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知己の父の乳がガン  作者: 団田図


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第13話 父の逃亡

 汐見野《しおみの》の海岸線に沿って走る、二両編成のディーゼル列車の中。

 ガタンゴトンという単調な走行音が響く車内で、隼人は作業帽を深くかぶり、腕を組んだまま硬く目を閉じていた。

 これから向かうのは、総合病院の乳腺外科だ。「男が女の病気にかかる」という事実を、いよいよ本格的な検査と治療という形で突きつけられる。男としての尊厳を切り刻まれるような恐怖と屈辱が、彼の全身を強張らせていた。


「それでね、昨日お母さんが仕入れた鰆《さわら》がすっごく大きくて!私、包丁の練習も兼ねて手伝ったんだけど、やっぱりお母さんみたいに薄く切れないんだよねー」

 重苦しい空気を振り払うように、葉那香《はなか》が持ち前の明るい声で隣の雅に話しかけていた。

「……葉那香って、本当に小料理屋の女将になる気なの?」

 雅が少し呆れたように返すと、葉那香は「えー、別にいいじゃん!」と屈託なく笑う。

 葉那香は、放送部のアナウンスで鍛えた聞き取りやすい声と、小料理屋で培った雑談力をフル稼働させていた。沈黙が続けば、隣に座る隼人が恐怖に押し潰されてしまうと直感していたからだ。

(葉那香……ありがとう)

 雅は親友の底抜けの明るさに内心で感謝しながら、向かいの席に座る父親を盗み見た。

 隼人の分厚い手には、独特の巻き方をした絆創膏が巻かれ、手のひらには硬いタコがある。その節くれだった大きな手が、今は膝の上で微かに震えているように見えた。

 家では誰よりも大きく、威圧的だった父親。その彼が、まるで迷子になった子供のように小さく縮こまっている。

 雅は、母の莉子が朝に見せた事務的な態度を思い出し、奥歯を噛み締めた。

(お母さんの言うことも正論だけど……父さんは今、ロボットみたいに割り切れる精神状態じゃないんだよ)


 +++


 総合病院に到着し、三人は広い院内を歩いて目的の科へと向かった。

 案内板に『乳腺外科』の文字が見えた瞬間、隼人の足がピタリと止まった。

「父さん?」

「……行くぞ」

 隼人は低く唸るように言い、絞首台へ向かう罪人のような足取りで自動ドアを抜けた。


 足を踏み入れた瞬間、隼人は胸の奥が押し潰されるような強烈な目眩を覚えた。

 一度は検査を受け、屈辱を耐え忍んだはずの場所だった。しかし、二度目だからといって慣れることなど到底できない。ピンク色で統一された内装も、壁に並ぶピンクリボンのポスターも、女性誌ばかりのマガジンラックも、泥臭い作業場で生きてきた隼人にとっては、息を吸うことすら憚られるほど異質な世界のままだった。

 そして何より、長椅子を埋めている患者たちは、あの日と変わらずほぼ百パーセントが女性だった。

 不安そうに順番を待つ彼女たちの視界の中へ、色褪せた作業着を身にまとい、畳を担ぎ続けてきた大柄な男が、再び異物のように入り込んできたのだ。


(なんだ、あのおじさん……)

(付き添いかしら。でも、場違いって感じ……)

 誰も実際に声には出していない。しかし、プライドが高い隼人の耳には、周囲の女性患者たちのヒソヒソとした囁き声が幻聴となって突き刺さってきた。


(なんで俺が、こんな場所にいなきゃならねえんだ……!)

