第14話 高台の古い公園
汐見野市の入り組んだ路地を、雅と葉那香は息を切らして駆け抜けていた。
海から吹き上げる初夏の風が、二人の髪を乱す。額には汗が滲み、制服のブラウスが肌に張り付いていたが、立ち止まる余裕などなかった。
「父さん!」
雅は声を張り上げながら、駅前のアーケード街や、病院周辺の入り組んだ路地を探し回った。
「おじさーん!」
葉那香も道行く人に頭を下げながら、あの大きな背中を探す。しかし、平日昼下がりの閑散とした街並みに、色褪せた作業着の姿は見当たらない。
(どこに行ったの……父さん)
雅の胸の奥で、焦燥感と後悔が黒い渦のように巻いていた。
頑固でプライドが高く、これまでずっと家族の前で強がってきた父。その父が、女性ばかりのピンク色の待合室という異質な空間で、どれほどの絶望と孤独に打ちのめされたのか。逃げ出した背中が、限界を超えた悲鳴を上げていたことに、なぜもっと早く気づいてやれなかったのか。
「……っ、父さんごめん。お願いだから姿を見せて」
雅はギュッと唇を噛み締めた。
その時、ふと雅の脳裏にある光景がフラッシュバックした。
潮風が通り抜ける高台。錆びたブランコと、古びた木製のベンチがある小さな公園。
「……葉那香。もしかしたら、あそこかも」
「あそこって?」
「坂ノ上にある、古い公園。昔、父さんがよく私を連れて行ってくれた場所」
雅の言葉に、葉那香は力強く頷いた。
「行こう、雅!」
二人は再び走り出し、心臓破りの急な石段を駆け上がっていった。
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息も絶え絶えになりながら高台の公園に辿り着くと、木漏れ日の落ちるベンチに、見覚えのある背中が丸まっていた。
作業帽を深くかぶり、両手で顔を覆うようにして座り込んでいる隼人の姿だった。
「……父さん!」
雅が駆け寄ろうとした瞬間、葉那香がスッと雅の制服の袖を引いた。
「え?」
「私は、ここで待ってるから」
葉那香は少し離れた大木の陰を指差し、静かに微笑んだ。
以前、雅に「他人のくせに家族面しないで」と拒絶された記憶が、葉那香に適切な距離感を教えていた。今、あの不器用な父親に手を差し伸べるべきなのは、親友の自分ではなく、実の娘である雅なのだ。
「……ありがとう、葉那香」
雅は小さく頷き、一つ深呼吸をしてから、ベンチに座る父へとゆっくり歩み寄った。
足音に気づいたのか、隼人がビクッと肩を震わせて顔を上げた。
無精髭の伸びた顔は蒼白で、その目には明らかな恐怖と、逃げ出してしまった自分への激しい自己嫌悪が浮かんでいた。
「……雅」
「……探したんだからね」
雅は努めて平静な声を装い、隼人の隣に腰を下ろした。
漂ってくる、い草の青臭い匂い。昔から「臭い」と避けてきた匂いだが、今はその匂いがひどく懐かしく、切なく感じられた。
(昔は、あんなに大きく見えたのに……)
雅の脳裏に、幼い頃の記憶が蘇る。
転んで膝を擦りむいて泣きじゃくる幼い雅を、若き日の隼人が無言で抱き上げ、この公園のベンチに座らせてくれた。
『痛くねえ、痛くねえ。……すぐ治る』
ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、その節くれだった硬く大きな手は、信じられないほど優しく雅の頭を撫でてくれた。その時の温かさと安心感を、雅は今でも鮮明に覚えていた。
しかし今、隣に座る父親の背中は、あの頃とは比べ物にならないほど小さく、弱々しく見えた。
「……情けねえな、俺は」
長い沈黙の後、隼人がぽつりとこぼした。
その声はひどく掠れ、震えていた。
「俺は、男だぞ。それなのに、なんであんな女ばかりの待合室で……。周りの奴らが、俺をどんな目で見てたか……」
隼人は両手で頭を抱え込んだ。
