけ! 当然のことよ!」
わたしは床に崩れ落ちながら、ただひとりの希望に縋った。
……ルシアン。
「シャーリー!」
彼が駆け寄ってきた。
その声にすがるように顔を上げる。
「ルシアン様……」
彼なら、きっと抱きしめてくれる。この痛みも、この惨めさも、慰めてくれる。
そう信じて、震える瞳で彼を見た……その瞬間。
ルシアンの表情が変わった。
憐憫でも怒りでもない。軽蔑と嫌悪の色。
「……化け物」
低く、冷たい声。
「こっちに来るな!」
その言葉と同時に、彼は一歩、二歩と後ずさった。わたしから逃げるように。
胸の奥で、何かが崩れる音がした。
夢も、希望も、信じてきた優しさも。
すべてが、音を立てて砕け散った。
「ルシアン、仕方がなかったの」
エルミナは作り笑いを浮かべながら、彼の腕に縋りついた。
「……ああ、そうだな」
ルシアンはわたしを一度見て、それから目を逸らす。冷たい声が落ちてきた。
「ごめん、エルミナ。俺も目が覚めたよ。平民だし……遊ぶにはちょうどいいと思ったんだ。見た目も悪くないし、適当に捨てればいいって。……俺が間違ってた」
世界が崩れる音がした。ルシアンの声は、わたしにとどめを刺すために刃へと変わる。
「ありがとう、ルシアン」
エルミナが甘えるように囁き、二人はまるで舞台の上の恋人たちのように抱き合った。
……なんだ、この、茶番劇?わたしを笑い殺すための見世物?
焼けただれる顔の痛みすら霞む。胸の奥が空っぽになり、声も出せない。
わたしはただ呆然と、二人の影を見上げるしかなかった。
そのあと、当然のようにエルミナには何の咎めもなかった。
お咎めどころか、わたしに届けられたのは……「お見舞金」という名の口止め料。
学園長は目を伏せて言った。
「この顔では、魔法部隊に推薦できない。……それに、エルミナ様と距離を置くことが君のためだ」
まるで、わたしが悪いかのように。本当なら退学するのはあの女の方なのに。
あの瞬間、わたしは世界の仕組みを理解した。平民は、どれだけ努力しても貴族には勝てない。
夢を見たから、傷ついた。
夢を信じたから、壊された。
やがて、諮問機関からスカウトが来た。
「その魔法の才を、我らに使わぬか」
わたしの顔を理由に断る者は、ここにはいなかった。
仮面を与えられ、拷問機関の「仮面の魔女」として働くことになった。そして、気づけば「氷の魔女」という二つ名までついていた。
罪人を捕らえるたびに、わたしは心を凍らせていった。
考えない。感じない。痛みも、悔しさも、愛しさも……もう必要ない。
感情なんて、捨ててしまえば楽になれる。わたしは、ただの機械でいい。
……そして今。
「シャーリーさん、お仕事です」
ドアの外から呼ぶ声で、現実に引き戻される。
標的を見つけたのか。心の奥底に、かすかなため息が沈む。
「……今、行く」
わたしはローブを羽織り、仮面をつける。心を覆い隠す最後の防壁。自分が殺人機械となるための道具。
階段を降りると、暗黒のベルアたちが既に集まっていた。
「氷の魔女か……噂は聞いている。期待しているぞ」
ベルアが吐き捨てるように言い、背を向ける。
わたしは何も言わず、その後を歩いた。すでに心を殺した女に、言葉など必要ない。
……あの時、わたしは人間として死んだのだから。




