第11話 謝罪と怒り
あれから一週間が経っていた。
学校では互いに口をきくことができず、気まずい距離感が続いていたが、雅の心の中ではすでに答えが出ていた。
夕暮れ時の湊元町。雅は意を決して、小料理屋「まき」の裏口へと足を運んだ。
錆びたトタン屋根の路地裏に漂う、出汁のいい香り。勝手口の古びたドアの前に立ち、雅は何度も深呼吸を繰り返した。プライドが高く意地っ張りな彼女にとって、自分から謝りに行くのは途方もなく勇気のいることだった。
(ごめん。ただ、その一言を言えばいいだけ……)
雅がドアノブに手をかけようとしたその時、内側からガチャリとドアが開いた。
「えっ……雅?」
ゴミ出しのために裏口から出てきた葉那香と、思いがけず鉢合わせる。
驚いて目を丸くする葉那香を前に、雅はギュッと両手を握りしめ、逃げ出したい衝動を必死に堪えた。
「……この間は、ごめん」
雅は不器用に、けれど真っ直ぐに頭を下げた。
「私、本当はお父さんの病気がすごく不安で……でも、どうしたらいいかわからなくて、葉那香に八つ当たりしちゃった。酷いこと言って、本当にごめんなさい」
震える声で謝罪する雅を見て、葉那香は優しく微笑んだ。
「ううん、私こそごめんね。雅の気持ちも考えずに、ズカズカ踏み込みすぎちゃった」
葉那香はゴミ袋を脇に置き、雅の両手をそっと包み込んだ。
「でもね、私、雅とおじさんの力になりたいの。父親の代わりとかじゃなくて、純粋な雅の親友として。だから、もう一回一緒におせっかい焼かせてくれないかな」
「……うん。ありがとう、葉那香」
雅の目から、安堵の涙がポロリとこぼれ落ちた。二人は裏口の薄暗い路地で、しっかりと手を取り合って仲直りをした。
その時だった。
「おいおい隼人の大将。男が乳がんなんて前代未聞だな!」
勝手口の少し開いたドアの隙間から、店内の大きな笑い声が漏れ聞こえてきた。
声の主は、原口工務店の代表であり、この店の常連である大工の辰男だった。
店内を覗き込むと、カウンター席には久々に外へ出てきた隼人が、女将の弥生を相手に焼酎を飲みながら、意を決して病気のことを打ち明けていたところだったらしい。娘の葉那香からあらかじめ事情を聞いていた弥生は、努めて穏やかに相槌を打ちながら隼人の苦しい胸の内を受け止めていたのだが、それを隣で小耳に挟んだ辰男が、悪気のないお調子者の性格ゆえに、酒の席の冗談としてデリカシーのない発言を飛ばしてしまったのだ。
「女の病気にかかるなんて、どういうことだよ。お前さん、実は乙女だったのか?わっはっは!」
その不用意な言葉を聞いた瞬間、雅の表情がサッと青ざめ、次いで激しい怒りで真っ赤に染まった。
雅はこの一週間、男性乳がんについてネットで調べ続けていた。全症例の1パーセント未満という稀な病気。それがどれほど孤独で、男としての尊厳を傷つけるものであるか。父親が部屋に引きこもり、どれだけの絶望と羞恥心に震えていたのかを、雅は痛いほど理解し始めていたのだ。
これまで父親を「うざいオッサン」と避け、病気のことも「自業自得だ」と突き放していた自分。しかし、身内ではない他人が、父親の苦しみを笑い話にすることだけは、絶対に許せなかった。
「ちょっと棟梁、ふざけないでよ!!」
雅は勝手口のドアを勢いよく開け放ち、店内に踏み込んで怒鳴りつけた。
「み、雅!?」
「雅ちゃん……!?」
突然の娘の登場と激怒に、カウンターで飲んでいた隼人も辰男も目を丸くして硬直した。
「男だろうが女だろうが、がんはがんでしょ!この人がどれだけ悩んで苦しんでるか知らないくせに、軽々しく笑い話にしないでよ!」
雅は真っ直ぐに辰男を睨みつけ、肩を震わせて叫んだ。その目には、悔し涙が溢れている。
「この人はね!家族のためにずっと職人魂を燃やして畳を打ってきたんだよ!一生懸命働いて病気になった人を笑うなんて、最低のクズだよ!」
雅の中で頑なに閉ざされていた「パパ嫌い」の殻が、完全に破れ去った瞬間だった。父親の尊厳を守りたいという、娘としての純粋な本音と愛情が、初めて怒りとなって表に溢れ出した。
その場にいた全員が、雅の気迫に圧倒されて言葉を失った。
辰男はハッとして自分の失言の重さに気づき、顔からサッと血の気を引かせた。根っからの悪人ではない彼は、自分がどれほど無神経で残酷な言葉を吐いてしまったかを深く悟った。
「……悪かった。本当に悪かった、雅ちゃん、隼人の旦那」
辰男は酒の入ったグラスを置き、深々と頭を下げた。
「俺がバカだった。大病を患った人間の前で、とんでもない無神経なことを言っちまった。……許してくれとは言わねえ。酒のせいにもしねぇ。本当に申し訳なかった」
猛烈に怒鳴りつけられたことで深く反省し、心から謝罪する辰男の姿を見て、雅の肩の力が少しだけ抜けた。
雅はツカツカと隼人の隣まで歩み寄ると、その節くれだった分厚い手をガシッと掴んだ。
「お父さん、帰るよ」
「お、おい、雅……」
「病気なんだから、お酒なんか飲んでる場合じゃないでしょ。次こそはちゃんと病院に行くからね。これからは……私も一緒にその病気に向き合うから」
雅が涙声で宣言すると、頑固な昭和気質の隼人は、ひどく狼狽したように視線を泳がせた。
「ば、馬鹿野郎、親に向かって何を偉そうに……」
隼人はぶっきらぼうに悪態をつきながらも、その無骨な顔には隠しきれない照れくささと、安堵の光が微かに滲んでいた。娘に腕を引かれるまま、彼は素直に席を立ち上がった。
「弥生さん、お騒がせしました。ごちそうさま。葉那香……色々とありがとう」
「雅、また明日学校でね!」
葉那香と弥生に見送られながら、雅は隼人を連れて小料理屋を後にした。
夜の帳が下り始めた湊元町の路地を、不器用な親子の背中が並んで進んでいく。その距離は、以前よりもほんの少しだけ、近づいているように見えた。