「恥ずかしい……。男が女の病気にかかって、胸を切り刻まれるなんて……そんなの、恥ずかしくて生きていけねえ……!」
頑固な昭和の職人が、娘の前で初めて見せた、弱々しい本音だった。男としての尊厳を粉々に砕かれ、羞恥心に押し潰された悲痛な叫び。
その言葉を聞いた瞬間、雅の胸の奥で、せき止められていた感情が一気に溢れ出した。
頭を抱え、小さく震える父の姿を見つめる雅の瞳から、大粒の涙が静かに零れ落ちる。
雅はベンチからそっと降りて、隼人の正面に膝をついた。
そして、頭を抱えて震える父の、節くれだった分厚い両手に、自分の手を優しく重ねた。
「……恥ずかしいなんて、言わないでよ」
静かで、どこまでも穏やかな、諭すような声だった。
「周りの人がどう見るかなんて、どうでもいいよ。……父さんはね、私にとって世界にたった一人しかいない、代わりのきかないお父さんなんだから」
隼人がハッとして、濡れた目を微かに持ち上げる。
「私、ずっと酷いことばかり言ってきたよね。青臭いとか、手がガサガサでみっともないとか、昭和の頑固親父だとか……たくさん傷つけて、本当にごめんなさい」
雅は父の硬い手を包み込むように両手で握りしめ、涙を流しながらも、柔らかく微笑みかけた。
「でもね、父さんがどれだけ家族のために身体を張って畳を打ってきたか、どれだけ偉大なお父さんだったのか……私、最近になってやっと気付けたの。本当に、遅すぎるよね」
「雅……お前……」
「せっかくお父さんのすごさに気付いたばかりなのに……いなくなっちゃうなんて、絶対に嫌だよ」
雅の声は、静かに、けれど切実な懇願となって隼人の胸に染み渡っていく。
「お願いだから、もっと親孝行させてよ。お父さんの打つ畳のことも、その大きな手の温かさも、もっと知りたいの。私、お父さんにまだ何一つ恩返しできてないんだよ……?」
父親としての存在を心から求め、失うことを恐れる娘の、飾らない本音だった。
そこには父親を責める刃など一つもなく、ただ、無条件の愛情と敬意に満ちた眼差しがあった。
「……だから、生きることから逃げないで。恥ずかしくなんてないよ。病気と闘って生きようとすることが、どうして恥ずかしいの?どんな姿になったって、父さんは私の自慢のお父さんなんだから」
雅は父の手を自分の頬へとそっと引き寄せ、慈しむように寄り添った。
手の甲に伝わる娘の涙の熱さと、柔らかな温もり。
隼人の胸の奥で、頑なに凝り固まっていた羞恥心や、ちっぽけな男のプライドが、音を立てて溶け崩れていった。
(俺は……何を怖がっていたんだ)
他人の目線や、男の体面。そんなくだらないもののために、これほどまでに自分を必要とし、慕ってくれる娘を悲しませていたのか。
職人としてではなく、一人の「父親」として、この子のために生きたい。
その強い想いが、絶望の暗闇から隼人の心を力強く引き上げた。
「……悪かった」
隼人は掠れた声で呟き、震える指先で、そっと雅の濡れた頬を拭った。
その手はまだおぼつかなかったが、そこには確かに、娘を包み込もうとする父親の温もりが戻っていた。
「雅……俺が悪かったよ。情けねえ親父で、すまなかった」
「ううん……」
「逃げねえよ。……もう、絶対に逃げねえ。お前の親父として、ちゃんと生きてやる」
その顔から、先ほどまでの怯えや羞恥心は消え去っていた。娘の温かい心に救われ、腹を括った、かつての力強い父親の表情だった。
「病院……戻るぞ。ちゃんと、診てもらう」
「うん……!私も、ずっと隣にいるからね」
雅は袖口で涙を拭い、満面の笑みで力強く頷いた。
少し離れた大木の陰から、その様子を見守っていた葉那香も、そっと目元を拭っていた。
娘としての深い愛で包み込み、父の折れかけた尊厳をすくい上げた雅。
初夏の木漏れ日が降り注ぐ古い公園で、不器用な親子の時計が、今度こそ優しく、確かな音を立てて動き始めたのだった。




