第10話 母の教え
同じ頃、湊元町にある小料理屋「まき」。
開店前の静かな店内で、葉那香はカウンターの端を無言で拭き続けていた。普段ならラジオの音楽に合わせて鼻歌を歌いながら手伝いをしているはずが、今日の彼女の背中には、目に見えて暗い影が落ちている。
厨房では、割烹着姿の母・弥生が、鋭い包丁を滑らせて大根のかつら剥きをしていた。シュッシュッという小気味良い音が響く中、弥生は手を止めることなく、ふと視線を娘に向けた。
「葉那香。雅ちゃんと、何かあったのかい?」
突然の問いかけに、葉那香はビクッと肩を震わせた。
「……なんで、わかるの?」
「伊達にこの店で、毎日何十人もの酔っ払いの顔を見てるわけじゃないよ。あんたの顔に『親友と喧嘩して凹んでます』って書いてあるもの」
弥生がカラッと笑うと、葉那香は布巾をぎゅっと握りしめ、堰を切ったように言葉をこぼし始めた。
「……おじさんね、病気なの」
「え……?」
「……乳がんなんだって。男の人でもなるんだって。それで病院からの電話も無視して、部屋に引きこもっていじけちゃって……。雅もどうしていいか分からなくて、家の中がめちゃくちゃで」
かつら剥きの音が、ピタリと止まった。
弥生の顔から笑みが消え、包丁を握ったまま息を呑む。週に何度も顔を出す気心の知れた常連客の、あまりに衝撃的な事実に目を見開いていた。
「私、放っておけなくて……おじさんの部屋の襖を開けて、病院に行こうって怒鳴っちゃったの。そしたら……今日、学校で雅に言われたの」
葉那香は俯き、震える声で言葉を絞り出した。
「他人のくせに家族面するなって。私にお父さんがいないからって、雅の親父さんで穴埋めしないでって……」
弥生は静かに包丁を置き、布巾で手を拭うと、カウンター越しに娘を真っ直ぐに見つめた。
長年の常連である隼人への深い心配と、そして何より、父親がいないことで娘に向けられた残酷な言葉への痛みが、その瞳に滲んでいた。
「葉那香。……父親がいなくて、寂しい思いをさせたかい?」
静かで、優しい声だった。元夫への恨み言を一切口にせず、一人で立派に育て上げてくれた母からの、初めての懺悔のような問いかけ。
葉那香は慌てて首を振ろうとして、止まった。自分の胸の奥にある『宙ぶらりんの距離感』という喪失感が、静かに顔を出したのだ。
「……寂しくなんてなかったよ。お母さんが、いっぱいいっぱい愛情をくれたから」
葉那香は俯き、言葉を絞り出した。
「でもね。おじさんのあの節くれだった大きな手を見てたら……たまに誕生日プレゼントを送ってくるだけの遠くの父親じゃなくて、身近なお父さんっていいなって。私、他人の家庭に入り込んで、都合よく甘えてみたかっただけなのかも……」
ポロリと、葉那香の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。自分の踏み込んだ優しさが、結局はエゴでしかなかったのではないかという思いが、彼女の心を苛んでいた。
弥生は静かに厨房から出てくると、葉那香の頭を温かい手でポンポンと撫でた。そして、手元にあった小鉢を一つ、スッと娘の前に差し出した。
「ほら、おあがり。新作の即興お通しだ。汐見野の塩レモンを使った、鰆の南蛮漬けだよ」
葉那香は涙を拭いながら、促されるままに小鉢に箸を伸ばした。
口に運ぶと、皮の厚いレモンの強い香りと酸味の奥に、微かな塩味と深いコクが広がった。出汁の優しい味が、冷え切っていた胸の奥をじんわりと温めていく。
「美味しい……」
「葉那香。あんたは、誰の代用品も必要ないくらい、私がいっぱいの愛情で育てたつもりだよ」
弥生は包容力に満ちた声で語りかけた。
「あんたは愛されて育った。だから、他人の痛みに寄り添える優しい子になったんだ。父親の代わりが欲しくて雅ちゃんちに行ったんじゃない。あんたはただ、大切な友達とその家族がバラバラになるのが、見ていられなかっただけだろう?」
母の言葉に、葉那香はハッとして顔を上げた。
「人を思いやる気持ちは大切にしな。良い行いも悪い行いも、いつか必ず巡り巡って自分に返って来るものだからね。あんたが純粋な気持ちで誰かに渡した優しさは、いつか形を変えて、あんたの人生で『一番心強い大切なもの』になってくれるはずだよ」
母の言う通りだ。私は、雅の不器用さも、おじさんの意地っ張りなところも、全部ひっくるめて放っておけなかったのだ。
葉那香は小鉢の南蛮漬けを平らげると、涙で濡れた顔のまま、フフッと笑い声を漏らした。
「うん。……私、お父さんの代わりが欲しかったんじゃない」
葉那香は立ち上がり、真っ直ぐな瞳で母を見た。
「雅と親父さんの力になりたい。ただの純粋な友達として」
母の無償の愛に触れ、「愛されて育った自負」を取り戻した葉那香の顔には、もう先ほどの迷いや翳りは一切なかった。彼女は再び雅と隼人に真っ直ぐ向き合う力を得て、強く前を向いた。