 頑固な昭和気質の職人として生きてきた隼人にとって、女性ばかりのこの場に座らされることは、強烈な居心地の悪さと羞恥心を伴うものだった。

 隼人は一番隅の席に逃げるように腰を下ろし、帽子のツバを限界まで下げて顔を隠した。

「……父さん、大丈夫?」

 隣に座った雅が小声で尋ねるが、隼人は首を横に振るだけで精一杯だった。

 自分がまるで、見世物小屋の動物にでもなったかのような惨めさ。穴があったら入りたいという羞恥心が、彼の男としての自尊心を限界まで削り取っていく。


「おじさん、喉渇いてない?私、お茶買ってこようか」

 葉那香が気を遣って立ち上がろうとした時、診察室のドアが開き、看護師が顔を出した。


「八木澤さん。八木澤隼人さん、中待合へどうぞ」

 自分の名前が、女性ばかりの待合室に響き渡った。

 ビクッと隼人の肩が跳ねる。周囲の視線が一斉に自分に集まったような気がして、全身の毛穴から冷や汗が噴き出した。

「ほら、父さん。呼ばれたよ」

 雅と葉那香が立ち上がり、すっかり硬直している隼人の背中を押して送り出した。

「ああ……行ってくる」

 隼人は引きつった顔で立ち上がり、二人に背を向けて奥の扉へと進んでいった。


 +++


 中待合と呼ばれるスペースは、診察室のすぐ手前にある細長い廊下だった。

 そこにも数人の女性患者が丸椅子に座って待機していた。

 隼人が姿を現すと、女性たちの視線がチラリと彼に向けられ、すぐに居心地悪そうに逸らされた。

(女の病気にかかった、哀れな男だと思ってるんだろう……)

 隼人は壁際に立ち尽くした。

 丸椅子に座ることすら憚られた。自分の体に染みついたい草の匂いが、この消毒液と微かな香水の匂いが混ざる空間を汚しているような気がした。


『男の乳がんって珍しいわね。よくわからないけど、手術すれば治るんでしょ』


 妻・莉子の冷淡な声が脳裏に蘇る。

(俺は、心の通わないあの家で、生きてさえいればそれでいいのか。こんな惨めな思いをしてまで、生き恥を晒して……)

 診察室の中から、機械の駆動音と、医師と患者のボソボソとした話し声が漏れ聞こえてくる。次にあの中に入れば、また服を脱がされ、胸を弄られ、男としての尊厳を完全に剥奪されるのだ。


 ドクン、ドクンと、左胸のしこりが脈打つように痛んだ。

 恐怖と羞恥心が、ついに限界を突破した。

 待合室が女性ばかりであることに耐えられなくなった隼人は、無意識のうちに踵を返していた。

「……っ」

 誰にも気づかれないよう、息を殺して中待合を抜け出す。外の待合室で待つ雅たちの死角となる裏の非常階段を見つけると、隼人はそのまま病院から逃げるように姿を消してしまった。


 +++


 それから十五分が経過した。

 待合室の長椅子で雑誌をめくっていた雅と葉那香は、一向に出てこない隼人を待っていた。

「長いね。色々と詳しい検査してるのかな」

 葉那香が首を傾げた時、診察室の奥から先ほどの看護師が小走りで出てきた。

 看護師は待合室をぐるりと見渡し、困惑した表情で雅たちの元へやってきた。


「あの……八木澤隼人さんのご家族の方ですか?」

「はい、娘ですけど」

「お父様、中待合からいなくなってしまって……お手洗いにでも行かれたんでしょうか。お姿が見当たらないんです」

 看護師の言葉に、雅は心臓が冷たい手で鷲掴みにされたような衝撃を受けた。

「え……?」

 雅と葉那香は顔を見合わせ、同時に立ち上がった。

 周囲を見渡しても、あの大きな背中はどこにもない。トイレの方向を探しても、売店を見に行っても、隼人の姿はなかった。

「雅……これって」

 葉那香が震える声で言うと、雅は青ざめた顔で頷いた。

 二人は、隼人があの空間のプレッシャーに耐えきれず、恐怖から病院を逃げ出したのだと察した。


「嘘でしょ……父さん……」

 雅はガクンと膝の力が抜けそうになるのを必死に堪えた。

 呆れる気持ちよりも先に、強烈な後悔が波のように押し寄せてきた。

(私、わかってなかった……)

 朝、母親に反発して「私も一緒に行く」と啖呵を切った。親父を一人にしないと誓った。

 けれど、この女性ばかりの異質な空間に親父を置き去りにしてしまった。頑固でプライドが高く、これまでずっと自分を強く見せてきた男が、どれほどの絶望と孤独を抱えてあの場に立っていたのか。

 自分は「付き添う」というポーズをとっただけで、父親の心の底にある真の恐怖には、一ミリも寄り添えていなかったのだ。


「葉那香、探すの手伝って!父さん、そんな遠くには行ってないはず!」

 雅は血相を変えて走り出した。

「うん、手分けしよう!」

 葉那香も力強く頷き、二人は病院の出口へと向かって駆け出した。


 初夏の風が吹き抜ける汐見野の街に、雅の焦燥を孕んだ足音が響く。

(ごめん、父さん。ごめん……!)

 雅の瞳から、悔しさと後悔の涙が溢れそうになっていた。もう二度と、あんな思いで父を一人にさせないと、雅は心の中で強く誓いながら街中を走り続けていた。

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