第9話 拒絶
翌日の昼休み。県立しおみの海風高等学校の教室は、いつも通りの喧騒に包まれていた。
葉那香は、前の席に座る雅の机に身を乗り出し、昨晩作った手書きのメモを広げた。
「雅、今日の放課後なんだけどさ。おじさんの通院の付き添い、私も一緒に行くからね。お医者さんって女医さんでしょ?私たちもいた方がおじさんも安心すると思うし」
葉那香は持ち前の面倒見の良さを発揮し、明るく捲し立てた。
しかし、雅の反応は冷ややかだった。机に頬杖をつき、視線を窓の外の水平線に向けたまま、不機嫌そうに唇を尖らせている。
「……なんで、葉那香がそこまで仕切るの?」
「え?」
「昨日からずっとそう。勝手にうちの親父に説教して、病院の予定まで立てて。私のお母さんにも『私が付き添いますから』ってLINEしてたでしょ」
雅の声には、微かな苛立ちが混じっていた。
前日、葉那香が八木澤家に突入して襖を開け放った時、雅はただ黙ってその後ろ姿を見つめていることしかできなかった。素直になれず、父親と向き合うことから逃げていた自分。そんな自分ができないことを、親友は軽々とやってのけた。
その事実が、プライドの高い雅の心に、複雑な嫉妬と自己嫌悪の影を落としていたのだ。
「だって、放っておけないじゃない。雅も本当は心配なんでしょ?」
「放っておいてよ」
「雅……」
「他人のくせに、家族面しないで」
雅は鋭い視線で、葉那香を真っ直ぐに射抜いた。
「葉那香さあ、お父さんがいないからって、うちの親父で穴埋めしないでよ」
その言葉は、鋭い刃となって葉那香の胸に突き刺さった。
葉那香はハッと息を呑み、言葉を失った。図星を突かれたような、否定しきれない痛みが全身を駆け巡る。
幼稚園の頃に両親が離婚して以来、日常に父親の姿はない。その「宙ぶらりんの距離感」を、無意識のうちに隼人で埋めようとしていたのではないか。その核心をえぐられ、葉那香の表情からスッと血の気が引いた。
「そっか。ごめん……出過ぎた真似したね」
葉那香はそれだけを絞り出すと、逃げるように教室を飛び出していった。
残された雅は、我に返ったように自分の口元を手で覆ったが、もう遅かった。
+++
放課後。駅前の寂れたアーケード街にある老舗純喫茶『群青』。
高校生たちの溜まり場となっているこの店の奥のボックス席に、雅は一人で座っていた。
テーブルに置かれたグラスの中では、アイスティーの氷がすっかり溶けきっている。雅は飲み物に手もつけず、スマートフォンの画面を食い入るように見つめていた。
画面には、『男性乳がん症状』『浸潤性乳管がん手術』といった検索結果のタブが並んでいる。
全症例の1パーセント未満という稀な病気。初期症状としてしこりができ、そこから血混じりの分泌物が出ること。そして、治療のためには胸の組織やリンパ節を切除しなければならないこと。
(親父……ずっと、一人で……)
雅は無意識に、制服越しに自分の左胸へと手を当てていた。
ここに、硬いしこりができる。衣服に擦れるたびにチクチクと痛み、やがてシャツに血が滲むようになる。そして、女性ばかりの待合室に座らされ、メスを入れられて、身体の一部を失うのだ。
想像しただけで、背筋が凍るような恐怖だった。
合理主義の母は図面から目を離さずに「早く治しなさい」と正論をぶつけ、娘である自分は「手が痛い」「匂いが臭い」と父親を避けていた。
家庭内で孤立無援の中、あんなに強くて威勢の良かった父親は、たった一人でどれほどの絶望と恐怖に震えていたのだろうか。
『ちょっと病気になったくらいで父親をやめる気ですか!』
昨日、葉那香が父親に向かって放った言葉が脳裏に蘇る。
葉那香は、他人の家庭に踏み込んででも、崩れかけている八木澤家を繋ぎ止めようとしてくれた。本当は、娘である雅自身が親父に言わなければならなかった言葉を、葉那香が代わりに言ってくれただけだった。
(私、ホント最低だ……)
雅はテーブルに突っ伏し、ギュッと目を閉じた。
本当は父親が心配なのに、素直になれずに憎まれ口を叩いてしまう自分。そして、逃げずに父親と向き合おうとしてくれた親友に対して、あんなにも酷い言葉を投げつけてしまった自分。
強烈な自己嫌悪が、波のように押し寄せてくる。
(まずは葉那香に、謝らなきゃ……)
雅はスマートフォンを操作し、メッセージアプリの画面を開いた。
しかし、『さっきはごめん』と打ち込んでは、バックスペースキーで消すという動作を何度も繰り返してしまう。プライドが高く意地っ張りな性格が邪魔をして、どうしても送信ボタンを押すことができない。
仲直りしたい。父親と一緒に病気に向き合いたい。でも、どうやって一歩を踏み出せばいいのかわからない。雅は孤立した純喫茶の片隅で、ただ一人、深い葛藤の中に沈み込んでいた。




