第12話 歩み寄る父娘
海風が少しずつ初夏の湿り気を帯びてきた汐見野市。
小料理屋「まき」での一件から数日後、八木澤家の空気はほんの少しだけ変わり始めていた。
土曜日の午後。雅は洗面所で、脱衣カゴに放り込まれたままになっていた父親の作業着を見下ろしていた。
長年、分厚い畳床と格闘してきた厚手の生地には、い草の青臭い香りと、汗や埃の匂いが深く染み付いている。匂いに敏感な雅が、いつもなら鼻をつまんで避けて通る代物だ。
(……父さん、今日も一日中部屋に引きこもってたな)
がんの宣告を受けて以来、隼人は仕事も手につかず、自室で塞ぎ込んでいる時間が長くなっていた。あの威勢の良かった大きな背中が、今は酷く小さく見える。
「私が一緒に病気に向き合うって、言ったんだし……」
雅は小さく呟くと、意を決してその作業着に手を伸ばした。
ザラリとした硬い布地の手触り。それは、父親が家族を養うために削ってきた時間そのものだった。
作業着を抱え上げ、洗濯機の蓋を開けようとしたその時だった。
「おい、何やってるんだ」
背後からぶっきらぼうな声が響いた。
振り返ると、無精髭を伸ばした隼人が、気まずそうな顔で立っていた。
「……何って、洗濯だけど」
「いい。それは俺がやる」
隼人は足早に近づくと、雅の腕から半ば強引に作業着を奪い取った。
「ちょっと、別に洗うくらい……」
「お前、その匂い嫌いだっただろ。それに、俺の着替えなんて自分で洗える。気を使わんでいい」
隼人は作業着を洗濯機に押し込みながら、乱暴に洗剤を計り入れた。その横顔には、娘に自分の汚れ物を触らせてしまったという照れ隠しと、男としての情けなさを隠そうとする意地が滲んでいた。
(相変わらず素直じゃないんだから……)
雅は奪い返された手を見つめ、小さく息を吐いた。
「……洗剤、それじゃ多すぎるよ。すすぎ一回モードにしとくからね」
「あ、ああ……悪い」
雅が洗濯機のボタンを押すと、水が注がれる音が響き始めた。
交わした言葉はわずかだったが、並んで洗濯機の前に立つ二人の間には、以前のような刺々しい空気はなかった。不器用な親子の歩み寄りが、確かにそこにあった。
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その日の夜。
夕食を終えたダイニングで、雅はシンクの前に立っていた。
スポンジに洗剤を含ませ、自分の使った茶碗と箸を洗う。いつもなら、自分の分だけをさっさと洗って自室に戻ってしまうところだ。
しかし、雅の視線は、水切りカゴの横に置かれた大きな茶碗と湯呑みに向けられていた。隼人がさっきまで使っていたものだ。
食欲がないのか、茶碗には米粒が少し残っていた。
(……しっかり食べないと、体力落ちるのに)
雅は無言のまま、隼人の茶碗を手に取った。
スポンジで丁寧に汚れを落とし、ぬるま湯で洗い流す。湯呑みについた茶渋も、指の腹でこすって綺麗にした。
キュッ、と洗い上がった食器を水切りカゴに伏せた時、背後に気配を感じた。
振り返ると、お茶を注ぎにきた隼人が、水切りカゴの中の自分の食器を見て、小さく目を丸くしていた。
「……」
「……」
二人の間に、静寂が落ちる。
隼人は何かを言おうとして口をモゴモゴとさせたが、結局気の利いた言葉は見つからなかったらしい。
「……わりぃな」
蚊の鳴くような、不器用な一言。
雅は顔を逸らし、タオルで手を拭きながら「別に。ついでだから」とだけ返した。
言葉数は少なくても、冷え切っていた家族の時計が、わずかにチクタクと音を立てて動き出しているのを感じていた。
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数日後。いよいよ、乳腺外科での本格的な検査と治療方針の相談に向かう日の朝。
八木澤家のダイニングには、朝から冷ややかな空気が漂っていた。
テーブルの半分には、相変わらず建築用の図面が広げられている。その横で、仕事用のスーツに身を包んだ母・莉子が、淡々とした手つきで茶封筒をテーブルに置いた。
「今日の検査と、当面の治療費。現金で多めに入れておいたから。足りなくなったらまた言って」
ダイニングの椅子に座り、強張った顔で下を向いている隼人に、莉子は事務的な声で告げた。
「……ああ」
隼人は答えたが、その声には何の覇気もなかった。男が女の病気で病院へ行くという、これから直面する現実の重さに、ただ耐えているようだった。
「あと、病院で渡される同意書や今後のスケジュールの書類は、必ず全部コピーをもらってきてね。私も目を通しておきたいから。それと……」
莉子は腕時計をチラリと見た。
「もし入院の手続きが必要になったら、個室を希望したらいいわ。大部屋だと周りに気を遣ってストレスになるでしょ。差額ベッド代とか気にしなくていいから」
「ちょっと待ってよ」
制服姿の雅が、たまらず声を上げた。
「お母さん、一緒に行かないの?今日、大事な検査の日なんだよ?」
莉子は図面を丸めてケースにしまいながら、眼鏡の奥の目を少しだけ細めた。
「私が行っても、治療が早まるわけじゃないでしょ?それに、今日はどうしても外せないコンペの打ち合わせがあるの。感情論で仕事を休んで、万が一プロジェクトが頓挫したら、誰がこの人の治療費を稼ぐの?」
「それはそうだけど……でも、父さんがどんな思いで病院に行くか……」
「雅、いいんだ」
隼人が低くしゃがれた声で遮った。
「こいつの言う通りだ。金は稼いでもらわねえと困る。俺一人で……行ってくる」
「父さん……だめっ。それなら私も一緒に行く」
莉子はカバンを手に取ると、感情を読み取れない声で言った。
「じゃあ、頼んだわよ。しっかり診てもらってきなさい。……行ってきます」
コツコツというヒールの音が玄関へ遠ざかり、重いドアが閉まる音が響いた。
静まり返ったダイニングに、封筒だけが残されている。
合理的で、一切の無駄がない妻の対応。金銭的な心配をさせないという彼女なりの優しさなのだろうが、強烈な羞恥心と恐怖に震える隼人の心には、何一つ寄り添ってくれているとは感じなかった。
隼人がテーブルの上の封筒を見つめたまま、微かに肩を震わせているのを、雅は見逃さなかった。
(父さん、ずっと一人でこんな思いを……)
雅はギュッと拳を握りしめた。
母の冷たさに怒りを覚えると同時に、自分がしっかりしなければという強い決意が胸に込み上げてくる。
「父さん」
雅は隼人の正面に立ち、真っ直ぐにその目を見た。
「私も行くから」
「……雅。お前は学校が……」
「学校なんてどうでもいい。一緒に行くって決めたの」
雅の強い眼差しに、隼人は反論する言葉を飲み込んだ。
その時、玄関のチャイムが軽快に鳴り響いた。
「おはようございまーす!おじさん、雅!迎えに来たよ!」
ドアの向こうから、葉那香の明るい声が聞こえてくる。
雅はふっと口元を緩め、隼人の腕を引いた。
「ほら、父さん。葉那香も付いてきてくれるって。行くよ」
頑固な職人は、娘に引かれるまま重い腰を上げた。男としてのプライドを粉々に砕かれるかもしれない場所へ向かう恐怖は消えない。だが、その背中を押す娘の小さな手は、確かに彼を孤独から救い出そうとしていた。




